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カンチャンジャンガ紅茶農園より verda18

地域開発 人が人らしく生きられるために

内戦終結と未来への道のり

文・ネパリ・バザーロ副会長 丑久保 完二

世界第3位の高峰、カンチャンジャンガを望む東ネパールのパンチタール地域。生活の厳しさから、今日まで、政府、マオイスト(反政府勢力)が向き合う地域でもありました。 2006年11月21日、約10年にも及んだ対立から、和解への調印に至りました。この調印は、多くの人々の犠牲の上に成り立ったものです。罪なき人々が殺され、傷つけれ、多くの血が流されました。極度の貧困、政治の腐敗、都市部の人々の遠隔地や貧困への無関心が生んだ内戦の終結に向けた宣言です。
人々の政治に対する意識も変わり始めています。まだまだ不安定要因はあるものの、確かに言えること、それは、厳しい生活を余儀なくされている人々の収入向上への地道な取組こそが、より重要ということです。一部の人の懐を肥やす援助を止め、必要とする人々に手が届く開発ができるか否かが問われています。
遠隔の地で暮らす人々と共に改善に取り組む活動、オーガニックで生産された紅茶、コーヒーを始め、スパイス、オレンジ、ロクタ、コットンへの広がりがもたらす近未来への道のりを辿ってみました。

山の中に広がるフェアトレードの世界

2006年11月、ネパールの首都カトマンズから国内便の小さな飛行機で東へ向かう。左上方に8000メートル級のヒマラヤの山々を見ながら約1時間飛ぶと、平野部に位置する飛行場、バドワプルに着く。11月とはいえ、昼間は暑く、半袖がちょうど良い。ここから北へ約100キロ走ると目的地フィディムに着く。幾つもの山を越え、紅茶で知られるお茶畑が続く田園風景のイラムまでは舗装された良好な道が続く。車を飛ばして約3時間で行ける。そこを過ぎても、昨年より舗装された道路が延びて着実に遠隔地へのアクセスが改善されていることを感じる。もう少しというところで、ゴツゴツした石の道になり、土がえぐられて輪だちになったガタガタ道に変わる。それでも、昨年よりは良い。なんとか、この地域の中心であるフィディムの町中に入った。そして、紅茶農園に向かう、車が1台やっと通れる道に突入する。揺れはさらに激しくなる。朝、ネパールの首都カトマンズを発ち、夜も8時近い。すでに外は暗闇だ。その時、大きな岩と深くえぐれた輪だちが急カーブした道に立ちふさがり、ジープですら前進することができなくなった。外に出て見上げると、たくさんの星が降ってきそうなほど輝き賑わっていた。紅茶農園から、車高のある特別なトラックが来るのを待つしか方法はない。しばらくして、車を乗り換えたが、揺れはさらに大きく、突然の衝撃でひっくり返り、頭と足が上下逆になってしまった者もいた。まだまだ、これはほんの序の口、これからの旅を象徴するかのようだった。

カンチャンジャンガ紅茶農園から ゴペタール地域へ

荷台にぶっつけた頭、手足の痛みが限界に達した時、やっと農園に到着した。待ち兼ねた村人たちより花輪の歓迎を受け、遅い夕食が始まった。ここからは、カンチャンジャンガ山が一望でき、近くの山の上にはフィディムの町が見える。紅茶だけでなく、コーヒーも今年から採れるようになった。また、カルダモン、シナモン、ジンジャー、ベイリーフなどのスパイスも栽培している。JAS認定も2001年10月に受けている。ここの特長は、海抜2000メートル前後の山間部で、空気と水が新鮮で豊富なこと、山の斜面が険しく不毛であった土地を活用して、協同組合形式で紅茶農園を作ったことである。最近では、オレンジピールも始め、オーガニックコットンも開発中だ。スパイスも、着実に広がり始めている。そのスパイスは、紅茶農園に働く農家で栽培しているケースと、そこに属さない女性グループで栽培しているケース、そして、この郊外であるゴペタール地域に分かれ、将来的には、フィディムの北側に位置するさらに遠隔の地、チリンデンも視野に入れ、調査中だ。
翌日、いっそう険しい道を通り、ゴペタール、チリンデンを訪問した。ハードな道を車で2時間、そこから徒歩で1時間急坂を登り下りした。そのどちらも、リンブー族(注1)が住む村だ。日本人と顔つきが同じで、習慣も似ている。自立する意志が強く、アイデンティティーを守るために、自分たちからマオイスト闘争に参加したとも云われる誇り高い人々だ。生活は、町からアクセスが困難なだけに厳しい様子が伺えた。学校に行けない子もまだまだいるが、金銭の助け合いシステムはない。私たちが関わっていく中で、貢献できたらと思う。
ゴペタールでの訪問を終えての帰途、突然、橋の前に群集が手を振り立ちふさがった。夜になり、周りは暗闇だ。「ビラミ(病人)、ビラミ!」若者がバスに跳ねられ、放置されたというのだ。手足を骨折した青年が大勢の村人に運ばれて来た。私たちの車は突然、救急車に変身。フィディムの町の国連病院へ運んだ。この周辺は、トラック1台も、大変貴重な交通手段なのだ。良質のお茶ができても、道があっても、車がない。その現実をまのあたりにした。(注2)

地域貢献とパートナーシップ

町から遠く離れた、この紅茶農園は、地域の生活水準向上に大きく貢献している。紅茶工場では約50人、紅茶農園では約200人が働き、茶摘みの季節にはさらに多くの人々が仕事を得ている。幾つかの福祉プログラムも実施しているが、特に、紅茶農園、県立神奈川総合高校の自主活動によるワンコインコンサートのスタッフと私たちネパリ・バザーロの三者が共同で実施している奨学金福祉プログラムが地域にもたらした影響は絶大だ。これによって、農園の子どもたち全員が学校に行かれるようになった。土地がなく、借りた農地での耕作もうまくいかず生活に困り、この農園に働きに来ていた人々の子どもたちが学校に行けない状態であったことが、そのきっかけだ。今年で丸5年が経ち、あと2年で終了するプログラムである。その効果があまりにも大きく、今後の舵取りをこれから検討していかねばならない。それは、今でも、生活に困った人々がこの制度を頼りに紹介されてくるからだ。また、高校修了資格に合格する子どもたちも出てきた。その後の支援をどうするか迫られている。農園のワーカーの子どもたちがその対象であるが、特例として、ワーカーの子どもたち以外に適用した事例もある。反政府勢力活動が激しい頃、それは、つい最近のことだが、マオイストに夫を殺された女性のケースだ。親戚の茶店を手伝い、食べることは何とかしのいでいるものの、子どもたちを学校に行かせることはできなくなった。そこで、この制度を適用することを決め、支援をしている。出会いは昨年のこと。農園から車で3時間ぐらい走り、もう一つヒマラヤ側に山を越えたゴペタール地域に行った時のことだ。スパイスの調査も兼ねてその地を訪れた時、地元のソーシャルワーカーから紹介された。私たちにとっても、大きな発見があった。その女性が自分の畑で採れたものを市場に出せないかと持ってきたものが、なんと、オーガニック・コットンだった。当時、ネパールでは無いとされていた。今後の経済的自立に役立つばかりでなく、ネパールの貴重な外貨獲得の農産物に発展できる可能性も秘めているのだ。今年は、この調査も実施した。地域農業開発事務所とも情報交換を実施し、実現に向けて動き始めている。
紅茶農園で働く人々は、以前より暮しが楽になったと言う。毎日仕事があるのは、とてもありがたいと。生活はまだまだ厳しいが、地道な努力を積み重ね、人々の意識も変わり始めている。

歓迎の子どもたちの踊りとライフル

到着翌日から2日間、174人に出している奨学金のモニタリングを兼ねて学校を訪問した。今回は、オレンジの畑や、スパイスの畑を調査しながら近隣の学校を初日に3校、2日目は紅茶のメインガーデンを中心に2校訪問した。今回は時間の関係で他の学校をまわることができない。予想を上回る歓迎の花輪で、前を歩く仲間の頭も、後から来る仲間の顔も見えない。大きなビデオカメラは、そのレンズの先がわずかに花輪から出ている。踊りの歓迎、私たちからの感謝のスピーチ、先生方との懇談・・・。特に、2日目のカリカ小学校は紅茶のメインガーデンから急坂を相当の距離登り、やっと到着した。「ワンコインコンサート歓迎」の旗が印象的だった。そこで歓迎を受け、次の学校に向け、さらに急坂を登る。山頂を目指し移動中のマオイスト兵の一行が、私たちと混じりながら登り始めた。和平協定(注3)で決められた、国連監視下のキャンプに移動するためだ。男女を問わず、あまりにも若い。その兵の多くが、ライフルを手にしている。この異様な光景が、今、私たちがいるところが、つい最近まで戦闘地だったことを思い出させる。一日も早く平和で安心して暮らせる社会が来ることを願うとともに、私たちの責任の重さを感じた。
学校といっても、それぞれに状況が違う。今回も、ハンディキャップの人々への支援を求められたり、図書室に科学関係本の充実を求められたり、校舎の修理などの要求を受けた。私たちの力では全ての要求を満たすことはできないが、無関心だけは避けたい。共に生きる姿勢が彼らのやる気を引き出し、改善を促すことになる。地域との交流を織り交ぜながら、収入向上に向けた素材開発に取り組むこと、成功させることを心に誓う。

歌を通した交流

フィディム、特に紅茶農園の地域に住む農民のスパイスは、女性がグループを作り、運営している。ここは、リンブー族の人々が中心だ。「市場の変化に生産が対応できず苦しんでいます」とリーダーの一人が話を切り出した。市場より高く購入してもらえるのか、市場を保証してくれるのか、コーヒーを始めた頃の生産者の話とダブって聞こえてくる。お互いが信頼し合い、共にリスクを負い、前向きに取り組めるまでには、まだ時間がかかることだろう。大変緊迫した中、話も一段落したので、同行した新垣誠さん(104頁参照)にギターを弾いてもらい、日本のポップス「ジョニーの子守歌」を歌った。タンバリンの代わりに金属の皿を借りて「パン、パン」とリズムをとる。私たちが歌い始めた途端、皆の表情が和らぎ、スパイス生産者の女性が続いて歌を歌い、その後、男性が即興で歌いながら踊り始めた。「日本という遠方から来てくれたネパリ・バザーロの皆さん、ありがとう・・・」一気にお祭り騒ぎになった。お互いの距離が近くなり、次回の話し合いを約束してこの場を後にした。

注1)ネパールは多民族国家で、約50の民族(70の言語)からなる。リンブーは、山岳地帯に住む民族である。
注2)農民との話し合いの中で、運送手段の改善に向けて、トラックが必要との相談も受けている。
注3)2007年の新憲法制定まで、政府軍、マオイスト、共に武器を国連側に預け、マオイストは国連監視下の指定されたキャンプに集結することを前提に和平協定が結ばれた。

ディリー・バスコタさん(カンチャンジャンガ紅茶農園カトマンズ事務所長) より≫

人里離れた村の、小さな農家の地域共同体であるカンチャンジャンガ紅茶農園では、有機栽培紅茶を生産しています。ネパリ・バザーロの取組を通じて、最近では、周辺農家の市場への橋渡しを行い、オーガニックのスパイス、オレンジピール、コットンなど、地域発展につながるものにも前向きに取り組み始めています。地域への貢献を願い、ネパリ・バザーロと共に試行錯誤をしながら歩んでいきたいと思います。それは、確実にネパール農村部の貧困を軽減し、人口の8割を占める農家の生活の質向上に貢献することでしょう。

タラ・バスコタさんとプラミタ・バジュラチャルヤさんインタビュー≫
インタビュアー・丑久保完二

完二 お二人は、カンチャンジャンガ紅茶農園のカトマンズ事務所でいつもは仕事をしています。タラさんは頻繁に紅茶農園に行って、頑張っていますね。お二人の仕事と奨学金での役割を教えてください。
タラ ネパリ・バザーロの方々が毎年、ネパールの紅茶農園、工場、学校、生産者の家々を訪れ交流を図り、システムをより良くするために沢山の議論をして頂いていることに感謝申し上げます。私は、この奨学金をまとめる代表の責務を負っています。精一杯、やらせて頂きたいと思います。事務所では品質管理を担当しています。紅茶の品質チェック、パッケージングなど、お客様と直接関係がある部門です。
プラミタ 私は紅茶農園の販売部門で会計をしています。この奨学金においても、会計という責任あるお仕事をさせて頂き、光栄です。
完二
 タラさんは、農園近くの村の出身で、品質管理ということから農園と常々やりとりがあるので事情に詳しいですし、プラミタさんは、会計という専門の知識を活かしておられるのですね。奨学金支援を通して、感じたことがありますか?
タラ 皆さんと一緒に地域の開発に関われ、多くのことを学び、とても幸せです。ローカーストの家庭で、今までなら学校に行けなかったスシラちゃんという子がいますが、クラスで一番の成績です。そのような多くの子どもたちが学校に行ける機会を得ました。日本の高校生が、このはるか遠く、ネパールの子どもたちの支援をしてくれるなんて、信じられないような出来事です。
プラミタ 子どもたちの将来に果たす、教育の役割はとても重要で、この奨学金は大きな意味があります。私はカトマンズと云う都市に生まれ、あまり農村部のことは知りませんでした。皆さんが遠い地域に住む子どもたちのことを考え支援するその姿勢に、私も多くのことを学んでいます。
完二 あと2年で奨学金は終わりますが、現場からみた感想と提言をお願いします。
タラ
 この奨学金は、「学校へ行けない子どもたちが一人もいない」というネパールの歴史上初めての出来事で、今まで不可能だったことを可能にしたという事実が地域に与えた影響はとても大きいと思います。それほど注目されている奨学金ですが、設立した時から皆さんと話し合ってきたことは、農園の労働者に牛を与え、その糞を農園に売り、ミルクは近隣の町で販売して副収入を得て、7年後には、奨学金を終えようということでした。すでに、その牛プログラムは始まっていますが、その置き換えまでには、あと2年以上必要でしょう。
プラミタ 7年の期限で奨学金が終了した時、従来の部分は、牛を飼うことによる収入向上で代替できるよう頑張っています。その際、もし、可能なら、高校卒業資格を得た女子が高等教育を受けられる支援の仕組みがあれば、さらに、地域にとって大きな貢献になるだろうと思います。その検討を是非、ご一緒にできたら心強く、嬉しく思います。
タラ 大学を卒業しても仕事がない人が大勢いるので、高校卒業資格だけで仕事を得るのは難しいのが実情です。さらに、遠方の地では病院がなかったりするので、インドの伝統的な医学療法であるアーユルベーダの技術を学ばせ、予防治療を行うことは、仕事創りと医療の側面から社会にとって良いことだと思います。昔は、出産で多くの女性が亡くなりました。今は、そうでもなくなりましたし、教育を受けて知識も増してきましたから、アーユルベーダの知識があれば、山にある多くの植物を活かして治療に役立てることもできます。昔のように難産で死ぬケースも減ることでしょう。
プラミタ ニーズがそこにあるので仕事も得られ、そして社会環境も改善されることで人々の考え方も変わり、地域の活性化にもつながることと思います。
完二 日々お二人が頑張ってくださっていることで、子どもたちの支援ができていることに、感謝申し上げたいと思います。ありがとうございました。

工場ワーカーの暮らし≫
リタ・ダウエルさんは、3人の家族と妹家族8人と一緒に暮らしている。結婚前は、もっと南に位置するジャパに住んでいたが、結婚してこちらに来た。しかし、酒飲みの夫は8ヶ月前より行方不明。生活ができなくなり妹家族に身を寄せたが、借地での農業は充分な土地がなく生活に困り、本人も、妹夫婦も、この農園で働き始めた。ここで働き始めたのは、子どもたちの奨学金のシステムがあると友人が教えてくれたからだ。紅茶農園が提供する宿泊施設で生活しているが、部屋は、リタさん家族と妹家族とは別々にしている。リタさんは、6才の息子と4才の娘と暮らし、妹家族は、夫の両親、夫、6才の息子、4才と2才の娘、そして、14才になる夫の弟と暮らしている。毎朝、5時頃に起き、土間の片隅で、お茶の支度をすることからリタさんの一日は始まる。このあたりは、クンバカルナ山(7710メートル)、カンチャンジャンガ山(8586メートル)の景色が美しい。

≪村を歩く≫
文・LaMOMO映像担当 日下部信義

2005年11月に引き続き2006年11月に映像担当としてネパールに同行しました。
極東ネパールのフィディムの町、その隣の山の中腹に森に囲まれて、カンチャンジャンガ紅茶農園の工場と事務所がポツンとたたずんでいます。ディリーさんをはじめ農園のスタッフはみんな、毎年欠かさず来てくれる完二さん(ネパリ・バザーロ副代表)に、親しみを込めて「カンジサン」と日本語の敬称を使います。その農園の事務所に宿泊し、毎日、日が暮れるまで山道を歩き、舗装されていない凸凹道を農園のトラックで走りまわって、紅茶、スパイス、オレンジの生産者を訪ねました。
紅茶農園は、国境を挟んだインドのダージリンに近く、ほぼ同緯度です。日中の寒暖の差が激しく、香りの良い茶葉を作ることができます。森に囲まれた南向きの急斜面に広がる茶畑では、山歩き用の靴であっても、登るにも下るにも足をとられて、なかなか進むことができません。油断すれば本当に転げ落ちると思いながら、茶葉を摘む人たちになんとか近づくと、その中に裸足の女性がいました。大きな籠を額から背負い、両手で淡い緑色の茶葉を摘み取りながら、足元を気にする素振りも無く、歩きまわって作業を続けます。
崖崩れの跡じゃないのかと思えるほどの山道を下り、日本人が通ったことがないというゲートをくぐり抜けて辿り着いた、リンブー族の村チリンデンでは、稗(ひえ)のスープや稗のクレープのようなものを頂きました。堆肥の説明を聞き、コリアンダーの葉をつまんで味見をしながら、畑を見て回りました。さらに1時間はかかると思われる眼下には棉花畑が見えました。もしそこで収穫した作物を近くの町まで売りに行こうとするなら、山積みの作物を背負って、2時間山道を登り、さらに1時間歩かなければいけません。往復6時間の道のりです。チリンデンだけでなく、そのような環境の家庭が少なくないと、フィディムの山々を見ればわかります。町からだけでなく、街道からずっと離れたところに畑や家が点在している景色が、見渡す限り続いているのです。
紅茶農園から、トラックで2時間北へ向かい、さらに1時間歩いたゴペタールでは、青空の下、岩に腰掛けて農家の方たちと向き合い、完二さんがオーガニックの重要性と今後の可能性を訴えました。同行した新垣誠さんも日本の消費者が食の安全を求めていること、自然農法で作られるこの地域の農産物の重要性を伝え、皆で意見を交換し、再会を約束して別れました。
連日、生産者を訪ねて、畑を見て回り、話しかけ、話を聞いて、生産者と向き合い、オーガニックについて、これからの展望について語り合う。話が堅くなりすぎた時にはお互いに歌を贈り、まだまだ男女差別の厳しい村では、話し合いに参加させてもらえない女性たちにも男性と同じように日本からのお土産を渡し、同じように挨拶し、インタビューする。現地の稗のお酒トンバを飲み、村の人と笑い、時には笑わせる、この様な「カンジサン」の行動が、年々着実に信頼関係を築き、顔の見える関係を広げています。
私は、フィディムの地域の子どもたちの中に、やせている子はたくさん見たのですが、太った子を見た記憶がありません。カメラを向けるとはじけるような笑顔を見せてくれる子どもたちは貧困の影を見せませんが、ノートや、ペンを持っていない生徒がいること、学校へ行くことができない子どもがいることは、この地域の生活の厳しさを物語っています。
大自然に囲まれて自然農法で作られたネパール遠隔地の産物を、日本で食べられることに深い感謝の念を持ちました。そして、その産物を使うことが、現地の生活環境の向上につながり、貧困を解決する手段となっていることを体感することができました。ネパリ・バザーロの活動が、限られた作物しか育てられない農家や、耕作地の少ない農家、畑を持っていない家族へ、農園の工場の仕事、茶摘みの仕事を作り、作りなれたスパイスなどで安定した収入を得ることを可能にしています。子どもに充分食べさせ、学校に行かせられる家庭を、今も増やし続けているネパリ・バザーロの活動を応援していきたい、この地域のために何かしたいと強く思った旅でした。