次世代につなぐ久米島 tsuna38 2025w
カカオ栽培からチョコレート製造まで
仲間の輪が熱く広がる久米島

久米島の海岸線に広がる畳石。
沖縄カカオプロジェクトの原点は久米島にあります。それは、久米島に福島の子どもたちの保養施設「沖縄・球美の里」があり、沖縄と福島を結ぶ地であるからです。沖縄の新しい可能性を拓くと共に、民間で運営されている球美の里への支援を通して、福島第一原発事故による放射能汚染地域に住む子どもたちの健康被害を少しでも減らし、原発事故で被災された方々の声なき声を伝え続けていきたい。どんな未来を子どもたちに引き継ぐのか、皆で考え続けたい。そのためにも久米島をカカオ栽培拠点の一つにし、つながりを強めていきたいと思っていた時に、以前からネパリに共感し商品をご愛用下さっていた久米島の熊谷由紀子さんから阿嘉茂さんを紹介されました。
2018年6月から阿嘉さんは久米島で沖縄カカオプロジェクトとして初のカカオ栽培への挑戦をスタート。7年が経ちました。その間、誠実な阿嘉さんのお人柄に何度心救われたことでしょう。最初はなかなか苗が育ちませんでしたが、懸命な努力が実り、2023年にはついにカカオポッドが実り黄色く色づきました。この時の感動、そして嬉しそうな阿嘉さんの表情は忘れられません!
ネパリ事務所は少人数で運営しているので普段は事務所を空けることが難しく、連休や長期休暇を利用して沖縄に通っています。今回は5月と8月に3名で訪ねた久米島での、カカオ栽培からチョコレート製造まで仲間の輪が熱く広がる動きをご報告させて頂きます。

夢を語る阿嘉さんとネパリの土屋春代。
カカオ栽培に夢をかける
阿嘉茂さん
阿嘉さん(52)のハウスに根を張るカカオには、透けるような紅色の新芽、柔らかな淡い緑の若葉、張りのある深い緑色の大きな葉っぱが茂っていました。幹には小さな白い花をたくさんつけ、久米島の暑い夏を謳歌して元気に成長しているようでした。落ち葉や刈った草、米糠等がまかれ、土はふかふか。根元には、収穫前に倒れてしまったバナナが置かれています。腐ってくると虫が集まり受粉の可能性が高まるそうです。
農業をずっとやりたかったという阿嘉さん。仕事をしながら農業に関わる時間がようやく作れるようになった時期に「カカオ栽培に挑戦する人を探している」と熊谷さんから声がかかり、春代さんと出会いました。いつかカカオを栽培してみたいと密かに思われていたそうで、春代さんとの出会いはまさに「時が来た!カカオがきた!」というタイミング。沖縄カカオプロジェクトの仲間としてカカオ栽培に挑戦して下さることになりました。
カカオ栽培を始めた頃についてお聞きしました。「最初は過保護でしたよ。苗に陽が直接当たらないように遮光ネットをかけて、台風が来る度に車庫に移動していましたが、それでもうまくいかなくて。もういいかと開き直って遮光ネットを取って、光と風に当てたら強くなって成長してきました。それでも夜10℃を切ると心配で眠れませんでした。2019年12月にハウスの中に地植えし、昨年くらいから冬も葉が落ちなくなってきて久米島の気候に慣れてきたようです。この1~2年、ようやく熟睡できるようになりました(笑)」
久米島でのカカオ栽培は先駆的な取り組みなので、ノウハウを聞くこともできません。ネットでカカオ産地の様子を調べても気候が違うので参考になりません。悩んだ時はどうされているかお聞きすると、「なぜ大きくならないのか、実がつかないのか、カカオに話しかけながら観察して、どうしたらいいか考えています」。阿嘉さんのお人柄が伝わってきました。
次の目標はカカオ豆の発酵です。「発酵を成功させたい!絶対に成功させないと!」と強いお気持ちが伝わってきます。そのためにも今年もカカオが実ってほしいと祈るような気持ちで過ごされています。
「自分は沖縄カカオプロジェクトの支援でハウスを作ってもらったからチャレンジできました。自分の役割は基盤作り。仕事と住む場所があれば久米島に移住したい人も多くいます。カカオ栽培を成功させて、次世代に農業をつないでいきたいと思います。自分で役に立てることがあったら何でも伝えます」と言われる阿嘉さんからは、一貫して「次世代のため」という一途な想いを感じます。その揺るぎないお気持ちと、人にも植物にも誠実に向き合い希望をもって取り組まれている姿が、久米島でのカカオ栽培の輪の広がりに繋がっていると感じました。
阿嘉さんの親戚でプロジェクト仲間の仲地リナさん(31)のカカオも元気に育っていました。〝はじける農業!〟をキャッチフレーズに取り組む姿に、いつも元気をもらいます。例年よりもたくさん咲いているカカオの花々、実りますように!
(高橋百合香)

元気に成長するカカオは皆の希望です。

「可愛いベビちゃん!」とリナさんが大事に植えたカカオ苗。3年でここまで成長しました。
地元での新たな挑戦
山川 さん
久米島熱帯果樹園2代目
久米島熱帯果樹園の2代目としてマンゴー農園を引き継がれた山川さん(41)が、2024年10月よりカカオ栽培に挑戦くださっています。東京で理学療法士をされていましたが、お父様が一人でされている農園を継がれる決心をされ3年前に久米島に戻られました。そして酒井佳孝さんのお店でチョコレートの話を聞かれ、ネパリ・バザーロとの出会いにつながりました。現在は沖縄カカオプロジェクトの支援金からお送りしたカカオ苗20本を、マンゴーハウスの一画で育てられています。
40年続くマンゴー農園では、有機肥料を用いて土の微生物を育みながら、自然に沿った農法を大切にされてきました。カカオ苗の土にも、菌糸が含まれたふかふかの落ち葉を入れられています。「なぜカカオ栽培に挑戦されようと思われたのですか?」と伺うと、「僕がチョコレートが大好きだからです」と嬉しいお答えが返ってきました。酒井さんと、100%久米島産のチョコレートを作れれば良いねとも話されたそうです。カカオ栽培に挑戦する人、そのカカオでチョコレートを作る人、それぞれの存在が久米島産チョコレートの夢を実現に近づけていくんだと感じワクワクしています。共に応援いただけますと嬉しいです!
(簑田萌)

畑の近くからは久米島の青い海が望めます。

お父様の代から土を大切にされていることがとても伝わってきました。
久米島の未来を描く
酒井佳孝 さん
TATAMI CHOCOLATERIE KUMEJIMA
(たたみショコラトリーくめじま)
「ふーちヌーパン」の酒井佳孝さん(42)に初めてお会いしたのは、2022年5月の久米島の宿泊施設。一緒に行った子どもたちがすぐに懐いてそばを離れない、やさしくて面白いスタッフのお兄さんでした。宿泊施設の契約終了後も久米島に残り、「島に〝町のパン屋さん〟を」と開業。店の立ち上げに忙しいにもかかわらず2023年に沖縄カカオプロジェクトに参加表明してくださいました。
岩手県の「椿のみち」での研修を経て、TATAMI CHOCOLATERIE KUMEJIMAとしてオリジナルのリサチョコレートを作っています。パン作りで鍛えた腕と情熱で、「椿のみち」の先輩たちも絶賛の出来栄えです。
新しく挑戦するチョコレートのブランド名を「TATAMI」と決める際は、歴史博物館などで久米島をいろいろと研究し、注目したのが「畳石」。約600万年前にマグマが冷えて固まる際に縮んで規則的にできた久米島独特の柱状節理(規則的な割れ目)で、その安山岩の断面が六角形や八角形の亀の甲羅状の模様となりパズルのように海岸線に広がっています。表面だけの模様ではなく、岩の束のように地下深く100メートルまでも続いているそうです。同じ熱い思いを持ったマグマが、地下深くまでがっしりと繋がり合って固まっているというのが、カカオを育てる人、チョコレートを作る人、販売する人、食べる人・・・それぞれが独立しながらも同じ思いでつながっているという酒井さんのイメージに合っていて、あらためて良い名前だと感じます。島の材料も使ってチョコレートを作っていきたいと夢を広げる酒井さん。黒糖、塩、ドライフルーツ、シーアーモンド(モモタマナ)、カラキ(沖縄シナモン)・・・久米島にはチョコレートと組み合わせたい材料がたくさんあります。
2020年に久米島に移住し、わずか5年の間に、地元の方が朝早くからパンを買いに来られ、近隣のデイサービスにパンを届け、島で活躍する多くの方々とも繋がりを築いた酒井さん。私たちの沖縄カカオプロジェクトに共感し、仲間を増やし、久米島や沖縄の未来を盛り上げたいという強い意志と想いが形となり、久米島のカカオを使ったチョコレートができる日を酒井さんと一緒に皆で夢見ています。
(魚谷早苗)

ふーちヌーパンの一角の、自称「電話ボックスのような」スペースでチョコレート製造中。

これからのカカオやチョコレートのことを楽しそうに話す阿嘉さんと酒井さん。
子どもたちの声に耳を傾ける
影山弘幸 さん
福島の子どもの保養プロジェクト
in 久米島「沖縄・球美の里」施設長
2011年3月11日の東日本大震災により発生した福島第一原発事故。「原子力緊急事態宣言」は事故から14年がたった今も解除されていません。レベル7といわれる事故の爪痕は、放射能汚染による健康被害に加え、被災された方々の心に深い傷として刻まれたままです。球美の里では福島や近郊に住む子どもたちに、自然豊かな久米島で美味しい空気をいっぱい吸って、土に触れ、思いっきり遊び、笑い、感謝して食卓を囲み、眠りにつく・・・そんな当たり前の暮らしを通して心身の健康を維持し、免疫力や抵抗力をつけてもらいたいと願い保養を続けています。
コロナ禍以降は2~3家族10名程お迎えするファミリー保養という形で続けられています。原発事故による影響やその後歩まれてきた日々の中での悲しみや辛さ、苦しみ、葛藤はお一人おひとり異なります。少人数なので膝を突き合わせて話すこともあり、それぞれの状況を知り、異なる立場を理解し合うきっかけにもなっているとヒロさんは言われます。安心して語り合える場に、どれほど癒されることでしょう。
球美の里の運営団体「認定NPO法人いわき放射能市民測定室たらちね」さんが「Hahaの書―被ばくからこころとからだを守る防災―」を2025年4月に発行されました。もし再び原発事故が起きた時に同じ悲劇が繰り返されないよう、当事者視点の具体的なメッセージが詰まっています。私は消防士の方の言葉が心に重く残りました。「役目とはいえ、放射能で汚染された場所に行って作業することは、怖くて怖くて気が狂いそうだった。あの頃、こういう場所があって、気持ちを話すことができたら、どんなによかったか。あの頃は、誰にも不安や恐怖を話すことができなかったから」。大人であっても想像を絶する恐怖に晒され、その気持ちを誰にも言えずに心の中に閉じ込めて必死で生きてこられたことに気付かされました。ましてや子どもたちの不安はどれほどだったのでしょう。言葉にならない思いを心にずっしり抱えて生きてきて、思春期を迎え、成長してきた若者が多くいること・・・私たちは心に留めて過ごしてきたでしょうか。「福島復興の裏で、かき消されてしまいそうな声なき声を聞くと、なぜ一人ひとりが大切にされてこなかったのだろうと疑問を持たずにはいられませんでした。最近参加されたお母さんから『保養は一生必要だと思う』とメッセージがありました。この言葉が何を意味するのか?改めて考えなくてはならないと思いました」とヒロさんは胸の内を語って下さいました。
壁にはこれまで参加した子どもたちや親御さんからの手紙が貼られています。その中の一つには「保養に参加するのはとても不安だったけれど、球美の里では自分を必要としてくれて、頼ってくれてとても嬉しかった。誰にでも生きる理由はあるということを球美の里が教えてくれた」と綴られていました。子どもたちの心に負わせてしまった傷は簡単に癒えるものではないと思います。それでも、球美の里で感じる包まれるような安心感や、一人ひとりが対等に尊重される経験は、きっと子どもたちの〝生きる力〟につながると思います。これからも共に支えていきましょう。
(高橋百合香)

心を込めて食事を作るヒロさん。素材にこだわり、丁寧に作られた食事。皆で食卓を囲む、大切なひととき。

左:きれいな海で思いっきり遊ぶ子どもたち。
右:球美の里の保養に来ていた子どもたちが、阿嘉さんのハウスで実ったカカオを見て大興奮!阿嘉さんも嬉しそうでした。

壁に貼られた子どもたちのメッセージに心を打たれながら、掃除のお手伝いをさせて頂きました。写真左から、魚谷、ヒロさん、簑田、高橋。
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保養の効果について
「沖縄・球美の里」のパンフレットより一部抜粋
汚染された土地に住んでいる子どもや、事故当時被曝した子どもは、汚染されていない土地で、一定期間保養することによって、病気になりにくい身体をつくることが可能です。チェルノブイリ原発事故の被害を受けた子どものための保養施設「希望」(ベラルーシ)の統計によると、保養した子どもの体内放射性物質は25~30パーセント減少し、9割以上の子どもに、明らかな健康回復が見られます。
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久米島の沖縄戦
「戦争と人間」をテーマにした作品を作り続けている彫刻家・金城実さんの作品「未来を守る母子像」(久米島博物館前)を見に行きました。
大きな手で子どもをしっかり抱きしめ遠くを見つめる母。母の肩に腕を回してしがみつく子ども。命からがら戦禍を逃れてきたのでしょうか。幼い子はどれほどの地獄を戦場で見たのでしょう…。
アジア太平洋戦争で亡くなられた久米島町出身の方のお名前が刻まれた「慰霊之碑」、天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人の「痛恨の碑」も訪ねました。1945年、日本軍が久米島住民をスパイ視し、幼い子どもも含めて20人をも虐殺しました。それは8月15日を過ぎても終わりませんでした。8月20日には、朝鮮出身の谷川昇さんと妻のウタさん、生後数か月の乳児を含む子ども5人が日本軍に虐殺されました。軍隊が住民を守らないことは、歴史が証明しています。今も島民を苦しめ続ける凄惨な虐殺事件はなぜ起きたのか。それは、私たちの中に潜む差別や偏見とも地続きであると思います。歴史を学び、どのような平和をどのように実現していくのか、諦めずに対話をし、不断の努力をし続けることを誓いました。
(高橋百合香)

左:「慰霊の碑」 右:「未来を守る母子像」
