1. ホーム
  2. > 特集
  3. > 「特別病室」という名の〝監獄〟 tsuna41 2026a

「特別病室」という名の〝監獄〟 tsuna41 2026a

「特別病室」という名の〝監獄〟

~他に類を見ない恐ろしい〝監獄〟はなぜつくられ、なにが行われたか~

文・土屋春代(ネパリ・バザーロ創立)

かつて、栗生楽泉園(群馬県草津町にあるハンセン病国立療養所)には、1938年から9年間だけ存在した正式名称「特別病室」という監獄がありました。国策である絶対隔離政策を妨げるおそれがある人、療養所の方針に従わない人、療養所からの脱走者などなど、あるいは管理者の恣意的な判断による人も収容されていて、いつのまにか入所者たちに「重監房」とよばれるようになりました。
施設入口の上には「特別病室」と書かれた表札があり、厚く重い扉を開けて中に入ると「医務室」と札のかかった部屋もあり、一応病室らしき体裁はとられていましたが、ほとんど使用された痕跡がなかったそうです。病室とはよくも名乗れたという恐怖の施設でした。
ここに投獄された人は延べ93人、内23人が獄内か出獄して間もなく亡くなりました。記録らしきものがほとんど残存せず未だに詳細が分かりません。入ったら生きて出ることは難しいと全国の療養所の入所者に恐れられました。
楽泉園で長年暮らした方たちの中には重監房の存在を世に知らしめ、亡くなった方たちの無念を伝えたいと熱心に訴え続けた方たちがいました。その呼びかけに応え全国で10万筆以上の「特別病室」復元を求める署名が集まりました。さらに、国の憲法違反と断罪された2001年の国賠訴訟勝訴後に制定されたハンセン病問題基本法の追い風があり、想いは通じ2014年4月、重監房の一部を再現した悲願の資料館がついに開設されました。
(重監房資料館 http://www.nhdm.jp/sjpm/)

重監房ができた背景
国は1907年(明治40年)3月、法律「らい予防ニ関スル件」を発布し全国を5つに区分、ハンセン病(当時、らい病)患者収容施設「連合道府県立らい療養所」を設立しました。差別から家族を守るため家を出て放浪し、人目につく寺社の境内などで物乞いする患者もいて、それが外国人の目に留まれば、感染症罹患者を放置しているとして、欧米に追いつこうとする日本の恥を晒す「国辱病」と、浮浪患者を収容することが最初の主な目的でした。その後、武力による領土拡大を目指した日本は、ハンセン病患者は強い軍隊をつくる阻害要因として1931年に「癩予防法」を制定し、全てのハンセン病患者を生涯隔離し、撲滅を図ろうと全国に8ヶ所の療養所を新たに設立しました。
全ての患者を強制的に隔離する絶対隔離政策で官民挙げての無らい県運動などで厳しい患者狩りを行ったため各療養所は許容人数をはるかに超えてしまいました。元々低予算で職員は最低限しか配置せず患者に様々な労働を課していたので、さらに重症者の看護など負担が増えました。道路工事や重い薪炭を遠くから背負って運ぶ作業のような危険で厳しい労働では末梢神経の感覚がなく痛みを感じない人たちは症状を悪化させ、手指や足の切断に至り重い障害を負いました。療養所とは名ばかりのあまりにも劣悪な環境と人として扱われない状況に声を挙げる人々も出るようになりました。
感染力が強く恐ろしい病気だから隔離が必要とすり込み社会と切り離したため、一般の刑務所には入れられません。1916年に既に園長に懲戒検束権という警察権が与えられ、各園には監禁施設がありましたが、入所者の抵抗がさらに激しくなり、次々に〝抗議事件〟が起き強い不安を感じた園長達は〝ハンセン病患者刑務所〟をつくる必要があると訴え、1938年に草津の栗生楽泉園に特別病室という「重監房」が造られました。裁判を受けず、収容期限もない重監房は社会にその存在があばかれ廃止されるまで9年間、全国の入所者たちを恐怖で縛り行動の自由と声を奪い続けました。

重監房の異様な構造
全体が4メートルほどの壁で囲まれていて、広さ四畳半くらいの監房8室は更にそれぞれ4メートルくらいの壁で仕切られ会話はできません。照明はつかず、縦13㎝、横70㎝くらいの細長い明り取りの窓が天井近くに1つあるだけ。天気の悪い日は昼夜の区別もつかないほど暗かったそうです。草津は真冬には零下20度近くにもなる極寒の地。暖房はなく、薄い敷布団と掛布団、着るものは自殺防止でひものない浴衣一枚。どうやって寒さをしのいだのでしょう。亡くなるのはやはり冬が一番多かったそうです。
食事は1日2回で木の箱に握り飯1個ほどの量の麦飯。朝は梅干1粒、薄い味噌汁と水が1椀ずつ。午後は同じく麦飯にたくあん3切れと水1椀だけ。小さな差し入れ口が床近くにあり椀がやっと入る大きさだったそうです。運搬するのも患者作業で中に居る人との会話は許されませんでした。
各房に入るには鍵のかかったいくつかの扉をくぐらねばならず、逃亡を防ぐことに重点を置き、管理者が中の様子を見回ったり、体調に気を配る構造には全くなっていません。翌日、食事を届けに行き手を付けていないと亡くなったことに気づく有様です。遺骸の運び出しも患者作業で冬は霜で床と布団がくっつき、剥がして布団ごと運び出したそうです。孤独・闇・飢餓・酷寒は地獄の拷問ではないでしょうか。一体どのような重罪を犯してこのような扱いを受けたのでしょう。

重監房に入れられた人々
(氏名は園名。書籍や資料により同一人物でも違う園名の時もあります)

◆中村利登治さん 1940年7月16日~9月11日 〈58日間〉
1940年(昭和15年)7月、熊本市本妙寺周辺の集落に住む患者を、警官や療養所の職員が襲撃し、157人を一斉収容しました。本妙寺事件と言われます。患者の多くは相愛更生会という組織に入っていました。相愛更生会の一部の人は草津楽泉園の重監房に入れられました。会長の中村利登治さんは人望の厚い人格者で草津・湯之沢集落(*)のような患者たちによる自治コミュニティを目指していたと言われます。中村さん始め相愛更生会幹部4名と本妙寺部落役員5名は重監房に58日収容されていました。本妙寺のある熊本市花園町の住民らから、園長当て嘆願書が出され出獄となりました(「風雪の紋」)。

◆山井道太郎さん 1941年6月5日~7月18日 〈44日間〉 9月1日死亡
国立療養所多磨全生園の洗濯場主任の山井道太郎さんは履き古した長靴に穴があき水が入ってしまい足が冷え体調が悪化したので皆の長靴を交換してほしいと園に要求しました。長靴が交換されるまで仕事ができないと休んでいるとストライキと捉えられ、騒擾の首謀者として山井さんは1941年6月6日に重監房に送られました。洗濯場事件と言われます。7月18日に出されましたが9月1日に亡くなりました。山井さんの妻も妻であることから、やはり草津に送られ重監房に入れられました。

◆満八十山さん(夫) 1941年9月11日~1943年3月13日 〈549日間〉 獄死
◆テイさん(妻) 1941年9月26日~1942年10月21日 〈391日間〉
映写機や治療器具などを車に積み四国各地を回り患者たちに喜ばれ、さらに逃走患者を受け入れるなど隔離政策に都合の悪い存在として目を付けられ、盗品の自転車を買ったという罪で草津送りになりました。満さんは拘束最長の549日間でついに獄死しました。妻であるとの理由で投獄されたテイさんも長期拘留されました。食事に手がつけられていなかったため死亡したと思われ獄から出されました。後、厚生省調査団の前で証言しましたが、証言記録は不明です(「風雪の紋」)。

◆鈴木義夫さん 1944年10月23日~1946年1月4日 〈439日間〉 獄死
鈴木さんは楽泉園内の学校・望学園で沢田五郎さんと同級でした。家族に会いたくて園を出てしまった鈴木さんは、たまたま実家近くで起きた殺人事件との関連を疑われ、重監房に入れられました。1945年夏頃からひどく錯乱し、房内にあるはずのない電話をかけ、たか声でしゃべったり笑ったり泣いたりしていました。空腹状態がしばらく続くとそれだけでも気が変になるといわれる中、孤独地獄、闇地獄の中でまともな神経でいられるはずがなく、錯乱はむしろ救いであったろうと沢田さんは書いています。亡くなった時、鈴木さんはまだ18歳でした(「とがなくてしす」)。

*昔から草津の温泉はハンセン病に効くと言われ、多くのハンセン病患者が湯治に来ていました。しかし、一般の湯治客が増えるに従い同宿を嫌がられるようになり、町の発展のためにと町はハンセン病者たちに町外れの土地を与え移住させました。やがてそこには暮らしに必要な店や働く場ができ自由療養村·湯之沢集落が形成されました。最盛期には人口も800人を超すほどの集落となり、町村制度に組み込まれ納税義務もありました。様々な生産活動だけでなく町議会議員も出ましたが、楽泉園ができると移住が促進され、ハンセン病者たちの自由と自治の砦だった湯之沢集落は55年間の歴史を閉じました。

「国立らい療養所患者懲戒検束規定 (1931)」を無視した拘束
1916年に制定され、1931年に改定された規定の主な項目には、
・減食 7日以内主食および副食物につき、常食量二分の一までを減給す。
・監禁 30日以内監禁室に拘置す。
・監禁および減食を併科す。
・監禁は特に必要と認める時はその期間を2カ月まで延長することを得。
とありますが、規定をはるかに超えた処分は獄死することも想定したものと捉えておかしくありません。裁判も受けず、処分内容に不服も言えず、孤独地獄、闇地獄、飢餓地獄の末に病死、凍死した人たちの無念を想像することは簡単ではありません。想像するだけでも加害意識を感じます。この背筋も凍るような施設を造り監禁を実行した人は入所者たちを人間と思っていなかったとしか考えられません。

最後に
「特別病室が責め道具として患者の上にあったため、患者は法に基づくささやかな権利要求すらできずにただひたすら施設側のご機嫌をうかがい、虎の尾を踏む思いで、びくびくしながら暮らしてきたのであった。そのことを思うと、この特別病室は規模こそ小さいが、性格においてアウシュヴィッツと同じものと考えてもいいような気がしてくる」と沢田さんは言います(「とがなくてしす」)。
「療養所」とは名ばかりで病は重くなり、人権が認められない激しい抑圧は必死の抵抗を生みます。抵抗を防ぎ管理しやすくするために恐怖による支配、重監房が必要だったのです。そこが残酷であればあるほど抑制効果が高まります。
明らかに冤罪と思える菊池事件を知り、ハンセン病の烙印をおされるとどのような非道な目に遭い人権を踏みにじられ尊厳を冒されるか、それは本人だけにとどまらず家族親族まで及び、しかも現在まで続くことに恐怖を感じました。そして、重監房はここまでするかと信じられないほどの極限の人権蹂躙が行われていました。
重監房に入れられて生きて出ることができた人たちは体験を語らなかったそうです。重監房のことを後世に伝えたいと必死に運動された入所者の人たちも投獄された人たちも、もうこの世にいません。資料も少なく、書けることは本当に限られています。そんな時、ある方から貴重なお話を伺いました。その方の知る園に重監房から出て療養所で結婚し穏やかに生涯を終えた方がいらしたそうです。その人はいつもにこにこと不自由な手に鍬を結びつけ、農作業に励んでおられました。入所者自治会の役員たちが思案に余ることがあるとその人に相談し、その度に筋の通った意見に納得したそうです。感心した役員が園長に伝えると、「さすが重監房!」と感嘆されたそうです。患者たちが憲法で保証されている人権を求めて激しく闘っていた時期、厚生省の廊下に重傷者を寝かせて訴えるという手段を使おうとした人たちに、その人は「やめた方がよい、人権を求める自分たちが同じ過ちを犯してはいけない。きちんと理に訴えた方がよい」と言われたそうです。悪魔の施設でどう耐えたのか、厳しい寒さで凍える日々をどう過ごしたかを何度問うても、獄中のことにはひと言も触れず「だって、生きているからなぁ」とニコニコと笑うだけだったそうです。
ハンセン病問題は人権侵害の恐ろしさを教えてくれます。その極めつけが重監房ではないかと思います。ある特定の人々を面倒な手続きを経ずに社会から排除する「重監房」の存在が今もこれからも出現しないとは限りません。しっかりと見極める必要があります。重監房の存在が闇から闇に葬られようとした時、世間に訴え後世に残す運動をしてくださった方達に深い敬意と感謝を捧げます。


栗生楽泉園正門前。入って直ぐ右の細い見学路を進むと重監房跡地があります。


重監房跡地を見下ろす高台より。跡地にはコンクリートの基礎だけが残されています。発掘調査によりご飯を入れた木箱やお椀、大量の梅干しの種などが発掘され「重監房資料館」に常設展示されています。

参考図書&資料
●重監房跡の発掘調査 2016年3月31日 重監房資料館
●門衛所跡の発掘調査 2019年3月20日 重監房資料館
●とがなくてしす 草津重監房の記録 沢田五郎 2002年4月30日 皓星社
●その土の上で 沢田五郎作品集 2008年3月17日 皓星社
●風荒き中を ーハンセン病療養所で送った青春ー 沢田五郎 2003年10月10日 皓星社
●オリオンの哀しみ 氷上恵介 ハンセン病文学全集第2巻 小説二 2002年10月17日 皓星社
●ハンセン病重監房の記録 宮坂道夫 2006年4月19日 集英社新書
●栗生楽泉園ガイドブック 2013~2024年 栗生楽泉園入所者自治会
●風雪の紋 ー栗生楽泉園患者50年史ー 1982年9月10日 栗生楽泉園入園者自治会
●栗生楽泉園入所者証言集上・中・下 栗生楽泉園入所者自治会 (株)創土社
●写真集・コンウォール・リー女史物語 ~その生いたちとハンセン病者への奉仕の生涯~
2007年10月10日 コンウォール・リー女史顕彰会
●ハンセン病最初の女性医師 服部ケサ 鈴蘭病院へ 武田房子 2022年11月15日 幻戯書房
●死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集 谺雄二著/姜信子編
●知らなかったあなたへ ハンセン病訴訟までの長い旅 谺雄二 ポプラ社

ハンセン病とネパリ・バザーロ称の名称
ネパールに最初に行った1991年12月、大きな寺院に囲まれたバザールにゴザを広げ、仏像や仏具などを販売している人にハンセン病の後遺症があるのを見て驚きました。片言の日本語で話しかけてくれるその人は自然体でした。他の店で別の人も見かけました。最貧国と言われるネパールで日本では一般社会から隔離されている人々も普通に暮らしていることに刺激を受けました。1992年8月、人の尊厳が守られ、その人らしく生きられる社会、誰も排除されない社会の実現をめざし起業した時、バザールでの光景を原点にしたいと会社名をネパリ・バザーロ(ネパールの市場)と決めました。


カトマンズ郊外にある、元ハンセン病の方々が暮らす集落。定期的に訪ね、ささやかな支援と交流を続けています。