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沖縄戦・久米島の戦争 tsuna25 2022a

沖縄戦・久米島の戦争

~ 味方と信じた『友軍』に虐殺された島の人々 ~

文:土屋春代

日本軍を友軍と呼び、米軍から護ってくれると信じていた島の人々は、乏しい食糧を自分たちはひもじくても提供し、家に住まわせ、防空壕堀りや見張りなどに酷使されて農作業ができず、どんどん食糧不足が深刻化する中でも懸命に従いました。まさか、その友軍が住民を、幼い子どもまでをも容赦なく殺すとは…久米島の戦争は島民だけでも20人に及ぶ虐殺が行われ、8月15日を過ぎても終わりませんでした。島の人々を今も苦しめ続ける恐ろしい戦争犯罪は、なぜ起きたのでしょうか。


痛恨の碑 『天皇の軍隊に虐殺された久米島住民久米島在朝鮮人痛恨の碑』犠牲になった住民20名の名前が刻まれています。建立されたのは敗戦から29年後の1974年8月20日。この日は谷川さん家族が殺害された日です。

久米島で起きた、おぞましい虐殺事件
米軍は1945年3月26日に慶良間諸島を攻略し、4月1日に沖縄島中部の読谷や北谷に無血上陸し、圧倒的な戦力で進軍し制圧しました。6月23日、司令官の牛島満中将と長勇参謀長が自刃し、日本軍の組織的な戦闘は終わりました。しかし、牛島中将は本土防衛のため、自分の死後も投降を許さず、持久戦を展開し最後まで戦うよう指示しました。武器がほとんどなくなり、指揮官がいなくなっても投降を許されない日本軍兵士たちは南部に避難する島民たちに紛れて南下し、避難壕から島民を追い出す、食糧を強奪する、果ては泣く赤ん坊を居所が知られるのをおそれて殺すなど、島民をまるで虫けらのように踏みにじり危険にさらし、南部撤退以降一般市民の死者数は激増しました。

久米島も度重なる空襲で家や学校が焼かれ、人々はいつ米軍が上陸してくるかと怯えていました。島には海軍の通信隊30余名がいるだけで、武器らしい武器もありません。それでも軍に協力して島を守ろうと必死の努力を続けていましたが、隊長の鹿山正は自分達の居場所が知られて爆撃されるのを恐れ、住民をスパイと疑い、監視を強めていったのです。

いよいよ米軍上陸は近いと感じた島民たちは山の中に作った掘っ立て小屋や自然壕に避難を開始しました。電話線保守係の安里正二郎さんは避難小屋に敷くゴザや板を取りに家に戻ったところを米兵に捕まりましたが、米軍は降伏勧告文を持たせて帰しました。安里さんが山の兵隊、鹿山正隊長にその勧告文を届けに行ったところ、米軍の使いをしているスパイだと言われ撃たれました。一発の銃弾では死にきれず苦しむ安里さんを、両側から銃剣でとどめを刺すよう鹿山隊長は部下に命じました。6月27日のことです。

6月13日深夜、状況を探るため、字北原から上陸した米軍の斥候兵たちは比嘉亀さんと宮城英明さんの義弟、孫一郎さんを拉致し、島の様子を聞き取るとふたりを開放しました。鹿山正は米軍に拉致された住民が帰宅したら直ちに連行するよう指示していましたが、避難の混乱の最中で直ぐに出頭できませんでした。6月29日、戻っていたことを知ると、拉致された2人だけでなく家族や北原区長、警防団長まで合わせて9名を一軒の家に閉じ込め針金で後ろ手に縛り、目隠しをして銃剣で何度も何度も突き刺し、「火葬だ」と言い、家ごと焼き払いました。遺体を引き取りにくるものも殺すという噂があり、遺族は直ぐには現場に近寄れず、野ざらしにされていたそうです。

久米島出身の兵士で本島で戦い米軍の捕虜となった仲村渠明勇さんは米軍が久米島を総攻撃しようとしていることを知り、島には通信隊がわずかにいるだけで戦闘部隊がいないこと、軍事施設もないことを伝え、総攻撃をやめるよう懇願しました。証明するため、26日の米軍上陸に同行し、各地を周り、投降を呼びかけ続けたところスパイと疑われ狙われました。8月18日、村人に変装した鹿山隊に襲撃され逃げようとしましたが、妻と1歳2ヶ月の幼子ともども斬殺され、家ごと焼かれたのです。

谷川昇さん(朝鮮出身。本名・具仲会さん)一家は生活が苦しく、米軍キャンプや家々の不要品を集めていたところ、スパイと目され、狙われました。8月
20日、谷川さんは次男(5歳)を連れて家族から離れて隠れていたところを襲撃され絞殺され、父親の遺体にすがって泣き叫ぶ次男は背中から銃剣で突き殺されました。その日は長男(10歳)の誕生日で楽しいはずの夕食の時間。妻のウタさんは知人に襲撃隊が迫っていると知らされ、急いで長男の手を引き、生後数ヶ月の乳児を背負って走り出したものの追いつかれ、子どもだけは助けてと懇願するところを斬殺されました。家に残っていた長女(7歳)と次女(2歳)はお母さんのところに連れて行ってあげると言われて誘い出され、殺されたそうです。いったい乳幼児がどうやってスパイを働けると言うのでしょうか。

鹿山隊と本島の戦場から逃げてきた敗残兵たち、日本軍全員が9月7日米軍に投降し降伏文書に調印して沖縄戦は公式に終結しました。日本政府がミズーリ号上で降伏文書に調印した5日後のことでした。鹿山隊が島から居なくなり、どれほど久米島の人々は安堵したことでしょう。

基地をもつ国は基地で亡び核を持つ国は核で亡ぶ(伊江島・阿波根昌鴻さんの言葉)
久米島は米軍の総攻撃から守られました。日本軍司令部があり陸海軍兵士が集結していた沖縄島や長い滑走路があった伊江島のような激しい地上戦にはなりませんでした。それは、戦闘員がおらず軍事施設がなかったからです。

日本軍は沖縄の人々をスパイになる可能性があると最初から警戒し、方言しか話せない老人、戦闘や看護要員としてかりだした少年少女まで、少しでも疑わしいことがあれば殺害してしまうという事件は沖縄各地で起きました。その数40件以上、150人を超えると言われます。集団強制死やマラリア有病地への強制移住による死者を含めると日本軍に殺された市民は数千人に及ぶでしょう。日本軍は米軍より恐ろしい存在で、住民を決して守らないと人々は実感しました。

戦後27年が経ってから、郷里で団体役員として暮らしている鹿山隊長の所在が判り、雑誌やテレビで発言が公表されました。自分は軍人として当然のことをしたまでで、後悔も反省もしていないという言葉は、とりわけ久米島をはじめ沖縄の人々に大きな衝撃を与え、怒りの声が燃え広がりました。

裁かれなかった戦争犯罪
戦後、勝った連合国側が敗けた日本を極東国際軍事裁判で裁きましたが、日本人自身がアジア太平洋戦争がなぜ起きたか、誰が起こしたか、どういう罪を犯したかを厳しく検証し教訓としてきませんでした。それどころか、子どもたちが歴史を学ぶ教科書は事実をきちんと伝えようとせず、まるでなかったかのように扱われていきます。2度と繰り返さないために、戦争で非業の死を遂げた人々の想いに、正面から向き合わなければならないはずが、目を背け続けた結果、同じ道を歩んでいるような気がしてなりません。

同じ敗戦国ドイツのワイツゼッカー元大統領は第二次世界大戦終戦40年の記念議会で「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」と述べ、その方針でドイツは罪と真摯に向き合い、ホロコーストの現場を残し、世界中から訪れる人々に恐ろしい戦争犯罪を伝えています。日本では戦争の悲惨さを伝え、平和の大切さを訴えるための施設の多くは民間による運営で厳しい経営事情を抱えています。近代戦は大量破壊兵器による非戦闘員の死者が多いことを各地の具体例をあげて記した山﨑雅弘氏の「沈黙の子どもたち・軍はなぜ市民を大量殺害したか」によると、ドイツの軍人法や、連邦共和国基本法には、軍人の権利を保障することを明記した条項があり、軍人も「制服を着た市民」であり、自身および第三者の人間の尊厳を侵害する命令や良心に反する命令には服従しない『抗命権』が認められているといいます。自衛隊の服務規程では「職務の遂行に当たっては、上官の職務上の命令に忠実に従わなければならない」とされ、抗命権に類する条文はないそうです。上官に命じられれば何でもする、仕方なかった、ではすまされません。

戦後生まれが大半になった今だからこそ、自ら積極的に過去を知る努力を続けなければなりません。私たちは過去と違う星にいるのではなく、あの時代の地続きに生きているのです。

◇主要参考図書
• 沖縄戦 久米島の戦争 私は6歳のスパイ容疑者/久米島の戦争を記録する会編 /インパクト出版会
• 久米島の「沖縄戦」 空襲・久米島事件・米軍政/大田昌秀/沖縄国際平和研究所
• 沖縄の日本軍 久米島虐殺の記録/大島幸夫/新泉社
• 逃げる兵・サンゴ礁の碑/渡辺憲夫/マルジュ社
• 太平洋戦争と久米島/江洲盛元編著
• 沖縄戦の真実と歪曲/大城將保/高文研
• 沖縄を知って三線を楽しもう 歌の解説と背景・沖縄の歴史が学べる本 上・下/渡嘉敷政子/美ら島書房
• 沈黙の子どもたち 軍はなぜ市民を大量殺害したか/山﨑雅弘/ 晶文社


1945年6月26日に米軍が上陸したイーフビーチ。


はっきりした場所は特定されていませんが、仲村渠明勇さん家族3人が隠れていた住居近く。3人が殺害され家ごと焼かれたあたりはサトウキビ畑になっています。

明勇さんに命を救われた少年

東京都練馬区にお住まいの渡嘉敷一郎さんと政子さんをお訪ねしました。久米島出身のおふたりが子どもの時、虐殺事件が起きました。未だ消えない恐ろしい記憶をお話しいただきました。


左から政子さん、一郎さん、土屋。

一郎さんは6歳のその時のことを今でもはっきり覚えていると語りました。山の上の兵隊に山から降りるな、降りたら殺すと脅され、米軍からは戦争は終
わった、降りてきなさい、降りなければ兵士と思って殺すと警告され、追い詰められた集落の人たちはもうこれまでだ、皆で死のうと相談しました。大事にしてきた晴れ着に着替え、池のそばまで来ると、そこを死に場所と決めました。その時、若者が遠くから声をかけたのです。「死んではダメだよ!戦争は終わったから、もう大丈夫だよ!」と。一郎さんたち集落の人々はその青年、仲村渠明勇さんに命を救われたのです。

死を覚悟した集団、その中にいてどのような気持ちだったかと一郎さんに問うと、「正月の晴れ着を着てねぇ、うきうきしたよ」と、意外な答えが返ってきました。恐怖に縛られる緊張の毎日。山の中を逃げ回り、着の身着のまま、食べ物もなくなり、ひもじさを抱えていた6歳の子に死は分からず、家族や近隣の人たちと大勢一緒に晴れ着で集い、もう逃げなくて良いのだと思った時、高揚感のようなものがあったのでしょうか。明勇さんが山の兵隊に殺されたと後で知った時、悔しかったそうです。そして、70年以上も経って、明勇さんの写真を見た時、「あっ、この人だ!助けてくれた人だ!」と、瞬時に分かったと聞き、6歳の子があの日に味わった経験のすごさが伝わってきました。

政子さんは戦争について語る時、今でも涙が出ると言います。どんなに時が経っても、忘れたくても忘れられない数々の記憶。ガマ(自然にできた洞窟)に家
族で避難したが大勢いて入れず、仕方なく避難したところは風葬の場所で人骨がたくさんあり、恐ろしかったこと。ガマの入り口にやっと入れたが、臭いや湿気など耐えがたかった感覚。避難場所で大人たちの会話を聞き、山の兵隊はとても恐ろしい人たちだと感じたこと。大人になって島の戦争の真実を知った時、子どもの時に見聞きした記憶がよみがえりました。

一郎さんと政子さんは、戦争の真実を伝えなくては、また、戦争を起こしてしまう、あんな恐ろしいことは2度と起こしてはいけない、という強い思いから虐殺の歴史を語り続けるのだと言われます。政子さんは辛そうに、「虐殺には、命令されて島の人も関わったから皆、黙っているの。長い間、触れることはタブーだった。でも、事実は事実として伝えていかないといけない」と。戦争の傷は消えることがありません。


貴重な資料を丁寧にまとめられています。

(つなぐつながる 2022秋号 vol.25より)