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沖縄戦と特攻隊 tsuna24 2022s

沖縄戦と特攻隊
~沖縄の海に消えた若者たち~

文:土屋春代

アジア太平洋戦争のことをずっと調べていて、関係がある番組は録画して集めています。2021年8月、「特攻知られざる真実」というドキュメンタリー番組で特攻隊に爆撃され沖縄島北部の古宇利島沖の水深40メートルの所に沈む米駆逐艦エモンズのことが紹介されました。

多くの特攻隊が本土攻撃を遅らせるため、沖縄沖に集結した米軍艦隊目指して出撃したことは知っていましたが、沖縄島の生産者を訪ねる時にいつも傍を通る美しい海にほぼ原形をとどめて沈むエモンズのことは初めて知りました。2021年夏カタログでご紹介した海塩の生産地、屋我地島と橋でつながる古宇利島。あの周辺は本当に美しい海です。77年前、エモンズに激突して亡くなったのは陸軍特別攻撃隊・誠隊の若者たちでした。

さらに、黒糖の生産者・ノイベナ農園のある喜如嘉(きじょか)も特攻と深い縁があると知り急に身近に感じ、調べてみようと思いました。

特攻隊員たちだけでもおよそ3000人が眠る沖縄の海。その最期を具体的に知ることであの戦争の悲惨さをもっと感じられるのではないか、あの戦いで亡くなった若者たちのことを知らなければならないと思いました。


古宇利島沖に今も沈むエモンズ@feeldive


屋我地島にある「国立ハンセン病療養所 沖縄愛楽園(左下)」から古宇利島を望む。二つの島をつなぐ古宇利大橋。@沖縄ドローンプロジェクト


海底に沈むエモンズの全体像。特攻で、エモンズの後部甲板に体当たりした偵察機のエンジンや着陸脚も沈んでいます。(参照HP こちらをクリック)

特攻隊とは
1944年6月、絶対国防圏のマリアナ諸島を米軍に制圧され日本本土が空襲の危険にさらされるようになると、残された軍備と人材で戦闘を継続し本土を防衛するために体当たり攻撃やむなしの声が高まり、爆装航空機による航空特攻、人間魚雷回天、モーターボート特攻など人間を兵器として、爆弾として突っ込ませる “必死” の特別攻撃作戦がフィリピン、硫黄島などで展開され、沖縄戦では主要作戦となりました。

特攻隊員となったのは海軍兵学校や陸軍士官学校を卒業して間もない将校、学業半ばで出征した学徒兵、まだあどけなさの残る16歳、17歳の少年航空兵などが中心で平均年齢21、2歳という若さでした。沖縄戦の頃は多くの熟練パイロットが既に戦死していて、訓練期間も短く技術のまだ未熟な航空兵が、まともな航空機は本土決戦に備え温存するため残った旧式や練習機なども含めた整備も十分できなくなった『特攻機』で出撃する有様でした。特攻を意識し向上した米軍のレーダーに捉えられたり、250キロや500キロの重い爆弾を装着した機体は速度が出ず沖縄に着く前に撃ち落とされたり、航空特攻戦死者およそ4000人の7割を超える兵士が沖縄戦で亡くなっています。

沖縄戦での航空特攻
1945年4月1日、米軍が兵力約50万人、艦船約1300隻、艦載機約1700機という途方もない規模で沖縄島に上陸しました。いよいよ本土に迫る米軍を沖縄で1日でも長く留めるため特攻隊を次々編制し、陸軍は天号作戦で3月26日から、海軍は菊水作戦で4月6日から、沖縄沖に集結した米艦隊を沈めるため、鹿児島、熊本、宮崎、台湾などの航空基地から出撃させました。

特攻では出撃した後、その人がどこでどのように戦い、どのように亡くなったのかほとんど分かりません。遺体はおろか何も残っていないのが普通です。ドキュメンタリー「特攻知られざる真実」では、4月6日の特攻隊による突撃を受け航行不能になり、軍の機密情報が奪われることを恐れた米軍によって沈められたエモンズを7年間にもわたり潜水調査をしている九州大学教授・菅浩伸さんは「戦後年数が経ってしまい、特攻の実態を知る手がかりはもうここしかない。特攻を知ることが戦争の悲惨さを後世に伝えることになる」と目的を語っていました。

潜水調査でいろいろ貴重なことが分かってきました。エモンズに突撃したのは宮崎県の新田原基地(にゅうたばるきち)から出撃した陸軍・誠隊の中の5機だったこと。レーダーや対空砲火を避け海面すれすれに飛び体当たりしたこと。

ドキュメンタリーには誠隊遺族や目撃者のインタビューもありました。ある女性は、決行前に自宅に1度帰った兄が布団を被って泣いている姿を目撃し、後に特攻で出撃したと知り、その涙を両親にも秘してひとり胸に抱えてきたと言います。ある男性は、実家が遠くて帰ることができない隊員たちから仏壇を拝ませて欲しいと頼まれた翌日、庭で見送っていると翼を揺らして別れの挨拶をされたと言います。

生きて帰ることのできない特攻を目前にして隊員たちはどのようにその死を受け容れたのでしょう。まだ人生が始まったばかりの若者たち、やりたいこと、実現したい夢もあったでしょう。拒否することが許されず選択肢がなかったその時代のその立場に置かれたら・・・、酷いとしか言いようがありません。

寺内博中尉遺族と喜如嘉の人々との今も続く交流
情報を集めていた私は、1945年4月7日、沖縄島北部の大宜味村にひとりの特攻隊員の遺体が流れ着き、喜如嘉集落の人々が遺体を引揚げ丁重に弔ったこと、そして、戦後に遺骨と遺品を遺族に届け、以来ずっと交流を続け慰霊祭も毎年のように行っていることを知りました。

名護市中央図書館で資料を探し、1975年発行の「村と戦争・喜如嘉の昭和史」という本を見つけ、目次を見ると「特攻隊の遺体漂着」という項がありました。ドキドキしながら頁を開くと、4月6日の金曜日、日米の無数の戦闘機が入り乱れて約1時間に及ぶ死闘を繰り広げ、火をふいて海に落ちていく戦闘機、炎上する軍艦、その光景を集落の人たちが息を詰めて見ていたこと、翌日、浜に流れ着いた遺体を引揚げ、最初は大きく見えたので米兵と思い、身に付けているものから海軍特攻隊員の第一八幡護皇隊( だいいちはちまんごおうたい)の寺内博中尉(当時20歳)と分かり、米軍の銃撃を避けながらアダンの茂みにしばらく土葬し後に丁重に弔ったことなどが4頁にわたり詳しく書かれていました。

昨年の2021年12月に寺内中尉が出撃した鹿児島の第二国分基地跡近くの資料室と鹿屋航空基地史料館を訪ねました。海軍兵学校を1944年3月卒業後に実践機で訓練を重ねた大分県の宇佐海軍航空基地跡、宇佐市平和資料館にも今年の2月に行き、3月末に遺族の方にお会いして少しずつ寺内中尉の足跡が分かってきました。

寺内中尉は海軍の菊水一号作戦の初日、1945年4月6日12時20分、第二国分基地から出撃し、沖縄上空14時20分頃到着、交戦して亡くなりました。この日、海軍から護皇隊含め161機279人、陸軍からも天一号作戦で誠隊26機含め62機62人の特攻機、特攻隊員が出撃しました。この後も続々と特攻隊の出撃は繰り返され2000機以上、約3000人の若者が沖縄の海に沈みました。寺内中尉のように遺体が見つかり、弔われた人は奇跡と言えます。

寺内中尉の妹・浅野綾子さんは4年前に亡くなり、綾子さんの長女・松永祥子さんが喜如嘉の人々との交流を引き継ぎ、今年も4月5日に慰霊祭が行われました。綾子さんが詠んだ歌の歌碑と寺内中尉の慰霊碑が建てられている喜如嘉の農村開発センターの広場で遺族2名、集落から20名の参加により行われました。

アジア太平洋戦争の激戦地、フィリピン・ルソン島で父を失い、兄を沖縄戦で失った綾子さんは、戦後長く深く続けられた喜如嘉の人々との交流を通し、沖縄を故郷のように思うと言われました。遺族と喜如嘉の人々との交流はきっとこれからも引き継がれていくと思います。

特攻から私たちが受け継ぐもの
特攻隊員たちは戦争中は軍神と崇められ、家族も大事にされましたが、敗戦後は戦犯、国賊などと謗られ、生存者も裏口から戻ったと言われるほど肩身の狭い存在になりました。生きて帰らぬはずの特攻隊員たちは戦後も経験を語ることは稀で、実態がなかなか明らかにされませんでした。

多くは21、2歳であった若者が爆弾を抱えて敵艦に飛行機もろとも突っ込み死ぬことを求められた特別攻撃という手段。基地を飛び立ち沖縄海上までの2時間あまりの飛行中、何を考えていたのだろうかと思います。戻れぬ道ならせめて自分の死が未来につながるように、残る人に託したのではないかと思えてなりません。

特攻を拒否し夜襲を繰り返し戦果をあげた芙蓉部隊という部隊がありました。しかし、隊長の美濃部正少佐も特攻作戦を否定はしていません。貴重な人材と資材を1度切りで終わらせるのはもったいない。繰り返し攻撃することで敵の損傷を拡大するという判断です。「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と語っています。

現在の価値観で批判することは容易くても、本質を理解することにはならないと思います。だからこそ、戦争は絶対に絶対に始めてはいけないと確信します。

命こそ宝
沖縄に「ヌチドゥタカラ・命(ヌチ)こそ(ドゥ)宝(タカラ)」という有名な言葉があります。廃藩置県を進める明治政府が琉球を沖縄と改め、琉球国王を東京に移した、いわゆる『琉球処分』を題材にした演劇で謡われた琉歌で、戦闘を唱える臣下たちに国王が「戦の世は終わり、いまに平和な世がくる。だから命を無駄にしないように、命が一番大事だ」と諭す歌です。

敗戦までの軍国教育によって国民の命は天皇のもの、天皇に捧げるために我が子を戦場に送り出し、戦死しても悲しむことを許されなかった親たちは戦後、真逆の価値観にどれほど苦しめられたでしょう。自分の心に忠実でいられず子どもを死地に追いやった後悔、自分を責める気持ちでより深い悲しみと苦悩を背負ったことでしょう。

沖縄戦では10代の若者たちが学徒隊として約2000人も戦場に駆り出されました。14~19歳の男子生徒は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)として陣地構築、伝令や弾薬など物資の運搬などの後方支援と実際の戦闘にも加わりました。15~19歳の女子生徒はひめゆり部隊のように負傷兵の看護などに当たりました。日本軍の敗走とともに南部に移動する中、戦死や追い詰められて集団自死するなど学徒隊の半数の若者が亡くなりました。また、少年たちがゲリラ活動を強いられた護郷隊(ごきょうたい)、竹槍で斬り込みをした若い女性達もいました。

人には2度の死があると言います。肉体の死と記憶の死。人々の記憶から忘れ去られた時が本当の死だと。被害と加害、どちらも戦争の真実です。2度と戦争をしない、したくない、命を尊び守る社会を築くために忘れてはならない犠牲の死について、ずっと記憶に留めておきたいと思います。沖縄島南部の遺骨混じりの土砂を辺野古の新基地建設の埋め立てに使うなど言語道断です。


「村と戦争」で、寺内さんのことや当時の喜如嘉の状況を知りました。


寺内博中尉。出撃の朝、桜の小枝を襟に挿して。隊員たちを前に「今改めて言うことはない。俺につづいて来い・・・。只今より出撃する、掛れ!」とだけ、短く、強く言って機上の人となりました。


寺内中尉の遺体が漂着した喜如嘉の海辺。「喜如嘉192人の物語」のあとがきにこうあります。
(海水に浸り膨らんだ体は大きくて、米兵に見え)敵の戦闘機が落とされたと喜んでいたが、敵にも親兄弟がいるはずである、という思いから、波間に漂う遺体を引き上げた。それが寺内博であった。戦闘機の機銃掃射の合間をぬって遺体を収容、丁寧に弔った。

寺内さんの碑に花を捧げ、祈る筆者。


喜如嘉の人々への感謝の思いが込められた綾子さんの歌碑。「心篤き人ら住めりとこの岸に導かれけむ兄がからかも」


激しい地上戦で亡くなった多くの人々の遺骨が未だ眠る沖縄島南部の土地。40年間もボランティアで遺骨を掘り続け、敵味方、軍人一般市民の別なく遺族の元に帰そうと、そして、どのようにして亡くなったかを遺骨から読み取り、その様子も伝え続けている具志堅隆松さん。あろうことか辺野古の新基地建設の埋立に遺骨混じりの南部の土砂を使用する計画があると知り、2021年3月から命懸けで「絶対にしてはならない!」と、抗議の声を挙げ続けています。特攻隊の若者たちは遺骨さえありません。せめて残っている遺骨は帰るべきところに帰してこそ戦後と言えるのではないでしょうか。


ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。 /具志堅隆松(著)/合同出版 1540円

◇主要参考図書
・特攻と日本人の戦争 許されざる作戦の実相と遺訓/西川吉光/芙蓉書房
・「特攻」と日本人/保阪正康/ 講談社現代新書
・特攻 この地より かごしま出撃の記録/南日本新聞社
・雲の墓標/阿川弘之/新潮文庫
・宇佐海軍航空隊始末記/今戸公徳/光人社NF文庫
・村と戦争 喜如嘉の昭和史/福地昿昭/「村と戦争」刊行会
・鎮魂 白雲にのりて君還りませ 特攻基地第二国分の記/十三塚原特攻碑保存委員会
・指揮官たちの特攻/城山三郎/新潮社
・大正っ子の太平洋戦記/美濃部正/方丈社
・彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団/渡辺洋二/光人社
・特別攻撃隊の記録(海軍編・陸軍編)/押尾一彦/光人社
・幻の本土上陸作戦 オリンピック作戦の全貌/NHK「果てなき殲滅戦」取材班/祥伝社新書
・国民義勇戦闘隊と学徒隊 隠蔽された「一億総特攻」 /斉藤利彦/朝日新聞
・特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ 米軍兵士が見た沖縄特攻戦の真実/ マクスウェル・テイラー・ケネディ(著) 中村 有以(訳)/ハート出版
・海ゆかば/海軍兵学校第七十三期クラス会事務局
・喜如嘉192人の物語/「喜如嘉192人の物語」刊行委員会

◇映像資料
・特攻 知られざる真実 NHK