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アネモネとそよ風 tsuna06

第三話 沢内村の奇跡

社会の病を患者が治す

文・友岡雅弥

あこがれの地 

昔話が好きだったので、佐々木喜善、大友儀助などの民話収集家の事跡にひかれ、東北各地によく行っていました。そして、震災以降は東北に行く目的が大きく変わりました。場所も太平洋側に。
でも、ずっとかわらぬ「あこがれの地」があります。
岩手県の沢内村です。このところ、年に数度、通っています。今は、湯田町と合併して、西和賀町となっていますが、僕自身にとっては、かわらず「沢内村」です。
今から半世紀前、それまで日本で最も「乳児死亡率」が高かった沢内村は、わずか5年で、日本で最初に乳児死亡率0を達成しました。「自分たちで命を守った村」「生命行政の村」とも言われ、多くの書籍の題材にもなりました。
2メートルを越える積雪に埋もれ、「雪・貧困・多病多死」の「三重苦」にあえぐ村でした。ながく無医村で、医師にかかるのは、死亡診断書を書いてもらうため他の町に行ったときだけ。死者をおぶって、何十キロも雪を踏み分けて歩きました。もう働いていないのに病気になってもうしわけない、と自殺する高齢者もあとを絶ちませんでした。
1954年に国と県が運営する国保沢内病院ができました。ある大学から何人もの医師が、院長として派遣されてきたのですが、高齢で診察がおぼつかない、また患者を見下した傲慢な態度、2ヶ月で辞めるなど、雪に埋もれる「寒村」を軽視しているとしかいいようのない「派遣」ばかりでした。

沢内生命行政 

1957年5月、教育長であった深澤晟雄(ふかさわ・まさお)さんが村長となりました。「すべてがこの生命尊重の理念に奉仕すべきものである」との就任時の宣言を、村長は、文字通り命を懸けて(1965128日、村長在職のまま、59歳でガンで亡くなります)現実のものとしていきました。
村長は歩きました。まず「医師」を探しに。60年、加藤邦夫医師(内科医)が院長として、63年には、外科の増田進医師が副院長として赴任してきたのです。増田医師は、同時に村の厚生部健康管理課長を兼任し、医療・福祉と行政が一体となった体制が整いました。
写真で分かるように、病院と村役場の厚生部が同じ建物のなかにあります。いいちち、書類を書いて上長のハンコをもらい、村役場に送り、などという縦割りはありません。全体的感に立ちつつも、細かな連携がとれたんです。
好例がこのジープと雪上車(南極観測隊仕様です!)。これ、「救急車」なんです。どんな悪い条件でも、いのちを救おうという意志が見て取れますね。通常、救急車は消防署(自治体の役場の管轄)にあり、そこから患者のところに行き、そして病院に運ぶ。しかし、沢内方式は、救急車は病院に直属し、病院から直接急患のところに行くのです。しかも、しかも医師が乗って。そして、救急車としての出動がないときには、村の行政の仕事にも使うんです。

村が変わっていく 

村長は、来る日も来る日も、動きました。
普通「首長が動く」というと、永田町や中央省庁への「陳情」です。しばしば「中央とのパイプの太さ」が首長選のキャッチフレーズであったりします。しかし、深澤村長が動いたのは、逆方向です。
村の暮らしの最前線へ、です。
深澤村長は「村人とのパイプ」が太かった。村長は青年会、婦人会など、村人の集まりを次々と活性化していきました。自分たちで村をよくしていこう、という住民の意識を作り上げていったのです。
とともに、動いたのは保健婦(保健師)さんです。村長は医師より先に、保健婦さんを雇ったのです。4人の保健婦さんが、毎日毎日、一軒一軒家庭訪問を続けました。一人一人のことも、村全体として取り組むべき課題も、保健師さんがつかんできたんです。
今も、「沢内」で小さな診療所を開き、心のこもった医療を行っている増田進医師は、いつもこう語ります。
「沢内生命行政のアイデアは、ぜんぶ保健師さんの意見です。しかも、保健師さんたちが病院を出て外を動いたから、村の人の意識も変わって行ったんですよね」
保健婦さんの活動を援助するための、村の地区ごとに「保健連絡員」という制度がありました。保健などに関する役場からの連絡を村人に伝えることが主な役割でしたが、増田医師は、もっと大事な役割があると考えました。つまり、「村から住民に」ではなく、「住民から村へ」という流れを担う役割です。切実な要望、忌憚ない意見を村民から聴き取って、村役場に伝える役割があると考えたのです。
それまで保健連絡員は、名誉職でした。地域の「エラい人」ばかりでした。増田医師は「選び直しをするべ」と、連絡員の役割を説明して回りました。そして選んだところ、全員が女性。日ごろから面倒見のよい、地域のことを愛する人が選ばれてきました。こうして村が大きく変わって行ったのです。
保健婦さんを中心に、行政、議会、村民が話し合い、実状に根ざした「沢内村地域包括医療計画」を立てて行きました。現場から離れたところで作成され、「上から降りてくる計画」ではなく、「現場から練り上げられた計画」です。
現在、医療、看護、介護、福祉の垣根を越えた、「次世代の町づくり」として、「地域包括ケア」が、厚労省主導で推進されています。しかし、半世紀前に、それを考え、そして実現したのが沢内村だったのです。

私たちがやる 

「国がやらなければ、私たちがやる」——それが深澤村長の口ぐせでした。1960年(昭和35年)に老人医療費無料化(65歳以上)、翌年に60歳以上無料。障がい児・障がい者、母子家庭なども、無料化されました。「社会的に弱い人を大事にしないと、社会がなりたたない」が村長の信念でした。
医療費無料化で、村の医療費負担が増え財政がパンクすると言われました。しかし、現実は逆でした。無料化をスタートした時点で、県平均より1.3倍多かった国保医療費は、5年後には県平均に。15年後には、県平均の7割ほどに減っています。気軽に医療にかかれるので、病気が重くなる前に治療ができたからです。高齢者の自殺も激減しました。

患者が「社会の病気」を治す
何度か、増田医師の診療所を訪れたことがあります。実は趣味が共通(自作のスピーカーでの音楽鑑賞)なんです。いつも、温和な語り口ですが、「医療」の理念について、ゆるがぬ気骨をお持ちです。例えば……
「『社会の病気』を治してくれるのは、患者さんの声なんです。人それぞれの希望にきめ細かく対応していくことで、医療、社会がよくなって行くんです。今、医師はまるで裁判官か管理者です。血圧とかの数値を挙げて、食事に気をつけなさいとか判決”を下すんです。患者さんのことは、患者さんに聴けばいい。そのなかに、いいアイデアがあるんですよね。どこまでも主人公は患者さん。そして医師はサポーターです。

1枚目写真
●沢内の救急車−−ジープと雪上車。「人を救おう」という意志のあらわれ

増田進医師。とても誠実で気さく、しかし、“医学の今”を語るときは真剣そのもの。

保健婦さんは村中を巡回し、気さくに声をかける

アネモネとそよ風 
風で花粉を運ぶ「風媒花」は英語で「アネモフィリー」。「アネモ」はギリシャ語で「風」を意味します。早春に咲く、アネモネもそれに由来します。昆虫や動物によって拡散する植物は、花が派手で蜜やいい匂いを持ちます。「風媒花」は、概して地味です。でも見つけ出す風があれば、遠くまで飛んでいきます。社会の片隅で、今、すでに未来がはじまっています。「アネモネ」の花言葉の一つは、「信じて待つ」。未来を信じ、見つけ、届けることのできる「風」になりたいと連載です
(つなぐつながる2017秋冬 vol.6より)