ありがとう!コットンクラフト tsumugu6 2018s
ともに歩んだ道のりとこれから
23年間ネパリの服を作り続けてくれた、「コットンクラフト」代表のサラダさんが引退されることになりました。
これまでの感謝を込めて、その歩みを振り返ります。
意欲に燃えいつも新しいことに挑戦し服を作ってきたコットンクラフトは、生産者の中でも品質の高さで群を抜いていました。
23年間、サラダさんといろいろなことを相談し合い、時には議論もしながら共に歩み、プライベートな悩みや喜びも共有してきました。
特に印象に残っている言葉があります。コスト計算が常にギリギリで少ない利益で回していると感じ、やっていけるのかと心配して聞くと「目先の利益よりも継続できる仕事が欲しい」とはっきり言ってくれたのです。NGOでもなく、フェアトレードらしき言葉もほとんど口にしないサラダさんですが、この人となら一緒に仕事ができると、その時確信しました。
サラダさんは朝起きて、夜寝るまでずっとコットンクフトの仕事のことばかり考えていると言い、仲間の女性起業家たちが雑誌に載ったり、華々しく受賞したり、公職に就いて多忙を極めているのを見ると自分には能力がないのかと落ち込むことがあると洩らしたことがあります。いえいえ、とんでもない。サラダさんの能力と熱意、努力がなければコットンクラフトもネパリ・バザーロもここまでこられませんでした。コットンクラフトの高い品質があればこそ、ネパリの商品全体の評価も上がり、ここで働く人だけでなく、他の生産者にも貢献してきました。仕事をする環境が整わず、認識のギャップも大きく、物づくりが大変なネパールで、私がくじけないでこられたのも、日本市場に通用する実力のある人がいることを知っていたから、高い品質水準の達成もやればできるということを自分の目で見て知っていたからです。いつも信頼に応え、期待を裏切らなかったサラダさんに心から感謝しています。
そんなしっかり者のサラダさんも2015年の大地震の直後、心配して訪ねた私を見た時、駆け寄ってきて抱きつき、泣き崩れました。どれほど不安で心細かったことかと胸を衝かれました。
二人の息子はアメリカ留学後そのまま現地に住んでいて、気力体力の低下を自覚したサラダさんは、先々息子家族と暮らす生活を考えるようになり、後継者が育たなかったコットンクラフトを廃業する決心をしました。10年間継続したセービングファンドを退職金とし、ワーカーさんたちの同意を得て、2018年春、生産者を卒業します。コットンクラフトの縫製技術の高さは有名で絶大な信頼があるので、女性たちは再就職には困りません。ブティックや縫製工房などから引く手数多です。ありがとうコットンクラフト!ありがとうサラダさん!
●2008年4月の対談を再度掲載いたします。
コットンクラフト代表 サラダ・ラジカルニカル
ネパリ・バザーロ会長 土屋春代
ネパリとの出会い
土屋春代(以下春代) 形を変えられる木綿のバッグを提案され、ひと目見て気に入り、直ぐ100枚オーダーしたのは1995年の12月のことでしたね。「サラダさんの不思議バッグ」と命名して販売したそのバッグは大ヒットしました。追加、追加でしたね。
サラダ・ラジカルニカル(以下サラダ) あのバッグはそれまで全然売れず、ネパリが気に入ってくれ、すごく売れて助かりました。その頃、製品の販売にとても苦労していました。
春代 初めは不思議バッグ、つぎにペンケースや財布。その後、ヘンプスリッパとどんどんアイテムも増やしましたね。コットンクラフトは、いつ始めたのですか?
サラダ 1993年です。その頃は3人でした。ラクシュミさん、ミナさんと私です。
春代 ラクシュミさんのことは、よく覚えています。夫を亡くし、働きながら息子さんを育てていらっしゃいました。その後「僕が働くから、これからは母さんに楽をしてほしい」という、成人し働き始めた息子さんの願いで仕事をお辞めになったのでしたね。
最初の頃は小物ばかりで、服を作りませんかと聞いても断られましたが、服作りを始めてからの成長はすごかったですね。
サラダ 1999年秋の日本での研修後、服を作ろうと思うようになりました。それまでは、服作りはリスクが多く、投資する力もなく、アイディアもないのでできませんでした。日本に呼ばれいろいろなお店を回り、自分でも作れそうなものもあったので始めましたが、最初はとても大変でした。経験がなかったので、ネパリからトレーニングを受けなければ続けてこられませんでした。
春代 2002年春に発売したピンタックをたくさん入れたブラウスが大ヒットして、お互い服作りに自信がもてましたね。あのブラウスは働く人に毎月一定量の仕事が出せるように、 オーダーが少ない時期にも仕事が減らないようにと考えてデザインしました。そして、サラダさんの物作りに対する姿勢、細部まで決して手を抜かない誠実さが見事に発揮され、その後の企画の方向性が決まりました。
コットンクラフトを始めたきっかけ
春代 なぜコットンクラフトを始めたのですか?
サラダ 元々、ビジネスをすることも、仕事をすることも好きでした。私の家も親戚も商売をする人が多かったので、特別なことではありませんでした。父は女性も仕事をもちなさいという人だったのですが、娘の中で実際にしたのは私だけで、大変喜んでくれました。
春代 コットンクラフトは初めての仕事ですか?
サラダ 美術学校で学び、ハンディクラフトが好きだったので、クッションの布などの上にペイントをする仕事をしましたが、成功はしませんでした。手で描くので時間がかかるし、高くなるので売れませんでした。
春代 サラダさんは結婚後、夫のバドリさんの仕事のため、遠方の村々に住んでいらしたことがありますが、その頃の生活はいかがでしたか?今の仕事に役立っていることはありますか?
サラダ 結婚3ヶ月後、東ネパール、サンクワサバから近いボーズフルという村に赴任し、4年暮らしました。電気も道路もなく、トゥムリンタール空港から徒歩3日かかりました。当時はボーズフルに空港がなく、徒歩しか移動手段がありませんでした。西ネパールのバグルンに4年。ポカラにも居ました。遠隔地の村では病院もなく、息子が高熱を出した時、夫がカトマンズに出張していて本当に心細く、戻る日を待ちわびたことがありました。夫が帰ってくる日、息子を抱いて飛行場で待っていると、カトマンズから乗ってきた飛行機が天候悪化で着陸できず、そのまま引き返してしまい空を見上げて泣きました。
でも、村に居る時は、時間はたくさんあったのでよくレース編みをしました。ポカラではボランティアで小学校教師をしていました。都会から遠く離れた村で生活した経験や女性たちの生活の厳しさをみてきたことから、パタンに戻った時、自分の好きな事で少しでも困っている女性たちの力になりたいと思いました。遠方の村の女性たちばかりでなく、町に住む女性たちにも苦労はたくさんありますから。
春代 ネパリ・バザーロは高い品質の商品を作るため厳しい要求もしていますが、大変ですか?
サラダ 私自身も日本のマーケットを見て、よほど高い品質のものを作らなければだめだと知っています。でも、ネパリは要求するだけでなく、できるように導いてくれますから信頼してついてこられました。品質だけでなく、仕事の仕方や管理についてもネパリから本当にたくさんのことを学びました。そうでなければとても成功しませんでした。起業したもののネパリと出会う前は順調にはいかず、WEANコープ(注1)を知ってメンバーになり、経営者として必要な知識を学びましたが、販路は開けませんでした。売ることは本当に大変です。
セービングファンドについて
春代 服作りを始めてから変化織りや柿渋、いろいろ新しいことをしてきましたね。これからもがんばってお客様に喜んでいただける服作りをしたいと思います。ネパリの服をとても気に入ってくださる方が増えていますよ。
サラダ 私もレース織りや綾織りなどの風合いがとても気に入って、自分でも着てみたくなりいろいろ作りました。夏は涼しく、冬は暖かく、着心地がよくて、本当に自然素材や手織りの良さが分かりました。
春代 2008年の4月から一挙に41名のセービングファンド(注2)を始めましたが、どう感じていらっしゃいますか?
サラダ これほど大きなファンドを自分たちでは創ることはできませんから、とても嬉しいです。そもそも、ファンドを考えもしませんでした。働く皆の将来に役立つし、すごく喜んでいる様子を見て、私も充実感や誇りを感じ、経営者としての自信をもちました。
春代 このファンドは支えてくださるメンバーやボランティアの皆さんからのサポート無しにはできません。多くの人の協力があります。
サラダ 外国政府からの援助資金はここネパールに来てからどこに行ってしまうのでしょう。出し方の問題があるのでしょう。本当に困っている人に届きません。でも、このセービングファンドは直接本人に渡ります。
好きな言葉
春代 サラダさんの好きな言葉は何ですか?そして、理由を教えてください。
サラダ (しばらく考えて)WE。それは、人はひとりでは何もできないから。これまでやってこられたのも私たち、力を合わせてきたからです。最初からネパリ・バザーロと仕事をしているし、最後まで一緒にがんばっていきたいと思っています。
春代 地域の女性グループに呼ばれてお話をしたとお聞きしましたが、成功モデルとして皆さんが興味を持たれているのでしょうね。
サラダ 多くの人はお金が第一、仕事はその次ですが、私は、第一に仕事、その次に収入です。それが成功に導いてくれたのでは、とお話をしました。女性は家の中で家族のためだけに生きるものと思っている人が多いのですが、可能性がたくさんあり、がんばれば実現すると信じています。どんどん挑戦してくれる女性が増えるとうれしいです。
春代 今日はどうもありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いします!
●大人気のピンタックブラウス
現場の仕事量を一定に保てるように、発注が足りない時は布にひたすらピンタックをかけておくようにサラダさんに伝えました。女性たちは、足踏みミシンを使い、慣れた手つきで正確にピンタックを入れていきます。根気と手間のかかる作業から生まれたブラウスは、最高に贅沢な逸品でした。
●レース織り
2004年、日本の染織作家の技術指導を行いました。初めて織り上げたレースのような美しい布を見て、女性たちは「きれい!」と歓声をあげていました。誇らしそうな表情が忘れられません。2005年に2回目の指導を実施し、桃山織りや綾織り、もしゃ織り、バードアイなど、手織りの良さが活かされたふっくらとした表情の布が次々と生まれました。レース織りの技術は、別の手織り工房に引き継がれています。
●停電と足踏みミシン
長い時は1日16時間もの停電に悩まされていたネパール。窓から入る光を頼りに、足踏みミシンで一枚一枚丁寧に仕上げています。
●手仕事と柿渋染め
手刺繍や手編みのレースなど、手仕事をいかした商品を共に作ってきました。柿渋染めにも挑戦しました。
セービングファンドの契約書にひとりひとり署名をしました。