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アネモネとそよ風 tsuna08

第四話 原発を作らせなかった村 ―そして開拓保健婦さんのこと

文・友岡雅弥


岩手県の盛岡駅ビル・フェザンに「さわやか書店」フェザン店があります。ポップを始めとして、読んでもらう工夫がさまざまに凝らされた店内。発売から三十年近くたった本が、「さわや書店」の店頭から、急に再び売れ出し、全国ベストセラー(200 万部超え)になったこともあるという、とてもユニークな本屋さんです。
さて、その「さわや書店」フェザン店で、震災以降、長く平積みに置かれ高い反響を得た書籍があります。ポップには「岩手県に原発がない理由が本書を読めば分かります』とありました。
岩見ヒサ著『吾が住み処 ここより外になし 田野畑村元開拓保健婦のあゆみ』(萌文社、2010 年)です。
「開拓保健婦」さんとは、厚生省(現・厚労省)所轄の保健所ではなく、農林省(現・農水省)管轄の営林局などに所属し、医師のいない「開拓地」を担当する保健師(当時は「保健婦」)さんです。「開拓地」について、少し説明したいと思います。

第二次大戦前、旧満州などに、国策で多くの日本人が「開拓」のために移住しました。そして敗戦。開拓や兵役で外地にいた人たち、その家族が600 万人、引揚げてきます。
食糧不足と失業対策のため、満蒙開拓からの引揚げ者などが、国策でこんどは国内の農地開拓へと向かうことになったのです。しかも、未開墾地が中心。
勤勉とされる日本人が、ほったらかしにしていた土地というのですから、どれほど不便で農耕不適地か、分かりますね。読者の皆様にとってお馴染の野田村、飯舘村など、あの美しい村々の多くの地区が、この開拓で開かれたのです。どれほどのご苦労だったでしょう。
こういう証言があります。
「家族が病気になっても薬もなければ電話もなく、薬草で何とか持ちこたえる毎日であった。この苦労は私共だけで結構です。決して子供や孫には苦労をさせたくありません」(小林正「話しきれぬ50年の苦労」、浪江町津島「沢先地区」開拓50周年記念誌準備委員会編『沢先開拓誌』)。
開拓村には病院もなく、医師もいません。そこで「開拓保健婦」が生まれました。1947年(昭和22年)から70年(同45年)まで続きます。
ヒサさんは、1956 年(昭和31年)に、辞令を受けました。岩手県北部沿岸にある田野畑村(お馴染の野田村の隣村です)に駐在し、徒歩で平均往復4~5時間のところに点在する開拓地の家庭訪問と保健指導を、毎日続けたのです。
1981 年(昭和56年)、突然、田野畑村が、原発の建設候補地とされました。
この時、粘り強く反対運動をしたのが、岩見ヒサさんであり、地元の漁民のかたがたです。結局、一年後、計画は白紙となりました。
岩見さんが、反対運動の柱となりえたのは、田野畑の各所に散らばる開拓地を歩き回り続けた、その姿への信頼からでした。
別の保健師さんに開拓保健婦時代のお話をうかがったことがあります。
「先輩についていくと、サハリンから引き揚げて入植された方が、寝たきりだったんです。吐く息が凍る寒さのなかで、土に直接ムシロを敷き、ガリガリにやせて。先輩が言いまし
た。『この人たちは、国に見捨てられた。外地でも、ここでも。だから私たちが最後の砦なの。私たちが守らなければ、だれも守らない』」
これと同じ「一人の人を守るこころ」で、岩見ヒサさんは、田野畑村を守ろうとしたのでしょう。

今、新しい時代の医療・保健・介護・福祉の形として、「地域包括ケア」が進んでいます。しかし、今から半世紀以上前の、岩見さんたち開拓保健師さんの姿は、間違いなく、その先駆けと言えるでしょう。
未来は、「みちのく」の片隅で、すでに用意されていたのです。

1枚目写真
さわや書店フェザン店で。


田野畑村机地区にある番屋(漁師小屋)群。「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれたが、津波で壊滅。今は、再建されている。

飯舘村豊栄地区に残る開拓記念碑。

アネモネとそよ風 

風で花粉を運ぶ「風媒花」は英語で「アネモフィリー」。「アネモ」はギリシャ語で「風」を意味します。早春に咲く、アネモネもそれに由来します。昆虫や動物によって拡散する植物は、花が派手で蜜やいい匂いを持ちます。「風媒花」は、概して地味です。でも見つけ出す風があれば、遠くまで飛んでいきます。社会の片隅で、今、すでに未来がはじまっています。「アネモネ」の花言葉の一つは、「信じて待つ」。未来を信じ、見つけ、届けることのできる「風」になりたいと連載です
(つなぐつながる2018夏 vol.5より)