阿波根昌鴻さんの願い tsuna21 2021a
阿波根昌鴻さんの願い
~ハルサーの中のハルサー~
文・土屋春代
伊江島の「反戦平和資料館ヌチドゥタカラの家」の壁に飾られた大きな写真、阿波根昌鴻さんの人を包み込むような柔和なお顔を見ると、いつもほっとします。なんと穏やかなお顔でしょう。心の中で「ただいまー」と言ってしまいます。
でも、阿波根さんの人生はそんな優しいお顔からはとても想像できない一生でした。信念を貫き、強く激しく闘い抜いた一生でした。何のための、何を守ろうとされた闘いだったのでしょうか。
阿波根さんの夢
阿波根さん(1903~2002年)には大きな夢がありました。デンマーク式農民学校をつくるという夢でした。そのためには広大な土地が必要で、阿波根さんは長年にわたってコツコツと伊江島の北西の土地を、地主を探しては交渉し手に入れ、ついに4万坪になりました。その場所は北風がとても強くて草木も生えぬと言われた土地で、足しげく通っては耕す阿波根さんは変人扱いされましたが、一向に気にしなかったそうです。様々な草を植えては育つ草を見つけ、防風林もつくり、戦争が始まる前には森林になり、農場や建物も造り8割がた準備ができていたそうです。
なぜ農民学校をつくりたかったのでしょう。人々が生きるための食糧をつくる農民が無学でだまされたり、卑下して生きる様を見たりして、大切な仕事をしている農民こそもっと誇りをもち、人間らしい生活をしなくてはならない。そのために、農業だけでなく社会のこと生きるために必要なことが幅広く無料で学べる学校をつくろうと決意されたのです。よい教師を集め、学生が寝泊まりできる宿舎も造ろうと。その学校が実現一歩手前まできていた時、沖縄は国体護持のための時間稼ぎの捨て石とされ壮絶な戦争に巻き込まれました。戦後、返還されれば直ぐに学校がつくれるように準備してきた土地は、今も米軍基地としてフェンスで囲まれ戦争訓練の場所になっています。
伊江島の戦争
1944年10月10日、那覇を焼き尽くした10・10空襲で始まった沖縄戦。翌年3月26日、米軍はついに那覇西方約40キロの慶良間諸島から上陸を開始しました。4月1日、沖縄本島中部の読谷や北谷に何の抵抗も受けずに入ると、北部へ、南部へと猛進撃を開始しました。沖には海が見えないほど軍艦がひしめき、鉄の暴風と言われた艦砲射撃が繰り出され、空からは機銃掃射、そして鉄の塊の戦車が攻撃しながら移動します。圧倒的な物量と最新鋭兵器で襲いかかる殺戮は3ヶ月以上続きました。
沖縄戦は住民の4人に1人が犠牲になり、あらゆる地獄を集めたようなと形容される悲惨な戦いでしたが、4月16日に始まった伊江島への攻撃は沖縄戦の縮図と言われ、当時島にいた住民の半数近く、1500人あまりの人々が殺されました。生き残った人々は、その後、2年間にわたり慶良間諸島や本部半島などに移住させられました。やっと戻れた時、島は破壊されつくし家も木も何もない変わり果てた姿になっていたのです。平地が多く、元々は肥沃な土地でしたが、瓦礫で埋まりトラクターで踏み固められた土地を先ず作物を植えるための畑にしなければならず、島の人々は飢えと闘いつつ必死で耕しました。どんなに苦しくても戦争よりはいい、平和でさえあればと。
阿波根さん達の闘い
ようやく作物が実るようになり、島の人々の暮らしが少し安定してきた矢先、1953年末ころから“銃剣とブルドーザー”と言われる米軍の容赦ない土地の強制収用が始まりました。農民が生きるために必死で耕し植えた作物をガソリンで焼き払って爆撃場を建設し、鉄条網で囲い立ち入りを禁止しました。農民は耕作できなければ食べるものが手に入りません。餓死する人も出てきました。阿波根さん達は土地を取り戻すために団結しました。長い基地闘争の始まりです。
追い詰められた阿波根さん達は状況を知ってもらおうと“乞食行進”や陳情などの手段で島外の人々に訴えました。土地を強奪された人々の中には生きていくために、家族を養うために、危険を冒して実弾演習地に入り、作物を収穫したり、弾を拾い集め、スクラップとして売ったりする人もいました。そんな中、悲劇が起きました。爆弾の解体処理中に突然爆発して二人の若者が亡くなったのです。運動の中心となっていた頼もしい若者たちです。阿波根さんは直ぐに駆けつけると、涙を堪えて写真を撮りました。証拠を示さなければ米軍に一蹴され、誰も信じてくれません。そのために、当時とても珍しかった写真機を買っていたのです。「自分達の畑で作物さえつくれれば、食べていける。平和に暮らせる。こんな悲劇を繰り返してはいけない」。
なぜ、伊江島は狙われたのか
伊江島には長い滑走路がありました。日本軍が米軍襲来前に島民を狩り出し造らせたものです。その時のことを阿波根さんは著書「米軍と農民」の中でこのように書いています。「そのころはモッコとクワと馬車しかありませんので相当の力が必要であり、わたしはそのために働きすぎて、またもとの神経痛がよみがえり苦しみました。飛行場が完成すると同時に、戦争はひどくなりました。たった一回日本軍の飛行機が着陸しただけで、すぐとりこわす作業にかかりました(敵のアメリカに使用させないために)」。米軍はその飛行場を押さえるために伊江島に狙いを定め上陸したのです。
反戦平和資料館には原子爆弾の模擬爆弾がいくつも展示されています。最近、アメリカで公表された当時の資料を元にしたドキュメンタリーが放送されました。それによると、アメリカは核戦争準備のため、伊江島を選び、核を持ち込み、模擬原子爆弾で演習をしていたのです。沖縄をソ連(当時)や中国への核攻撃の拠点とするため、実戦を想定した核爆弾の投下訓練をおこなっていたのです。
阿波根さんと仲間の反戦地主の方達はたくさんの貴重な資料を残されました。どんなことが起こり、どう対処したか、詳細な記録と生々しい展示物が私たちに静かに語りかけます。ぜひ、反戦平和資料館を訪れてください。阿波根さんをずっと支え続け、遺志をつがれる謝花悦子さん(84歳)が迎えてくださいます。謝花さんのお話を聴きに各地からたくさんの人が訪れます。
ハルサーの中のハルサー
阿波根さんは沖縄のガンジーと称されます。私の友人は日本のガンジーだ!日本の宝だ!と語気を強めました。平和のために非暴力で闘い抜いた阿波根さんの根底にあったのは許しと慈悲の心だったと思います。著書「命こそ宝」で「人のためにならないことはしない。人のことを思うから闘う」「平和をのぞむ運動家は、生活の場でも平和でなければ本当の平和は実現しない」「相手を思って助け合う、許し合う、わびあうことが大切」と述べておられます。
そして、農業に誇りをもち、土の力を信じたハルサーでした。「土は魔法使いのようだよ。同じ土にいろんな種を蒔くと、いろんな命を育ててくれる。土は差別もしない。命を育む土地を、人殺しの練習のためには使わせない。土地は万年。金は一時」。阿波根さんは畑で草取りをしながらそう独り言のように呟かれたそうです。
参考図書:
阿波根昌鴻さん著書「米軍と農民」「命こそ宝 沖縄反戦の心」
一般財団法人わびあいの里発行:真謝日記、陳情日記、爆弾日記
ぜひHPをご覧下さい。共に学びましょう。
一般社団法人わびあいの里
反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」
(つなぐつながる 2021秋 vol.21より カタログを、ぜひお手に取ってご覧ください!無料でお届けいたします。お申し込みはこちらから。)