ネパールコーヒー物語 verda11
地域開発 人が人らしく生きるために
人生を変えたネパールコーヒー
文・ネパリ・バザーロ副会長 丑久保完二
人生は、時として自分の意思とは別に思いもよらない方向にいくことがある。若い時に感じたこと、様々な体験を経て感じること、その全ての想いを包み込みながら新しい展開に出会うことがある。それは、大げさに言えば、時代が私たちを必要としている方向へ舵取りしているかのようだ。大自然、宇宙の中での一瞬の出来事、それは小さいけれども一人一人に与えられた大切な人生のドラマだ。フェアトレードという活動も、その「時の目」から覗いたらどう見えるのだろう。現在から過去へタイム・トラベルをしてみることにしよう。
ネパールのコーヒー栽培の歴史
ネパールで初めてコーヒーが栽培されたのは1944年頃のこと。インドから持ち込まれたアラビカ種の種を、ルンビニ地方のグルミ地区で、2~3人の農夫が植えたのが始まりです。今でも、その木は、村の中で大切にされています。その後、何年かして、グルミ地区農業開発銀行の融資を受け、コーヒーの苗場が作られ、広く栽培されるようになりました。最近では、ネパールの各地で栽培されるようになり、パルパ、バグルン、ゴルカ、チトワン、ジャパ、イラム、ミャグディなど15カ所以上になっています。
ネパリ・バザーロがお付き合いしているグルミ、アルガカンチ地区では、コーヒーは余った土地を利用しての換金作物として広がってきました。大変奥地で、化学肥料は使用していません。殆どの農民は、牛糞を肥料としています。また、政府もコーヒー生産を推奨したので、今では質の高いコーヒーが採れるようになりました。約7年前に、ネパリ・バザーロがグルミを訪れ、購入協定を結びましたが、その頃は市場がなく、農民は木を切らねばならない状態でした。いまでは継続的にコーヒーを売り収入を得ることができます。日本では県レベルの広大な範囲に電話はわずか1本。その地域の特性を活かすために、有機(自然農法)栽培をその特長として進めています。政情不安が続く中、その原因の一つ、アウトカースト(身分制度で低い、経済的にも困窮している人々)を考慮し、常にそのような人々を巻き込むようにこの活動は続けられています。
持続可能な社会と地域の自立を求めて
フェアトレード組織であるネパリ・バザーロは、何年もの間、生産者グループから、手工芸品、紅茶、コーヒーを直接購入し続けています。そのネパリ・バザーロの努力は、農村部の雇用創出というだけでなく、ヒマラヤの環境を守るという意味でも大変に意義あることです。
もし、ネパールの産物が適切な市場に提供できるのであれば、貧しさはそれほど問題にはならないでしょう。外国からの援助は、このネパールではあまり効果が得られていません。厳しくいえば、適切な支援が農村部にまでは及んでいないからです。輸出可能な産物を作る農村部の小さな生産者の市場を広げることは、経済的にも、社会的、文化的向上にも繋がります。ネパールの基本的な要求は、援助ではなく貿易です。
これら小さな生産者の作った新鮮でエキゾチックな嗜好品を飲んで、彼らの生活の維持と美しいヒマラヤの環境を保護し、作り手と使い手が共に喜び合える関係にありたいものです。電話もわずかで連絡を取ることすら難しいこの地で生きる人々が自然農法に従って作る作物。それは、天の恵みといえるでしょう。
遠く離れた農家を一軒、一軒。山、また山を歩きながら集められるコーヒー。汗水流しながら訪ね歩き、交渉し、時には生産調整を行いながら続けているこの地道な作業は、きっと明るい将来を築くにちがいありません。
ネパリ・バザーロのフェアトレードに携わる人々
ネパリ・バザーロの活動の歴史を語るとしたら、コーヒーの話もしなければならないでしょう。そのストーリーの裏には、2人の人生の転機がありました。一人は、ネパール全体のコーヒー調査に協力し、常にネパリを適切な方向へと導いてくれたカーゴ会社(輸出入業)を営むディリー・トュラダール(以下ディリー)。そして、ネパリ副代表の丑久保完二(以下完二)。その2人から、人生の転機になったコーヒーの話を語ってもらいました。
≪ディリー・トゥラダール リチューアル・フライト社長≫
カーゴ会社に勤める傍ら、学校で学び力をつけ、独立して会社を設立した実力派。信条は、「信頼」、「社会に尽くすこと」。亡き父の言葉、「貧しくても嘘は絶対につくな」が彼の宝。ネパリ・バザーロと共に歩み、陰からその活動を支えた大きな存在。優良カーゴ業者として政府から表彰を受けた。
≪丑久保完二 ネパリ・バザーロ副会長≫
電機メーカーで、コンピューターの開発に従事していた。国際語エスペラントを使い、アマチュア無線で交信する大平洋州エスペラントクラブの技術相談員。(社)日本ネパール協会前理事。代表と協力して、ネパリ・バザーロを設立。コーヒー、紅茶、スパイス、ヘナなど遠隔地の生産者を担当。持ち前の体力で代表を支える。2003年7月5日、ネパール全国協同組合からコーヒーの貢献で表彰された。
コーヒーの輸入と失職
土屋春代(以下春代) ネパリ・バザーロがコーヒーを輸入したのは、1994年9月。ネパールで初めての正式な輸出でした。
ディリー 植物検疫証明がないと日本に輸出できないのですが、当時は初めてのことで、どこでこの証明書を発行してくれるのか分からず、探し回りました。農業関係の専門家のアドバイスをもらいながら政府関係事務所を20ヶ所以上も訪ね歩きました。
完二 日本では輸入禁止アイテムではないかとネパール政府から問合せもありましたね。チェリー(赤い実)のままでは輸入禁止ですが、中の豆であれば輸入できます。そのことを証明するのに貿易白書を現地へ送りました。
春代 コーヒーに関わるようになったのは、市場がみつからず、農民が困っている、折角育った木を切り倒していると知ったことが出発点でした。日本では、まずローストしてくれる工場を探しました。どうやって探してよいか分からず、いろいろな人に相談し、紹介されたのが「フレンドコーヒー」常務の萩谷さんでした。萩谷さんは事情を聞くと「分かった。私がやろう」と快諾。おいしいコーヒーができ、希望が湧いてきました。それからは販路を求めて、東京、仙台、岐阜などの自然食品店一店一店に、コーヒーを車に載せて飛び込みでお願いに回りました。強行軍で、腰を痛めるし、ハンディクラフトには力を入れられず、販売額が前年を大幅に下回り、資金的にも体力的にも大変な年でした。
ディリー その頃、私は中堅のカーゴ会社でマネージャーをしていました。このコーヒーのことで、本来の仕事以上のことをしている、とボスから叱られました。あまりの熱意に、何かお金を貰っているのではと疑われました。
完二 そこまで知りませんでした。
ディリー それでも、コーヒーは一個人ではなく、きっとネパールの将来のためになると思い、一所懸命にフォローしました。それで、ボスは非常に怒り、仕方なく、6ヶ月したら辞めますと伝えましたが、その期間が来る前に辞めさせられました。コーヒーを初めて輸出した年の12月のことです。
春代 その会社では14歳から働き始め、掃除、お茶くみなど下働きから、仕事ぶりが認められ昇格、約10年してマネージャーに。給与も最初の1300円から7000円と高給になっていましたね。
ディリー そうです。今でも思うのですが、何もなければそこでずっと働いていたと思いますよ。でも、突然辞めさせられて、困りました。その時の所持金は3000円。自宅でタイプライターをおいて、できることから始めようと思いました。長く担当していた海外のお客さまから電話を頂き、応援するから起業しろと励まされました。
カーゴ会社設立へ
完二 設立資金はどうされたのですか?
ディリー 友人が電話センターをしていたので、後でお金を返す約束で、電話、FAX代も含めて借りました。約16万円でした。
春代 事務所を開いたとき、ネパリにもお付き合いをお願いしたいと連絡がありましたね。
完二 その頃、私たちのコーヒー輸入が原因でディリーが辞めさせられたなんて考えもしませんでした。当時お付き合いしていた会社で特に問題が発生したわけでもなかったので、すぐには切り替えられなかったですね。ディリーが良い仕事をしてくれて信頼できるとは感じていました。しかし直ぐ事件が起きました。ネパリがコーヒー代金をいつものように払い込み、生産者に支払うよう依頼したが払われない。ディリーが持ち逃げしたなどと言うので、急ぎ、ネパールへ飛び、事情を確認しました。
ディリー そして全てを理解し、私の会社との取引が始まったのですね。そういう慎重なバイヤーでなければ、私も信用できません。きちんと事情を調べることは大切なことです。ネパリは今でもスペシャルです。仕事の仕方から生産者の選び方、付き合い方、全てが。生産者のこと、ネパールのことをこれほど考えて仕事をするところは他にはありません。
春代 あの頃、ディリーは若かったから起業するのは大変でしたね。
ディリー 私は若く、資金力もないから、もし、預けたお金を無くしたらどうなるのだと、あるバイヤーに厳しく言われたり、辛いことも色々ありましたが、嬉しいこともたくさんありました。ネパリ・バザーロも信用状を書いてくれましたね。20通の信用状、それが、大きな財産であり原動力でした。95年1月1日、今のタメルにリチューアル・フライトという事務所を開き、今日に至ります。
完二 コーヒーが人生を変えたわけですね。
ディリー そうです。コーヒーがなければ、今の自分はありません。だからコーヒーは私にとって特別なものなのです。
二足のわらじとコーヒー取引の危機
春代 このようにして94年秋から始まったコーヒー取引ですが、取引が進むにつれ、生産農家と私たちの間に入った仲介人との信頼関係がうまく構築できず困った時期がありました。97年春頃です。
完二 その頃、私は、ネパリと他の会社の二足のわらじ生活でした。休日と会社から帰宅後の夜が私の活躍の場で、家族、特に、子どもたち、義母には大変迷惑をかけたと思います。睡眠3、4時間の生活。今写真で当時の顔を見るとかなり衰弱してみえます(笑)。
春代 現地の状況を知ってもらいたくても、現場を知らない人には、その危機状況が伝わらない。それを、どう説明したらわかってもらえるのか苦しみました。
完二 生産者の一人、ムニールは、「春代にこんな大変なことをさせて、完二は日本の優雅なオフィスでのんびりお茶を飲んでいるのだろう」と春代さんのことを心配していましたね。なかなかお互いの現場の実情を理解するというのは大変です。コーヒーは、当時でも危険な場所や奥地で栽培されていて、春代さんがひとりで行くことはできず、更に国際フェアトレード連盟への加盟、神奈川県地球市民かながわプラザでの直営店オープンの話も重なり、二足のわらじは限界にきていました。
春代 そこに遠方への転勤命令も出てついに決断を迫られました。退職した後の経済面をとても心配していましたね。
完二 フェアトレードの仕事に使える時間が限界に来ていました。本業もこれ以上迷惑がかけられません。この活動に入った40代前半頃、バドミントンで神奈川県大会に優勝し、おもしろい時期でしたが、距離を置かざるを得なかったですね。エスペラント語雑誌の編集などのボランティアの仕事も行う余裕がなくなりました。どんどん時間がなくなり、最後の選択を迫られたという具合です。
ディリー 追い詰められてからの判断、実行という意味では、私と同じですね。
完二 そうです。あまりかっこよくないですね。私が今の人生を選択したというより、コーヒーが私の人生を変えたと思います。
春代 コーヒー輸入は、その頃、取引を中止するかどうかという岐路でした。
完二 ディリーの親戚に農業情報に詳しい方がポカラにいるというのでお会いして、その紹介でポカラの静かな一角にあるリイバードというイタリア系農業関係NGOに足を運び、情報を集めました。以後、カトマンズの紅茶コーヒー委員会を始めコーヒー協会と言われるところは色々と訪ね歩き調査をしました。ネパール商工会議所の農産物事業センター、ネパールにある日本の国際協力事業団、新宿の青年海外協力隊事務所にも行き、情報収集に努めました。
グルミ協同組合とのお付き合い
春代 それで、コーヒーの実態がみえてきたという感じですね。現在取引しているグルミという地域は、コーヒー生産をしている地域の中でも西ネパールの奥地ですね。
完二 そうです。お付き合いを始めたのは、グルミ地域協同組合です。初めて訪問した時は、お金もなく、カトマンズから夜行バスを使いました。ガラスが割れていて夜風は寒かったです。ネパール語もまだ日本で習いたての頃で、うまく話せず、村から来た案内役と離れたら迷ってしまうので必死でした。トイレに行くのもぴったり。いつも、私がぴったりいるので、彼、困っていましたね。私も困りましたが。そのことばかりが鮮烈に記憶に残っています(笑)。次のときは、時間の節約もありランドクルーザーをカトマンズから借りて行きました。運転手は、反政府勢力が活動している所に近いので怖がっていました。運搬手段、つまり、流通も考えなくてはなりませんでした。
ディリー 遠方なので、コーヒーの実のままで運ぶと、運搬費用もかかります。なんとか、村で皮むきと豆の選別をする必要がありました。そのため、機械設置の話も進めました。
完二 設備を持ち、農民からチェリーを買い上げ、私たちへの販売価格をコントロールするミドルマンの暗躍を除くにも、皮むき機の設置は必須でした。
春代 将来のため、質をあげ、付加価値をつけていこうと考え、その第一段階として、有機証明の取得も考えました。
完二 98年6月のことです。NASAAというオーストラリアの有機証明機関からアンドリュー・モンク氏を連れて村に調査に入りました。コーヒーではネパール史上初のことです。その時の土壌はオーストラリアまで運ばれ、テストされました。結果は良好。
新しい市場の創出
ディリー 昨年の輸出量は12トン。植物検疫証明品目順位では、昨年度の実績ナンバーワンでした。そのほぼ全量がネパリ・バザーロ輸入分です。
完二 そうですね。でも、私たちの力も限界に来ていますから、より良い品質にしていくこと、それと合わせて、ネパール国内市場の創出という課題があります。そこまで行かないと成功とはいわないですね。
ディリー 輸出レベルには満たない豆の有効利用として、ローストし、粉で販売することも試行してみましたが、国内はロースト用の豆のニーズしかなく、粉にした豆の需要は十分ではありません。高級ホテルでも、美味しいコーヒーを出すところは限られているので将来の可能性としてはありますが、一番の狙いはインスタントコーヒーの市場です。
完二 そうですね。ネパールで採れる豆なら、ネパール産のインスタントコーヒーが欲しいですね。インドから買っているインスタントコーヒー代でみれば、1千万円ぐらいのものでしょうか。市場は小さいですが、将来への投資という意味では価値があります。
ハイテクからローテクへ
春代 世界の大国と競合しながら、ネパールらしさを出して生き抜く自立への道が何かですね。「ハイテクからローテクへ」がキーワードと思います。
完二 そうです。東ネパール奥地の紅茶農園の奨学金モニタリングで現地に行った際に、地域教育省に伺ったのですが、その時も、子どもたちに夢を教えるとしたら、ということで教育方針などの話題になり、その話をしました。かなり盛り上がりましたよ。ネパールでは、技術最優先の教育、英語偏重の傾向がありますが、それでは、アメリカはもとより、隣国である中国やインドに永遠に勝てないでしょう。せっかく教育を受けても若者がハイテクのない農村を嫌い都会へ出て行ってしまうでしょう。世界をみても化学的なものを含まない安全な紙は、ここネパールにしかないと言われています。効率を優先せず、必要以上の品質を目指さなかったからこそ残せた財産です。教育、人づくりも、そのキーワードを忘れてはいけないように感じています。農産物を大切に育てることもそうですね。
コーヒーによる貢献
春代 コーヒーは、生産から流通までのシステム作りもこれからで課題がいっぱいですが、カトマンズでも多くの人に貢献していますね。
ディリー 私の会社は3人でスタートして、今、スタッフ18人になりました。3人の女性と15人の男性です。それとは別に、コーヒーの選別を専門にする女性が4人います。村でももちろん選別をしていますが、届いたコーヒーを更に選別して注意深く袋詰めしています。その仕事は家で姉のケサリーが担当しています。
春代 そこではどういう人が働いていますか?
ディリー そこで働く女性たちは、夫が亡くなり他に生活手段のない女性や生活の厳しい人達です。彼女たちの心配は、コーヒーの仕事が切れること。仕事が少なくなって来たところへ、村からコーヒーが届くと拍手がおこります。生活がかかっていますからね。昨年、夫を亡くしたチャンパさん(27歳)は、13歳と8歳の息子さんがいます。タンコチェクプス村というところに小さな部屋を借りて、バスで1時間かけて通っています。
春代 6畳ぐらいの、よく整頓された清潔感のある部屋でしたね。自分でレース編みをして、部屋を綺麗に飾っていました。お訪ねして、暮らしぶりを見て、この人なら、きちんと仕事をしてくれると思いました。
ディリー 彼女には、コーヒーの仕事がない時には、家事手伝いをしてもらい、収入が途絶えないようにしています。
完二 コーヒーの仕事も、その関わっている人の生活を知ると慎重になりますね。がんばらないといけないですね。市場を広げるには、私たちが農民から購入している現在の買取価格を適正な価格まで下げなければなりません。今は世界一高いですからね。
ディリー わかります。先をみて考えないといけないですね。それで、農民に実態を知ってもらうには言いなりになるのではなく、長期的視野に立ってイニシアティブを取ることが必要です。時には買取量を減らさざるを得ないこともあります。彼女たちに「今年は、あまり買えないそうだよ」と言ったら、皆、ショックでシーンと静まりかえってしまいました。
完二 生活がかかっていますからね。多くの人のことを考えると辛いです。村でも、反政府勢力の活動が広がっていますから、確実な販路は私たちだけ。お互いに協力して、なんとか販路を広げたいと思います。
春代 ディリーさんの事務所では、どうですか。
ディリー ネパリ・バザーロの窓口として、このコーヒーとともに育ってきた女性スタッフがいます。いつでも一所懸命でしたので、英語ができるように学校へ行かせたりもしました。ご両親は、ネパールでは例外的な恋愛結婚。昨年、彼女の父親が亡くなりましたが、親戚は誰もサポートしてくれず、お葬式を出すにも困りました。それで、私がお金の工面をしました。
完二 それはひどいですね。親戚がいるから、残された家族は女性たちだけでも大丈夫かと思っていました。
ディリー 両親、親戚の反対を押し切って結婚すると親戚からの支援は一切受けられません。物価の高いこのカトマンズで母親とのふたり暮しを、誠実に働いて自分の力で支えているのですから、拍手を贈りたいです。彼女はバンダ(*注)でも、外国のお客様のことを考えて事務所に来ます。
春代 アンジェナさんは本当に、真剣に働きますね。
完二 コーヒーのことでディリーと話をして遅くなっても、彼女はその話が終わり、私が帰るまで事務所にいます。お客様に対する心遣いです。
ディリー 事務所での昇格、昇給の機会はまずスタッフ全員に平等に与えます。選択するのは個々人ですから。自由(自分で考え仕事をする)、そして自立(将来独立する)を願っていますが、多くの人は言われないとしませんね。彼女はがんばっています。そのような場を与えてくれたネパリの仕事に、そしてコーヒーの仕事にも感謝しています。遠く日本からここまで足を運び、私たちのことを考え共に生きる姿勢は他のバイヤーにはありません。そのことに、心よりお礼を申し上げたいと思います。
完二 機会があれば、遠隔の村の様子もこんど紹介したいですね。そこでも、コーヒーで人生を変えた人達がいますよ。これからの農業のあり方も含めてご紹介できたらと思います。今日は、どうもありがとうございました。
(注)バンダ 政治がらみで強制的に営業停止させられる日。
(Verda 2004秋冬 vol.11より)