ネパールコーヒー物語 tsuna07
地域開発 人が人らしく生きるために
2つの村のネパールコーヒー物語
文・ネパリ・バザーロ副会長 丑久保完二
シリンゲ村のコーヒーの状況
ここ数年、シリンゲ村のコーヒーは病虫の被害を受け、農薬を一切使わないため生産量が激減しています。2017年12月末シリンゲ村を訪ねましたが、実のつき具合はあまり良くなく回復するのにまだ1〜2年は辛抱しなければならなさそうです。
スパイス・プロジェクトをスタート
ネパールの農村部も、若者は町に出てしまい高齢化を迎えています。シリンゲ村でも同様です。若者が町の生活に馴染めず戻ってきても、収入の道がなく、結局また都会に出てしまうのです。そこでコーヒーに加えてスパイスも栽培することで、収穫不良などのリスクを分散し、現金収入の底上げをしていくプロジェクトをスタートしました。最初に唐辛子、ガーリック、そしてクミン、シナモンと続きます。
私たちにも大きなメリットがあります。それは、生産者の顔が見えるという食の安全です。このアイディアは私たちだけではなく、ネパール政府もスパイスでの外貨獲得という構想を打ち上げていました。しかし国際的なNGO組織でも、多くのスパイス・プロジェクトが失敗しています。弱小である私たちがなぜ可能かといえば、皆様のような応援下さる消費者がすでにいる、ということが大きな力となっているからです。
グルミ村との再会
2017年秋にグルミ協同組合から直接コーヒーの提供を受け、シリンゲ村からの不足分を補い、コーヒー販売を再開できるようになりました。皆様には長らくお待ち頂き、心より感謝申し上げます。そのグルミとのお付き合いは、1998年に遡ります。内戦状態のネパールで、反体制派の中心は西ネパールのロルパやダンという地域で、グルミ、隣のアルガカンチと接していました。カトマンズから車で行くと運転手が怖がって逃げてしまうこともあり、信頼できる人を探して行ってもらう必要もありました。そのような状況下何度も通い、有機栽培の指導をし、申請書類作成や認証にかかる費用を全て負担し、1999年にグルミ協同組合の名前でネパール初の有機認証取得に成功しました。千人近い生産者の収穫量は年々増え、私たちだけではやがて買い支えきれなくなると不安だった時に、コーヒー生産者を探している韓国のNGOに出会い、手続きなど代行して支援し、数年の取引継続を見届けて、私たちはより厳しい状況のシリンゲに傾注していきました。
再会のきっかけは、JICAボランティアでグルミに派遣(派遣先の最西端)された女性がコーヒーのことを調べていたら、ネパリのことを知り、詳しい話を聞きたいということからでした。グルミ協同組合の中でも、力をつけた生産者は自力でバイヤーとつながり、独立していきました。現在のメンバーは、約50世帯の小規模生産者のみで、当時の若者が育ち、良い活動をしていることを知り、嬉しく思いました。
若者と女性
ネパールは、未だ閉鎖的な村社会です。長老が権限を持ち、新しいことには後向な所が顕著です。そのなかで、若者が活躍できるよう応援すること、そして、特に、女性が活躍できるようにすることは大きな意義があります。今後もそのような組織づくりに力を注いで参ります。これからもネパールコーヒーをご愛飲頂けましたら幸いです。
≪グルミ村物語≫
1944年、グルミ郡アップツォール村にネパール初のコーヒーの木が植えられました。グルミと出会った1998年頃、コーヒーは市場がなく農民たちは諦めて木を切ってしまうほどでした。コーヒー生産地としては最も奥地で、流通面でハンディがあったためでもあります。私たちは内戦状態で反体制派の中心に接するグルミに何度も通い、将来のため、品質を上げ付加価値をつけようと有機栽培の指導と支援をし、2000年にネパール初の有機認証取得に成功しました。一時は約1,000世帯の生活を支えていましたが、力をつけた生産者は自立し、現在は約50世帯の小規模生産者と共に歩んでいます。
≪シリンゲ村物語≫
ラリトプール郡の最南端に位置するシリンゲ村。数年前までは、カトマンズからバスを乗り継いでほぼ一日、さらに険しい山道を8時間以上歩かなければ辿り着けない陸の孤島でした。私たちは1996年に出会い、偏見や差別に屈しない村人たちと共に、2008年シリンゲ協同組合発足、2010年有機認証取得に成功しました。しかし2015年にネパール大地震発生。95%の家屋が全半壊となりました。「震災前よりも、より良い村へ」を合言葉に、次世代を担う若者たちとの挑戦は続きます。
(つなぐつながる2018春 vol.07より)