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カンチャンジャンガ紅茶農園より verda41

地域開発 人が人らしく生きられるために

若者たちの希望

文・ネパリ・バザーロ副会長 丑久保 完二

東ネパール北部、パンチタールの発展に貢献する紅茶農園

2013年3月、奨学金のモニタリングも含めて、東ネパール北部に位置する山、カンチャンジャンガの麓、パンチタールにあるカンチャンジャンガ紅茶農園(以下KTE)を訪れました。カンチャンジャンガ(8568m)は、エベレストK2に次いで世界第3位の主峰。チベット語で「偉大な雪の5つの宝庫」を意味しています。
1984年、K T E はこの地で有機栽培による紅茶生産を始めました。2001年より緑茶にも力を入れ始め、最近では、出荷量の60%は緑茶です。その他、コーヒー、スパイス、オレンジ、レモングラス、アムラの栽培もしています。全て、有機の国際標準に則っています。毎年の検査を実施し証明を発行しているのは世界で最も厳しいと言われるオーストラリアの認証機関NASAAです。今回は東洋大学キャンパスでフェアトレードの活動を展開するハートバザール代表とその指導をする教授を含む3 名が同行しました。彼らと共に皆様を現地にご案内します。

パンチタールはネパールの東。インド国境に近く、紅茶で有名なダージリンに続くイラムの丘陵地帯を北上します。パンチタールの中心、フィディムは茶の北限でもあります。メインガーデンは綺麗に刈り揃えられた緑の茶畑が見渡すかぎり広がります。早朝は霧 で厚く覆われ見えなくなることもあります。この紅茶栽培に適した環境は、多くのスパイスやハーブにも適しています。私たちが市場を創り、輸入を続けるなかで、欧米の取引先の目にもとまり、様々な農産物を生産し販売することができるようになりました。
KTEは周辺の農家たちにも働きかけ、紅茶やスパイスなどの生産を奨励し市場への橋渡しをすることで生活の向上を支援しています。また、地域に根強く残る、過去のカースト制度で植え付けられた差別意識を薄めるため、アウトカーストとされていたダリットの人々を雇用する目標を20%と設定し実行に移しています。
都市部では開発により仕事が増え、かなり教育も浸透し生活の質が向上してきています。しかし、まだまだ、農村部では状況が異なります。8割近くが農業に従事するネパールでは、農家の現金収入が少ないことで過去から様々な金銭問題が起きてきました。その一つが借金です。生産性が低く、ぎりぎりの生活を維持するだけの農業では、天候不順や病害虫による不作や家族に病人が出たりすると借金に頼るしかなくなります。返済できなければ僅かな土地も取り上げられ住む所を無くしたり、農奴のような身体的自由の束縛にまで及ぶこともあるからです。追い詰められてこの農園に助けを求めてくる人は後を絶ちません。ここに来れば仕事と住む家があり、子どもたちの教育も受けられるという噂が遠方まで広まっているのです。

ネパリ・バザーロ(以下ネパリ)は全てのワーカーの子どもたちに対して、幼稚園から高校卒業までの奨学金支援(フェーズ1)を12年続けてきました。また、高校を修了し進学したくても、両親を亡くしたり、母親だけであったり、兄弟姉妹が多かったりと、自力では進学を諦めなければならない人々のため、専門教育、高等教育支援(フェーズ2)も始め、今年で7年目を迎えます。この奨学金支援はネパリのサポート会員の方たちや、WE21ジャパン厚木、大学、高校の皆さんなど、多くの方たちの支援も頂きながら実施しています。(注1)

限られた学校しかフィディムにはないため、フェーズ2の進学先は都市部に出ることが多く、数人で小さな部屋に暮らしながら学んでいます。特に、カトマンズと農園の中継地点となるビルタモードゥで学ぶ若者が多くいます。その街には更に厳しい生活を余儀なくされているキサンという少数民族の人々が住んでいて、地元の人々の支援要請を受けて、専門学校や高等教育支援、養護施設などの支援も実施しています。

長年続けてきた教育支援により専門職を得て自立した青年たちも出てきました。その先輩たちの背中を見ながら育ち、夢を描いて学んでいる若者たちと日本の同年代の若者が会った今回の訪問が、それぞれによい刺激となり、将来に少しでも役立つことを願っています。

≪カマルさん(25 歳)、シャンティさん(24 歳)≫

ふたりは、KTEのメインガーデンがあるラニタール(工場から徒歩2時間)出身です。ダリットを積極的に雇用しようとするKTEの方針で製茶工場の宿舎で夜警として働いています。我が子のスルヤ君(3歳)には自分たちのような苦労はさせたくない、教育を受けさせ、よい仕事に就いて欲しいとのぞみ、「ここには奨学金制度があるから大丈夫!」と、期待しています。

≪プラディップ・バスコタさん(21 歳) ≫

プラディップさんは、KTEで2012 年から働き始めました。農園で働く人々が生活用品を安く購入できるよう開設した協同組合形式のお店の運営を担当しながら、フィディム周辺で学ぶ奨学生たちの資金管理、生活面のフォローを担当し、農園とネパリ・バザーロへの定期的な報告の任務を果たしています。メインガーデン近くの家に生まれ、その山の頂上の古い公立学校で12 年生まで学び、後、大学のあるフィディムの親 の家に厄介になりながら学んでいました。しかし、だんだん居づらくなり、一年が経つ頃、学ぶことはおろか食べることにも困るようになり、つてを頼って農園での仕事を得ました。働いて生活はできるようになったものの、学校に行く時間はなくなりました。奨学金のモニタリングの時に彼と出会い、状況を知りました。仕事と勉学の両立を果たし卒業したいという必死の願いを聞き、農園に改善を要求し、半年かけてようやく実現。今は、午前中は仕事、午後から大学に通っています。プラディップさんと姉妹の3人は、父親が再婚した年の離れた妻との間にできた子たちで、父親はもう70 才を過ぎ、農業もきつくなりました。元々、農業中心の自給自足の生活は、子どもを学校に行かせるには負担が大きく、姉妹は進学を辞めざるをえませんでした。プラディップさんが農園で働くようになりフィディムに部屋を借りることができたので、姉妹は進学の希望をもってともに暮らすようになりました。しかし、街での暮らしは予想以上にお金がかかりました。プラディップさんの収入だけでは3人が食べていくのもやっとで、姉も、進学の時期がきた妹も働く所を探さねばならず、学校どころではない状況で、やはり例外として今年からふたりへの奨学金と生活費補助を出すことになりました。ふたりとも学校へ行けなかった時期が長いので、そのハンディを克服するのは大変ですが、得たチャンスを活かそうと頑張っています。

≪ビシュヌ・テギンさん(18 歳)≫

ビシュヌさんはパンチタールに多く住むリンブー民族の女性です。母親は夫を亡くした後、生活苦から再婚しましたが、再婚相手はビシュヌさんを連れてくることを望まず、経済的援助もしてくれませんでした。ただ一人の身寄りである祖母には現金収入がほとんどなく、僅かな農地と小さな家があるだけです。その家も学校からは遠いため、友人たちにお金を借り一人暮らしをしながらカレッジに進学しようとしていました。奨学金支給決定の直前に母親が再婚のため紅茶農園を離れたので支援リストから外されてしまったからです。成績優秀と報告を受けていた彼女の名前がリストにないので確認したことでその厳しい状況が分かり、例外として支援を決定しました。今年は2年に進級しました。若い女性の身で誰にも頼れず、一人で生きていく状況に追い込まれたビシュヌさん。運命に負けず頑張る利発でしっかりした女性です。勉強の邪魔をされたくないから一人で暮らしたいという程必死で頑張るのですが、昨年の入学が少し遅れたため、ついて行くのが難しい学科もあり、私たちも補講などの支援を学校にお願いしました。

≪ススマ・バッタライさん(22 歳)とインドラカラ・バッタライさん(21 歳)≫

ススマさん、インドラカラさん姉妹は製茶工場から山を越えて3時間ほど奥に入ったナンギンという村出身で、高校までそこで学びました。その後、フィディムのカレッジで2年間学び、現在、ふたりとも大学の教育学部2年生です。父親は亡くなり、母親は紅茶農園で働いていますが、季節労働者なので収入は安定しません。僅かな農地からの収穫と合わせ何とか生活していますが、子どもが多く教育費用までは手が回りません。ススマさん、インドラカラさんの下に、やはりネパリの奨学金でカレッジを卒業したばかりのジャルサさん、同じく准看護士のコースを終えたばかりのマンマヤさん、今年、高校を卒業する弟と末っ子の弟がいます。姉2人、兄1人は結婚し家を出ています。厳しい経済状況の家庭で、母親の苦労を目の当たりにしながら育った彼女たちは、経済的な力をつけることがどれほど大切かを知っていて、大変な努力をしながら学んでいます。

日本でも色々なつながり方があります!
≪鎌倉女学院中・高等学校≫

≪フェリス・フェアトレード≫

≪NPO法人 WE21ジャパン≫

 

(verda 2013秋  Vol.41より)