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野田村から tsuna27 2023s

野田村から

満蒙開拓・命懸けの逃避行・戦後開拓という歴史を背負う山ぶどう生産者

文・土屋春代

東日本大震災支援で岩手県と関わるようになり、2013年秋、化粧品の新製品開発のための素材として塩を探し、被災地の1つである県北の野田村を初めて訪れました。翌年、再訪した時に栽培継続が困難となっている山葡萄の販売促進を手伝ってほしいと要請されました。塩の入手の願いを快く承知していただいたので、頼まれた山葡萄についても何かしなくてはと思い、「葡萄ならやはりワインじゃないですか?村でワインを造ったらどうですか?」と思いつくまま述べました。山葡萄畑に案内される車中で生産者の方達が山形県の満蒙開拓団の引揚げ者で戦後、野田村に入植されたと伺い「出会ってしまった。これは引き下がれない」と、ずしりと重いものを感じました。2014年の秋のことです。
アジア太平洋戦争についてずっと調べている中で国策として満州(現・中国東北部)に送られた満蒙開拓団についても意識して本を読んだり映像を見たりしていたので、多少の知識はありました。満州に渡った開拓団の人々は1945年8月9日のソ連侵攻の矢面に立たされ、逃避行中に殺害されたり、自殺したり、子どもを手にかけたり、飢餓や感染症で亡くなるなど筆舌に尽くせぬ不幸に襲われました。戦後も、シベリアに連行され抑留された男性たち、生きるために中国に留まらざるを得なかった女性たちや子どもたちは苦難が続きました。そして、それがどれほど苦しく悲惨であっても被害者であっただけでなく、開拓と言いつつ現地の住民から土地や建物を奪ったり安く買いたたいたりした加害の側面があり声をあげにくかったことなどで、満蒙開拓についてはほとんど知られていないのが実情です。戦後70年にもなる歴史事実ははるか遠くに感じられ、本や映像でしか知ることができないと思っていました。その歴史を背負う人々と出会ったのです。これは相当な覚悟で取り組まなければならないと思いました。
地域の集会所敷地に拓魂碑が建ち、戦後入植に関する碑文はあるものの、満州での開拓と引揚げについては触れられていません。深く知るには直接聞くしかありません。しかし、いきなり詳細を聞くのはためらわれました。簡単に話せるような体験ではないはずです。よほど人間関係、信頼関係を築いてからでなければ聞けないと考え、山葡萄生産者の方たちの想いを形にするべくワイナリー開設に向け懸命に走り回りました。
2016年秋、ワイナリーができ、徐々に軌道にのり、やっと向き合う機会が訪れたのは2021年11月。地域おこし協力隊を経て山葡萄生産者になった山口光司さんも開拓の方たちの想いを受け継ぎたいと一緒にお話を聴きました。

満蒙開拓団とは

満蒙開拓のはじまりとその時代
日露戦争で得た関東州(旅順・大連)の租借権と、南満州鉄道の権利を足がかりに徐々に勢力を拡大していた関東軍は1931年の満州事変を契機に1932年、満州国という独立国家にみせかけた国をつくりました。しかし、国際連盟で認められず、連盟を脱退し世界から孤立を深めました。それでも関東軍は政府を従わせ、世論を味方につけ中国への侵略を加速していきました。侵略戦争に反対する国民は非国民、国賊と罵られ、1925年制定、28年改正された治安維持法により投獄されたり残酷な拷問で殺されたりしました。
関東軍は満州の支配を強めるため、人口に占める日本人の割合を増やそうとしました。ソ満国境警備の予備戦力として、関東軍や在満日本人の食料確保にもつながる農業移民計画を主導しました。1936年、広田弘毅内閣は重要国策として20年間で100万戸、500万人を送り出すと打ち立てました。「王道楽土」「五族協和」の国を建設すると謳い、侵略を覆い隠し、広大な土地が手に入るなど夢のような言葉を並べて新聞、ラジオなどで大々的に宣伝しました。開拓団送出初期の日本社会は1929年の世界恐慌から始まる昭和恐慌、さらに三陸津波など災害で疲弊していた頃で餓死や娘を売るほどの困窮家庭も多かった農村部の深刻な貧困があり、また、農地を相続できない農家の二三男、貧窮する小作農家などの対策として満州への移住が促進されました。1932年から36年までの試験移民期は抗日気運が高まり治安悪化で、在郷軍人を中心とした武装移民団を構成し、5年間に約15000人を送り、1937年からは国策による本格移民期に入り、41年までの5年間に約18万人が移住しました。

行き詰まり始めた満蒙開拓
1937年に日中戦争が始まると兵士として軍にとられ、それまでのような困窮者中心の募集では開拓団を編成することが難しくなりました。村を分割して満州にも分村をつくる開拓団や1つの村では無理な場合は近郷で構成する分郷移民を推奨し、行政に人数が割り当てられるようになりました。そのため、行きたがらない人も村のため、家族のためと土地など全財産を処分して渡満する事態になりました。それは、敗戦後、命からがら逃げ帰っても故郷に住むところがなく、生きるために新たな開拓地を探すという、満州開拓より厳しいと言われた原野の戦後開拓へとつながりました。
計画通りに集まらなくなった満州開拓者数と長引く日中戦争の軍の補強のため、15歳から19歳の青少年も満州開拓青少年義勇軍として送り出しました。太平洋戦争に突入し圧倒的に優勢な連合軍に抗しきれず敗戦濃厚になっても満蒙開拓団、義勇軍の渡満は1945年8月まで続きました。農業者ばかりでなく、統制経済で戦争継続に必要な仕事以外は働く場を失った人々も満州へと追い立てられ、慣れない農業で辛酸をなめました。

敗戦、そして命がけの逃避行
太平洋戦争末期には開拓団の19歳から45歳までの男性たちはどんどん召集されたため開拓団は女性と老人、子どもたちだけになっていました。8月9日に東、北、西の国境を越えて、ソ連が150万もの大軍で侵攻してきたとの報に呆然。戦況を知らされないどころか、間際まで勝っているかのような通達を信じていた開拓団の人々は何が起きているのか、どうすればよいのか分からず右往左往するばかり。開拓の汗と努力を無にしたくないと留まろうという意見もあり混乱の極みに陥りました。やっと逃げようとしても、頼みの綱の満州鉄道は関東軍家族や情報入手が早かった1部の人々に占有され、走り去った後でした。
開拓団が移住した土地の多くは未墾地ではなく、中国人や朝鮮人が定着し耕作していた土地で、満州拓植公社などが安く買いたたいたり、住人を追放したりして手に入れた土地だったことが、逃避行をより悲惨なものにしました。開拓団の人々はそれを知らずに入植したとは言え、現地住民からみたら侵略の手先として憎むべき相手だったのです。日本の敗戦を知った現地の人々の襲撃とソ連の爆撃にさらされながら山中をさまよう命懸けの逃避行と真冬は零下30度にもなる収容所での難民生活で約8万人が亡くなりました。敗戦から帰国までの満州での日本人死亡者はおよそ25万人。その中で開拓団の死亡者の占める割合は高くなっています。
開拓団として移民すれば兵役は免除され(文書化はされていませんが、勧誘ではよく言われていた)、世界最強の関東軍が開拓団を守るという約束が守られなかったばかりか、5月末、すでに大本営は満州の4分の3を放棄し、南部に終結して持久戦をするようにと関東軍に命令していました。そして、国境には訓練も受けず、ろくな武器ももっていない人々をソ連の侵攻を少しでも遅らせる人間の盾として配置したのです。政府は開拓団や満州に居住していた人々に対して、敗戦後も現地に留まるよう指令を出し、日本に帰る道を閉ざしました。
敗戦時、満州におよそ155万人いたと言われる日本人がやっと帰国できるようになったのは、1946年5月からです。

野田村の方たちのお話

お話を伺った方たちは開拓2世で、渡辺正敏さんは敗戦時5歳でした。
中原郁子さんは戦後、山形県で生まれました。佐藤嘉美さんは戦後、野田村で生まれました。
3人の開拓団は別々ですが、山形県から満州に入植した開拓団でした。
山形県は全国で2番目に開拓団の多かった県で、
約17000人が満州へ入植し、約7000人が亡くなりました。
中国に残留せざるを得なかった女性や子どもたちも多く、中国に残った人々も帰国できた人々も
戦後の人生は満州での生死をさまよった体験が強く濃く影響し、今に至るも負った心の傷は深いと感じます。

佐藤嘉美さん(板子房置賜郷開拓団)

佐藤さんの父、佐藤清太郎さんは三江省樺川県蘇家店村板子房屯に入植した山形県東置賜郡二井宿村中心の分村開拓団の団員でした。
ソ連侵攻を知り、農具や食料など大事なものを倉庫に集め、その警護を金田団長に命じられた佐藤清太郎さんが、避難する人々に開拓団に残る警備隊長として挨拶されたと満洲開拓史に書かれています。
逃避行は1945年8月13日から。応召不在91名を除く在団の男性116名と女性157名の合わせて273名の内、4名が警備のため残り、269名が3隊に分かれて出発しました。
第2隊は出発後、地元民の襲撃に遭い18日に本部に戻りましたが、日本人に敵意をもつ現地の集団とソ連の襲撃に挟まれ、国民学校に避難しました。その中に清太郎さんの妻よしえさんと9歳の長男伸悦くん、次男清勝くん(5歳)、長女光子ちゃん(3歳)がいました。伸悦くんは「皆で死のうということになったので、お父さんも一緒に来てください」と、倉庫の警護をしている清太郎さんをよびにきました。清太郎さんは「私はここを離れるわけにいかない。拳銃をもっているから自分で死ねる。おまえは皆のところに戻りなさい」と帰しました。子どもの足で10分くらい離れた学校から爆音がし火の手が上がったのは伸悦くんが帰り着く頃でした。戦後、清太郎さんはもしかしたら伸悦くんは皆のところに着く前に爆発が起き、巻き込まれなかったのではないか。どこかに生きているのではないかという思いで、来日した中国残留孤児の肉親探しのニュースを見ていたそうです。満洲開拓史によると板子房開拓団の集団死は学校玉砕事件と書かれ、金田団長始め110人が亡くなりました。
1978年に永住帰国した板子房開拓団の佐藤安男さん(当時8歳)は、その場にいました。「あの戦争さえなかったら(注)」117頁、佐藤さんが語った学校の凄惨な状況を要約すると。
「灯油、ドラム缶さけっこう入ってるんだ。それを学校の周りとか前の方が多いな。それで中にも火をつけたんだ。人が出て来るとガッと殺すの。開拓団の年上の人が、出て来て逃げようとする日本人を殺したわけ。私は学校の一番後ろさ、いたんだ。火はまだ燃えてたけど、熱くて、死にたくないから、みんなで『外さ出ろ!』って。『どっから出る?』って。俺、学校に行ってたから、後ろの方に窓あるの知ってたんですよ。窓、板で押さえてあったけど、みんなで壊して、そこから出たんです。殺す人は、後ろの方にはいなかったの。そこから逃げられたのは、30何人ぐらいだな」
第1隊は男女34名で逃げ、途中12名が川で投身自殺し、第3隊は男女34名で16名が川に身を投げ自殺しました。開拓団の死亡者は合わせて197人、帰還者157人、未帰還者42人と満洲開拓史に書かれています。
佐藤清太郎さんは3年間シベリアに抑留され1948年帰国。1950年に野田村に入植しました。後に伸悦くんのお骨と書かれた箱が返還されました。しかし、入っていたのは紙切れ1枚だったそうです。

佐藤さんが父親に対する思いを語られました
お母さんは優しくって、抱っこしてもらったりするけどお父さんはそういうことは一切しなくて、常に怖くて、口をきくときは怒る。ちょっとすれば殴られる。それが父親だと小さいときに思ってたんだけどね。自分は娘を育てるときはすごくかわいがって抱っこして遊んであげて、他にもそういう親はいたから、男親でもそうじゃないんだ、母親と同じように子どもをかわいがったりするんだって。多分、親父の自責の念だよね。ずっと引きずってたんだろうなって思うよ。自分だけ生きて帰って、子どもも妻も、みんななくした。その自責の念と腹立たしさっていうのが、戦後、帰国して再婚した頃は、満州での出来事があってからまだ5年しか経ってないからずっと引きずってて、それで多分、野田村に来て、姉も自分も生まれて、嬉しかったと思う、嬉しかったとは思うんだけど、思い出すのは満州で、失くしてきた子どもたちのことだったんだな。古家の方の障子に4歳くらいの女の子の写真が貼ってあってね、ある時、障子貼りのときに剥がさなきゃなんないかなって思ってるとお袋に、あの女の子は満州で残してきたみつこっていう子にそっくりなんだって、だから剥がすなよって言われましたね。
理解できるようになったのは、親父の死後山形県に自分のルーツを訪ねて行って、親父の生まれた所や親戚から話を聞いてからだったね。シベリア抑留から一人帰って来た時、カバン一つ提げてにこにこしながらも寂しそうにしていた姿が印象的だったと。そして何より子どもたちを可愛いがっていたと。だから、幸せな家庭を築く事への後ろめたさ、私たちを可愛いがるに可愛がれない自責の念を晩年までひきずっていたんだなと、全てが腑に落ちたね、あの時に。
俺が覚えてる小さい頃の親父っていうのはいっつも苦虫潰したような、いっつも怒ってる顔。普通に話できるようになったのはかなり大きくなってからだね。だからずっと親父との距離は、すごい離れてたんですよ。許すか許さないかって言ったら許せないっていう。でも、最後に、死ぬ間際のときに、近づけたなって思う。それがすごく良かったね。病院で亡くなる晩に俺がついたの。そのときに、それが消えた。晩年「今思えば全ての事が楽しく懐かしい良い思い出だ」とお袋に言っていたのを思い出すとね、あの時、親父は全てを受け入れて悟ったのだな、人生の最後にそう思えて本当に良かったなと心よりそう思えるんだよね。

畑では最初桑を植えたけれどだめで、タバコやてん菜(さとう大根)も栽培したけどどれもだめ。山葡萄も最初だけいい値段で売れたけれど、直ぐに値段が下がった。震災の頃はもうつくっても赤字。でも、山葡萄が好きで、嫌な気持ちの時も畑にくると安らいだ。ワイナリーができて買取価格がよくなったので助かる。後は若い人が継いでくれればいいのだけどね。

親父は鍬一つで入った。何もなかった。私は刃こぼれしていても鋸があり、小さくても道具をしまう小屋があった。親父の苦労を見ているから自分は苦労と思わなかった。

中原郁子さん(開拓団不明)

中原さんの両親の開拓団は推察はできますが、その開拓団は途中で2つに分かれ、どちらに所属か判明せず詳細は明らかにできません。
中原さんは1948年に父・保角季市さんの山形県の実家の蔵で生まれました。1938年生まれの兄ともう1人の兄、姉2人(次姉は生後1歳未満)の4人は満州の収容所で感染症のため亡くなりました。2016年に99歳で亡くなった母・信子さんは収容所に居た時、集団自死すると決まり、青酸カリが配られ、飲もうとした時に同じ開拓団の人が探しに来てくれて、その人と逃げて助かりました。
山形の農家の次男だった季市さんは郵便局で働いていましたが勤め人に飽き足らず満蒙開拓へ。満州の夢破れ、野田村での戦後開拓に再び夢を抱いていたようです。電気も水道もないところで、川の近くに家を作り防風林をつくりました。畑に百科事典をもっていったほど勉強が好きだったそうです。中原さんが48歳の時に亡くなりました。中原さんの記憶に残る父は優しくて音楽が好きで、よくギターを弾いていました。家には若者たちが集まっていたそうです。父親の音楽好きを受け継ぎ音楽が好きだった郁子さん。長女に歌織と名付けました。

野田村で入植者同士、協力して開墾し、助け合って暮らしたこと。時々の映画会が楽しみで盆踊りや運動会をしたことなど、アルバムを見ながら懐かしむ郁子さんでした。

保角季市さんは満州時代に実家に何枚か写真を送っていました。引揚げの時は写真も失い身体一つで引揚げたので、戦後、その写真を懐かしみ返してもらい大事にしていました。

開墾の様子。大きな切り株を皆で抜いています。

渡辺正敏さん(北五道崗開拓団山形村)

渡辺さんの両親は満州東部のソ連国境に近い、東安省密山県の北五道崗という開拓団に入植しました。1937年6月28日、熊谷伊三郎団長以下60名が入植の第一歩を踏みました。その後、続々と入植し、家族を呼び寄せ、1945年3月には総戸数270戸で12の集落に分かれていたと開拓団の記録に記されています。1942年には各自の家や本部事務所、学校、教員宿舎、加工場、病院、寺や神社など開拓団としての主要な部分の建設は完了し、1943年からは、苦労がやっと報われる時期を迎えていました。しかし、1945年8月9日、開拓団員それぞれの運命はわかれました。
敗戦時の渡辺さんの家族は母・トメヨさん、正敏さん(5歳)、妹のひろ子さん、弟の一敏さん、そして、生まれて間もない弟でした。父・政四さんは当時召集されて不在、その後シベリアに抑留されました。
逃避行の様子を満洲開拓史から要約します。
北五道崗開拓団は避難直前18歳以上45歳までの男性250名が召集され、団に残った男性わずか25名で女性約280名、子どもは男児240名、女児260名、計約805名でした。
8月8日正午頃電話でソ連が越境侵入し飛行場を爆撃している、女性と子どもたちは鉄道で避難、男性は武器をもち防衛戦準備をせよとの報が入りましたが、状況がよくわからず開拓団に留まりました。9日早朝の電話ではすでに鉄道は不通、ソ連戦車が間近に迫っている、国境警備の日本軍も続々敗退と知らされ、爆撃音も聞こえ危険を知り、雨の降る中を徒歩で避難を開始。日本の敗戦を知った沿道の現地住民に襲われる危険とソ連の執拗な機銃掃射を避けるために日中は山林に隠れ、夜間、民家のない山林地帯を選んで歩きました。途中、身軽になろうと持参した身の回りの物や食糧を捨てる人も多く、現地人の略奪や襲撃で殺されたり、体力が尽き逃げ切れぬと妻子を刺し殺し、割腹自殺した男性もいました。遺棄死体や生きながら棄てられ泣く赤ん坊が数多く見受けられたそうです。所持品は全て略奪され、着の身着のままで山中を彷徨し、団として統一行動はとれず、解散し、寒さに耐えられず人家のあるところに出て、9月末から10月の始めにかけてそれぞれハルビンや長春などの難民収容所に送られました。その頃には老人や5歳以下の幼児はほとんど死に絶えていました。
渡辺さんの家族も乳飲み子の弟は連れて逃げられず開拓団の家に置き、幼い一敏さんと妹のひろ子さんは、ひとりは川に流し、ひとりは線路に置いてきました。過酷な逃避行で母トメヨさんは正敏さんを連れて逃げることで精一杯でした。後にシベリアから戻った父政四さんは3人の子を失ったことを知り激怒したそうです。正敏さんは他のことは覚えていなくても、ただひたすら400キロも歩いたことは強く記憶に残っていると言います。幼ないながらも自力で歩かねばならないと分かっていて必死で歩いたのでしょう。
北五道崗開拓団は収容所の越冬で餓死、凍死、感染症による病死などで512名が死亡しました。死ぬよりはと現地の中国人に我が子を託す人、食料と引き換える人、現地人の妻になる人など帰還できなかった人が56名、日本に帰ることができた人は716名でした。(避難開始時と最後の数字は山形県史・拓殖編より引用)


右から渡辺正敏さん、渡辺サトさん。真面目な渡辺さんは山葡萄農家として、在来種で栽培が難しく収穫量も少ない葛巻系という品種にこだわって育ててきました。村のためにいつかこれが必要になるからと。引退後は、山口光司さんが引き継いでいます。


開拓団の中の地図(渡辺さん提供)

渡辺さんは2000年に開拓団跡を訪ねました。その後、北五道崗開拓団跡はダムの底に沈んだため、その時の写真はとても貴重です。北五道崗山形村の渡辺さんの生家と思われる家。渡辺さん家族と別の家族と二世帯で一軒に住んでいたそうです。(渡辺さん提供)


慰霊ツアーで、開拓団があった地域で人々に尋ねているところ(渡辺さん提供)

髙橋令子さん、中田徹さんとの出会いに高まる期待
渡辺正敏さんの生まれ育った北五道崗開拓団に、2年前に渡満していた父と暮らすために3歳だった髙橋令子さんは母に連れられ、兄2人と1938年に入植しました。敗戦の時は10歳でした。髙橋令子さんのことは北五道崗開拓団の検索や「あの戦争さえなかったら」(注)で知り、渡辺さんに会わせたいと思っていました。
2022年8月下旬、長野県にある満蒙開拓平和記念館に調べ物に行った時、山形の開拓団について調べに来られた山形県の小田悟志さんと出会いました。北五道崗開拓団の国民学校教師だった両親を避難途中に亡くし、孤児となった知人の中田徹さんのために少しでも情報を集めようとされていました。
同じ開拓団で幼い時を過ごした3人が1945年8月10日に避難を開始して以来、77年という長い年月が経った2022年10月19日、仙台近郊の髙橋令子さんのお宅に集いました。

開拓の子ら、77年の時を経ての巡り合い
3歳でたったひとり日本に連れ帰られた中田徹さんの話に耳を傾けながら「かわいそうに、かわいそうに」と涙ぐむ髙橋令子さん。髙橋さんは父と母と兄2人を避難途中で亡くし、3歳だった妹とも離れ離れになってひとり残され、中国人夫婦に引き取られました。朝から夜遅くまで休みなく働かされ学校にも行かせてもらえませんでした。中国で結婚し、夫や子どもたちと94年にやっと帰国の夢が叶ったものの、あまりの祖国の冷たい仕打ちに国を訴える裁判の原告のひとりになった髙橋さんが、中田さんや渡辺さんの話に涙するようすに胸が詰まりました。誰よりも2人の辛さや痛みが分かるのですね。戦争はぜったいだめ。平和でなければならない。そう3人は強く言い交わしていました。戦争が幼い子どもたちから奪ったものとは、言葉にしたらあまりに軽くなってしまいそうです。過酷な体験をした3人の「戦争は絶対してはだめ」という言葉はとても重く響きました。
再会の旅を終えて、渡辺さんからメールがきました。「お世話でした。あしかけ4日間の旅、楽しい旅でした。だいぶ疲れたようで、土曜日は1日中休んでしまいました。️令子さん、北五道崗では、すぐ側に住んでおられたんですね。感動しました。その後を思うと、運命のいたずらか、心に刺さります。これから絶対に幸せに長生きしてほしいだけです」
渡辺さん、再会の場に同席させていただきありがとうございました。


中田先生と真剣に学ぶ子どもたち。教え子である令子さんによると、中田先生はとても優しく、子ども達に慕われていたそうです(中田さん提供)


山羊の周りで中田先生と子ども達(中田さん提供)


開拓団の12集落はそれぞれ学校から遠く、子どもたちは普段は宿舎に泊まり、休みに家に戻りました。
宿直で子ども達を見守りながら詩をよんだ中田先生(雑誌・新満州より引用)


中央が髙橋令子さん、左隣が渡辺正敏さん、渡辺サトさん。右隣が中田徹さん。後列右側が小田悟志さん、左側が土屋春代。渡辺さんの体調を考慮し、野田村から髙橋さん宅までの往復約700キロを3泊4日かけて移動しました。念願を果たして帰宅した渡辺さんは翌日は疲れが出て休んだものの、その後とても元気に。これからも満蒙開拓のことを語り継ぎたいと意欲的です。

ふたたび繰り返さないために

戦争でもっとも犠牲になるのは戦略や作戦に関与できず決定権がなく、正しい情報も知らされない一般市民です。国策に従って満州へ行き、関東軍が逃げる時間稼ぎの人間の盾として利用され、曠野に棄てられた人々。
国内最大の地上戦、沖縄戦では10万人以上の一般市民が犠牲になりました。そして、現在も重くのしかかる基地負担の上に県民の意思を無視し続ける辺野古新基地建設も国策です。
福島原発事故が起きた地域も満州からの引揚者が入植した所が多く、国策である原発推進は絶対安全で事故は起きないと、安全対策を怠り起こした世界最大級の原発事故に遭遇しました。戦後開拓で苦労して豊かな土をつくり、平和に暮らしていた土地が放射能に汚染され住めなくなりました。
〝中国残留婦人〟としての長い歳月の後、1978年に日本に永住帰国した故鈴木則子さんは1982年、帰国援助や帰国後の生活支援、日本語習得、行政手続き支援などのため中国帰国者の会を発足させました。国が本来すべき対策を全くとらず、何度も棄てられたそのあまりの冷酷非情さに、ついに国を訴える裁判を起こしました。鈴木則子さんは自分たちのような悲惨な経験が2度と繰り返されないためにと体験を語り、権力に対して無批判にならないよう、騙されないようにと訴え続けました。
これまで〝国策〟によりどれほど多くの無辜の民が命を失い、或いは人生を奪われたか。そのような〝国策〟を決定し推進する政治家を選ぶのも選ばないのも私たち国民です。いつの間にか戦争がやってきた。そのようなことにならないように私たちは何をすべきでしょうか?


農業移民募集ポスター
(解説文・満蒙開拓平和記念館図録より転載)
『移住の栞 満洲は招く』
満洲日日新聞社
1936(昭和11)年 11月1日発行
満洲日日新聞社は南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営支援した新聞社で、「満州」において最有力紙であった。この本の「序」において、内容は関東軍及び満州国当局から得た正確なものであると記されている。■土地は満州国政府によって斡旋され、又関東軍は責任をもって警備保護の任にあたることになっています。■満州において二十町歩の自作農となり、希望に満ちた生活が出来るのです。■満州移住者は自らの生活を極めて愉快なものにするのみならず、行き詰った農村を救い、日本の現状を打開し、更にわが陸の生命線の護りにも大きな力となります。■農村の人々、ことに農家の二男三男で、日本内地にいても前途に光明をみとめることの出来ない青少年は、直ちに志を満州に馳せわが国策遂行上の一員となるべきではありませんか。(一部抜粋)

◇主要参考図書・資料
• 満洲開拓史 復刊委員会編
• 満蒙開拓平和記念館図録
• 満州事変 政策の形成過程 緒方貞子 岩波書店
• オーラルヒストリー 「拓魂」 黒澤勉 風詠社
• 岩手山麓開拓物語 黒澤勉 ツーワンライフ出版
• 満州開拓民の悲劇 黒澤勉 ツーワンライフ出版
• 未墾地に入植した満蒙開拓団長の記録:堀忠雄『五福堂開拓団十年記』を読む 黒澤勉/小松靖彦
• 満洲難民 三八度線に阻まれた命 井上卓弥 幻冬舎
• 集団自決―棄てられた満州開拓民 坂本龍彦 岩波書店
• 満州 集団自決 新海均 河出書房新社
• 満州分村の神話 大日向村は、こう描かれた 伊藤純郎 信濃毎日新聞社
• 満洲分村移民を拒否した村長 佐々木忠綱の生き方と信念 大日方悦夫 信濃毎日新聞社
• 満洲分村移民の昭和史 残留者なしの引揚げ 大分県大鶴開拓団 渡辺雅子 彩流社
• 東京満蒙開拓団 東京の満蒙開拓団を知る会 ゆまに学芸選書
• 絶望の移民史 満洲へ送られた「被差別部落」の記録 高橋幸春 毎日新聞社
• 幻の村 ー哀史・満蒙開拓 手塚孝典 早稲田新書
• 移民たちの「満州」 満蒙開拓団の虚と実 二松啓紀 平凡社文庫
• 満蒙開拓青少年義勇軍の旅路 光と闇の満洲 旅の文化研究所(編)
• 告白 岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録 川恵実NHKETV特集取材班 かもがわ出版
• 麻山事件 満洲の野に婦女子四百余名自決す 中村雪子 草思社文庫
• 語らなかった女たち 引揚者・70年の歩み 鈴木政子 本の泉社
• 満州女塾 未知の大陸へ旅立った花嫁達の夢と挫折 杉山春  新潮社
• 二日市保養所 哀しい運命の人々 大津誠一郎 文芸社
• 中国残留日本人 「棄民」の経過と、帰国後の苦難 大久保真紀 高文研
• 国に棄てられるということ 「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか 小川津根子・石井小夜子 岩波書店
• 流れる星は生きている 藤原てい 中公文庫
• 鎮魂の賦 〈回想録〉 北五道崗山形村 柏倉正二
• 写真アルバム 保角季市さんのアルバム
• 北五道崗開拓団名簿 昭和48年(1973)
• 北五道崗開拓団山形村訪問報告書 平成11年(1999)8月23日 元団員から渡辺正敏さんへ
〈参考映像〉
• ETV特集「彼らは再び村を追われた 知られざる満蒙開拓団の戦後史」20190323
• 「決壊 ~ 祖父が見た満洲の夢」 SBC信越放送

(注)あの戦争さえなかったら(上) 62人の中国残留孤児たち 藤沼敏子 津成書院
*書かれている内容が、下記の証言動画から聞くことができます。
証言動画:アーカイブス中国残留孤児・残留婦人の証言
https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya

野田村から届いた商品もお愉しみください!

左から
●手むきくるみ
●佐藤農園の山ぶどうジュース
●山口さんの山ぶどうジュース
●山ぶどうピューレ