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未来を拓く女性たち tsuna28 2023s

未来を拓く女性たち

~地域開発・人が人らしく生きるために~

文・高橋百合香

3年ぶりのネパール訪問、若者たちとの再会

私たちは毎年奨学生や卒業生の元を訪ね、家庭や職場も訪問してきましたが、コロナ禍で3年間ネパールを訪問できずにいました。2022年12月。冬にも拘わらず強い日差しが降り注ぐ、東ネパールのインドとの国境沿いの町、ビルタモードゥのバドラプル空港に完二さんと到着しました。ようやく、来ることができました。長い長い3年間でした。奨学金コーディネーターのバラットさんが、コロナ禍のロックダウンや行動制限の合間を縫って彼らの元を訪ね、フォローし、様子を報告してくれていましたが、やはり実際に会えると思うと胸が高鳴ります。3年振りに再会したバラットさんの案内で、早速若者たちの元に向い、話を聞きました。

村の学校から看護コースに進学し、看護師として自立
チャンドラカラ・バッタライさん(22歳)

実家は、紅茶農園の製茶工場があるフィディムから、さらに山をこえて3時間ほど奥地にあるナンギンという村です。10人兄妹の8番目。父親は若くして亡くなり、母親が女手一つで育ててきました。農園で茶摘みの季節だけ働いていましたが、10人の子どもたちを養うにはあまりにも厳しく、僅かな土地で作物を栽培し、ぎりぎりの生活をしてきました。子どもたちの教育にはとても手が回りません。上の姉2人は早くに結婚して家を出ました。私たちはそのような状況を見かねて7人の子どもたちに奨学金支援をしてきました。

チャンドラカラさんは、奨学金で看護コースに進学しました。村の学校から直接このコースに入るのは大変難しく、さらに進学後も、ネパールでは医療系の教科書はほとんどが英語のため、どんなに優秀でも英語でつまずく学生が多いのですが、必死に勉強して無事に卒業しました。その後インターン先で働きぶりが認められ、首都カトマンズの病院で2年ほど働き、2022年秋からダマックにある小児科専門の病院で働き始めました。慣れた動作で子どもを看ている姿には、感慨深いものを感ました。

カトマンズにいた時は養護施設にも関わっていました。貧しい暮らしの中でも、近所の子どもたちの面倒をみていた母親の姿を見て、困っている人を助ける仕事に就くことが夢だったそうです。別れ際、完二さんをちらっと見て「父を思い出します」とつぶやき、小さく折りたたんだお手紙をくれました。「幼い時に父を亡くして大変な境遇だったけれど、ネパリの支援のおかげで教育を受けられ、私は自立して強く生きられるようになりました。ありがとうございます」

生き生きと働くチャンドラカラさんは、フィディムの子どもたちにとって憧れのロールモデルとなることでしょう。私たちも、逞しく生きているチャンドラカラさんを誇りに思います。

心がこもったお手紙は、私たちの宝物です!一人ひとりの奨学生を、いつも細かくフォローしている完二さん。弟のアルジュンさん(写真右)は、好成績で獣医コースを卒業しました。母親を支えたいと、実家に帰って獣医の仕事をしています。いつか村に会いに行きたいです。

姉のジャルサさん(中央)は高校の科学コースを卒業しました。卒業後思うような仕事に就けず、お見合い結婚をしましたが、自力で再び大学に通っています。子育てをしながら早朝に通学していると近況を打ち明けてくれました。妹の姿や、共に学んだ仲間の存在が、人生を切り拓こうとする力になっていることと思います。ジャルサさん、皆応援しています!写真は卒業生や奨学生が集まってくれた時のもの。左からスバラさん、シタさん、ジャルサさん、ススマさん、ギタさん。困難を乗り越えながら、それぞれの人生を歩んでいます。

「これからは村の子どもたちの支援もしたい」
ビマラ・アチャルヤさん(30歳)

バラットさんも唸るほどの努力家のビマラさん。大学院をトップクラスで卒業後、地元フィディムの銀行で1年働いた後、さらに進学しながら働くためビラトナガルの銀行に転職。早朝6時から大学院に通い、9時から20時まで働いているそうです。仕事の責任も重く、スピードも正確さも求められて大変!と言いつつも充実感が伝わってきました。

実は、1年前にお見合い結婚したと聞いていたので少々心配していましたが、杞憂だったようです。ネパールでは、夫や夫の家族に余程の理解がないと、女性が結婚後も仕事を続けるのは難しいのが現状です。そもそも、女性が仕事を得る機会も圧倒的に限られていますが、ビマラさんの仕事が遅くなる時は彼が職場に迎えに行くそうで、正直驚きました。これからも対等な関係を築いていってほしいと思います。

ビマラさんは4歳の時に実母を亡くし、父親と父親の姉、新しい母親、2人の姉弟、3人の異母弟妹と暮らしてきました。食事の準備や家畜の世話等、女性であるビマラさんには家の仕事がたくさんありました。自分の時間はほとんどなく、45分の通学時間に勉強しながら通ったそうです。母親を亡くし寂しさを抱えつつも、新しい家族を支えるため必死に生きてきたことでしょう。「自分も苦労してきたので、人の苦労がよく分かります。ネパリの奨学金には心から感謝しています。これからは弟妹だけではなく、村の子どもたちの支援もしたいと思っています」

家庭訪問をしていると、家畜の餌である草を集めた女性たちが戻ってきました。すっかり日が暮れていました。

「私たちもしっかり学んで仕事を得て、自立します!」「女性だって、どんな仕事でもできますよね!」ビマラさんの話を全身全霊で聞き、興奮気味に話している奨学生のレッカさん(右)とサクンさん(中央)。ビマラさんの存在が、後輩たちの希望になっています。

差別を乗り越え、看護師として働く
ススマ・ネパリさん(31歳)

ススマさんは、紅茶農園からさらに遠く離れた奥地の村の出身です。ダリット(注1)と呼ばれる身分に生まれました。ネパールの憲法ではカースト、人種、性、宗教に基づくあらゆる差別を禁じていますが、現実には様々な場面に根強い偏見と激しい差別が残っています。教育を受ける機会が極めて少なく、代々受け継いできた限定された職業以外には仕事に就けず、お寺への出入りも禁じられています。

ダリットに触れられることを忌み嫌う人たちが未だ多くいる現状を理解し、覚悟した上で医療の道を志したススマさん。直接正看護師コースへ行くのは難しく、まずは2年間の科学コースに行き、その後正看護師コースに進学しました。優秀だったので、最終学年は国から奨学金が支給され、私たちの負担を減らすことができました。卒業後は、ダマックにある政府系の大きな基幹病院の産婦人科で働き8年目。かけがえのない命が生まれる現場で、数えきれないくらいの赤ちゃんと女性たちをサポートしてきたススマさんの存在が、人々の偏見や差別の心を少しずつ溶かしていっていることを願っています。

嬉しい話を聞きました。紅茶農園があるフィディムには大きな病院がないので、重症の場合はススマさんが勤める病院まで行かなければなりません。村から出ていくのに、バスを乗り継ぎ一日以上かかります。不安も大きいことでしょう。そんな時ススマさんに連絡すると、適切な診療科につなぎ、医師に症状を伝え、薬の確認、診察代の交渉等までサポートしてくれているとのこと。村人たちもとても感謝しています!思いがけず、このような形で村に貢献できていることを喜ばしく思いました。

「自分の村に医者はいませんでした。将来は、自分の村で人々の世話をしたい」と語っていたススマさん。いつか、夢の続きを聞かせてくださいね。

(注1)抑圧された者という意味で、かつて「不可触民」と呼ばれ、カースト制度の最底辺にすら入れない人々。

娘は6歳。夫の母親の協力も得ながら夜勤もこなしているそうです。毎日忙しくて休む暇もないそうです。「以前は自信がなく、いつもおどおどしていました。今は、全て自分に責任があります。色々なことを経験し、自信がつきました」

春代さんとススマさん。出会った頃は16歳。当時を思い出すと感慨深いものがあります。

准看護士コースを卒業し、病院で働く
スニタ・トゥンパポさん(32歳)

母親が製茶工場で働いていました。准看護師のコースを卒業し、ドゥラワリの病院で働いていたスニタさんは、結婚を機に退職し、カトマンズに移り連絡が途絶えてしまいました。気になっていたところ、少し前にドゥラワリに戻り元の病院で働き始めたというので、数年ぶりに会うことができました。実は、悲しいことに夫を事故で亡くし、若くして辛い経験をされたことを知りました。勤務中だったのでゆっくり話はできませんでしたが、きっと困難な時、経済的にも精神的にも、仕事が支えになったことと思います。これからもスニタさんの人生をしっかり歩んでくださいね。

高等教育支援が始まった16歳の頃から14年が経ちました。中央がバラットさん、右がスニタさん。どんな時も皆で見守ってきました。

壮絶な状況を生き延びるために。女性の自立を!
ユブラジさん(35歳)とサンパダさん(17歳)(一枚目写真右端)

困難な3年間を逞しく生き抜いてきた若者たちの姿に少しほっとして、カトマンズに戻りました。高等教育支援も17年目に入り、自立の道を歩む女性たちが多く出てきました。様々な職種に就き、専門知識や経験を持つ女性たちのネットワークが生まれ、新たなステージに入ったことに希望を感じました。

ハンディクラフトの仕事で生産者を回り、ようやく明日は帰国という時、シリンゲ村のコーヒー生産者ユブラジさんから連絡が入り、会うことになりました。姪のサンパダさんと一緒です。何の相談だろう・・・仕事の話ではなさそうだな・・・と少し身構えながら話を聞き始めました。

ユブラジさんには4人の姉がいます。4番目のランジャナさん(享年37歳)は2020年9月に泥酔した夫と夫の兄に斧で殺されてしまいました。日常的に夫の酒乱と暴力に悩まされていましたが、3月から続いていたコロナ禍の厳しいロックダウンで逃げ場がなくなり、命を失ってしまうという最悪の事態になってしまったことは余りにも残酷で、悔やんでも悔やみきれません。一人息子のクシャール君(12歳)はユブラジ君が一時引き取りましたが育てる余裕がなく、今はNGOが運営する養護施設に入り面倒をみてもらっています。

3番目のパビットラさん(41歳)は、サンパダさんの母親です。サンパダさんが1歳半の時に、夫が家を出て他の女性の元に行ってしまいましたが、行き場のないパビットラさんは夫の実家に住み続けました。夫の舅姑、親戚一同から壮絶な暴力を受け、身体的にも精神的にも追い詰められ、苦しむ日々だったそうです。見かねた知人が世話してくれて、障がいがある子どもたちの世話をするNGOの施設に住み込みで働くことになり、ようやく家を出ることができました。しかし5年前にそのNGOがなくなってしまい、建物のオーナーから出て行くように言われていますが、行き場がありません。パビットラさんは精神を病み、とても仕事ができる状況ではなく、たまに路上で食べ物を売って日銭を稼いでいます。

サンパダさんは、将来女性の自立のためのソーシャルワークの仕事をしたいそうです。女性が仕事を得て稼いで、自立して生きていくことができたらハラスメントは減るだろうと言います。ユブラジさんも、「女性の自立が大事!!」と声を大にして言っていました。いつもは内気で口数少ないユブラジさんの、心の叫びのように聞こえました。帰国後にNPOのメンバーに相談し、住む場所とサンパダさんの進学支援をすることにしました。

シリンゲ村のユブラジさんの家は、2015年のネパール大地震で全壊しました。ようやく再建したところに、コロナ禍が襲いました。お姉さんのあまりにも壮絶な状況はショックでしたが、奨学生や生産者の中にも家庭問題で追い詰められている方、進学の機会がなければ早くに結婚させられて、同じような道を歩まなければならなかった方、仕事がなければあっという間に窮状に陥ってしまうすれすれの環境で生きている方は多くいます。外からは見えにくく、余程の覚悟がないと立ち入れません。生活支援をしている養護施設モーニングスター・チルドレンズホームの子どもたちは、そのような環境下からレスキューされました。

改めて教育と仕事の機会を生み出し、女性の自立を支援することがどれほど大切なことか、私たちの30年間の活動の原点に立ち返らされ、役割を痛感しました。

ユブラジさんと両親。

 

ネパール大地震で家が全半壊しました。

私たちが問われていること

キサン民族の奨学生が大勢集まった場面で苦手なスピーチを求められ、日本でたくさんの支援者が応援していること、女性の自立が大切だということを伝えました。女性たちは真剣な表情で頷きながら聞いていたので、私のつたないネパール語も伝わったかな・・・?と安堵したところ、バラットさんが「分かりましたか?」と聞くと、遠慮がちに首を振る女性たち(苦笑)。女性の自立という価値観自体が馴染みのないものなので理解しにくかっただろうことは私の苦しい言い訳ですが、話の内容よりも、女性の私の言動に興味津々で全身全霊で何かを受け取ろうとしているように感じました。ネパールの女性たちの問題を考える時、日本社会で生きる自分自身の生き方が問われていることを痛感します。その責任を果たせるような生き方をしていかねばと思います。

どんな時も見守ってくださる皆さまのあたたかなご支援に心から感謝申し上げます。これからも共に歩んでくださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

奨学金支援について
カンチャンジャンガ紅茶農園(KTE)は、1984年に100を超える農家が協力して協同組合組織を作り、農家の人々自身の力により始められました。有機農業を実践し、約200人が働き、茶摘みの季節にはもっと多くの人が仕事を得ています。私たちは1999年に出会い、紅茶やハーブ、スパイスなどを継続的に輸入してきました。
仕事の機会が増えても、生活向上には時間がかかります。仕事創りと並行して、より多くの子どもたちに教育の機会を創るため、私たちは2002年から協働するNPO法人ベルダレルネーヨとKTEと共に、KTEで働くワーカーの子どもたち全員(毎年150~200人)に基礎教育支援(注2)を行ってきました。「全員が学校へ行ける」という事をネパールの歴史上初めて達成し、2015年からはKTEが引き継ぎ継続しています。
2007年からは、高校を修了し進学したくても、両親を亡くしたり、母親だけであったり、兄弟姉妹が多かったりと、自力では進学を諦めざるをえない若者たちのため、高等教育支援を始めました。若者たちが、農業や獣医、医療などの専門知識と経験を積み、自立につながることを目指してきました。
(注2)若者たちの学びの場となる実践的協力を目指し、神奈川県立神奈川総合高校ワンコインコンサートの皆さんも12年間共に活動をしました。