暮らすように働く 2023
ネパリスタッフが、日々働きながら感じることを思うままに書いています。
12月
年内最後の沖縄訪問は12月2日からの1週間、大阪の方達3名をご案内しての旅でした。沖縄に行くと突きつけられる日本の危機的現状。それは、着々と進む戦争準備であったり、侵される地方自治の権限であったり、もはや全国で広がるPFAS汚染の問題であったり。太平洋戦争の地上戦の被害もまだ生々しい沖縄でガザやウクライナの映像を重ねると、これが他人事ではなくなる日をどうしたらくい止められるのか、焦燥感で息が詰まりそうになります。くい止めるために沖縄で日々必死に闘ってくださっている方達に感謝しつつ、できることを精一杯頑張ろうと思います。来年もお付き合いいただけますよう、どうぞよろしくお願いいたします。(春代)
12月のネパール行きも、いよいよとなり、帰りは、お正月になります。その訪問の中心に、親も親戚にも縁の無いアシャさん、シムランさんの最終学年となる西ネパールにある看護学校訪問がありました。卒業式が12月12日で、実務研修を経て終わりになることがわかりました。看護学校訪問は、今年の6月限りになってしまいました。幼い頃から面倒をみて来た故ラムチャンドラさんの息子、ベンジャミンさんが養護施設MSCCを代表して急遽、卒業式に出席することになりました。「卒業式に来てもらえると思って楽しみにしていました」と言われ、がっかりさせてしまいましたが、ネパールの首都カトマンズでの再会を約束しました。卒業の様子は、年間報告書でお伝えします。(完二)
先月の一言にも書いた関東大震災時の「横浜の虐殺現場を歩く」フィールドワークの第二段にも参加し、神奈川区子安近辺をご案内いただきました。いくつか本も読みましたが、判事の職にある人ですら、朝鮮人を殺してもいいと「肯定も疑問もなく」受けれていたと書き残しています。大地震の混乱時だからとも言えますが、今でも金も名もある人が娯楽のように平然とヘイトを口にし、マイノリティの方は直接自分がその対象ではなくても我が事として命の危険すら感じています。「殺さない人を増やすために」案内を続けていると語る山本すみ子さん。朝鮮人の問題ではなく日本人の問題だという声もありました。自身が「殺す人」にならないよう、歴史にふたをせず、知り、考える場がもっともっと必要だと感じます。(早苗)
今年も1年間、本当にありがとうございました!作り手の方々と共に、心を込めて生み出した商品をご愛用くださり、こうしてつながっていられることに感謝の気持ちでいっぱいです。お寄せくださるあたたかなお言葉、ハッとさせられる問題提起、心の声のつぶやきなど・・・お寄せくださるメッセージに支えられています。2024年は、何と世界70か国以上で大統領選挙や総選挙などの大型選挙が行われる珍しい年だそうです。世界の人口約80億人の25%、20億人が、一票を投じる権利をもつ一年。想像したらゾクゾクします。まさに、未来は一人ひとりの一票の積み重なり。戦争を止めて、戦争の火種もない未来をつくる責任が今を生きる私たちにはあります。きっと大きく動く2024年を、心して迎えようと思います。来年も共に、どうぞよろしくお願いいたします!(百合香)
大学時代の大切な友人に会ったとき、とても苦しくて、だけれども私にとっては社会や歴史を学び続ける意味をより持たせてくれた、彼女の言葉がずっと心に残っています。彼女は妊娠のために休職しており、これまでの生活との差や、子どもを生み育てていく将来を考えた時にとても不安になったそうで、「社会とつながることが出来なくなるのかな…って不安になった時、めぐに相談したいってすごい思ったの」と吐露しました。学生時代から希望していた職場で、新卒からずっと働き続けていた彼女に、母親になることの嬉しさと同じほどの不安が覆い被さっていたんだと知り、私も辛くなりました。それと同時に、女性で母親だからとその不安を受け入れてしまわず、相談したいと思う存在として私を見てくれていたことに、少しの嬉しさと、もっと自分の知識を増やしたいと感じました。社会や歴史、政治のことを自分なりに学んでいると、偉いね、社会的だね、と別枠の人として区別されてしまうことが多いのですが、誰かが何かの構造の中で苦しんでいるとき、あなたのせいじゃないよ、しょうがなくないんだよと言える存在でありたいと思っています。そのために知識と想像力を蓄えて、強くて優しい大人になれるよう学んでいきたいです。(萌)
11月
ウクライナとロシアの戦争終結の見通しもたたない中、新たな戦争が起きました。ガザを実効支配している集団・ハマスが囲まれた高い壁を越えてイスラエルに攻撃をしかけ、イスラエルの報復が始まりました。圧倒的な軍事力の差やこれまでのパレスチナの人々に対する容赦ない残酷な仕打ちを考えても結果は分かっていたはずです。それでも壁を越えたのは座して死を待つよりという深い絶望だったのかと思います。武力では何も解決できません。より深い絶望を生むだけです。イスラエルの行為を黙視してきた私たち“国際社会”も問われています。国境なき医師団の署名よびかけも始まっています。今、日本でも人々を追い詰める恐ろしいことが行われています。沖縄県の辺野古新基地建設に対し、度重なる選挙や県民投票で民意は圧倒的に建設反対であるにもかかわらず、工事を強行している日本政府。周辺に多くの民家や学校がある世界一危険な普天間飛行場を撤去するには辺野古に新基地を建設し移設することが唯一無二の手段と言い、マヨネーズ状と言われる大浦湾側の軟弱地盤、震度1でも崩れると地質学者が指摘する活断層の存在、国民の税金を湯水のように注ぎ込む天井知らずの建設費、しかも、いつできるか分からない基地を建設することが唯一無二の手段というなら移設など不可能で、政治家の思考停止、責任放棄ではないでしょうか。沖縄県だけでなく国民を苦しめる工事を止めようとする沖縄県の抗議は理に適っています。代執行を実行させてはなりません。主権在民、地方自治の尊重を謳うこの国の憲法の精神を守らねば。(春代)
12月のネパール行きに向けて、準備が始まりました。今回は、東ネパールの奨学生のホームビジットを例年通り行いますが、西ネパール中心の忙しい過密スケジュールになりそうです。身寄りのないアシャさん、シムランさんの看護師学校の卒業間近ですが、まだ、就職に必要とされる市民権が取れず、10月の大きなお祭りの前にも政府機関に呼び出され、又、そのお祭りが終わってからも行かなければなりません。養護施設の理事長と、そのことでやりとりしていますが、グルミのコーヒー協同組合を訪問する途中で、看護師学校にも寄ろうとしています。グルミから更に西側でもプロジェクトを展開しているので、そこも訪問したいと思っています。山岳地域の移動は、とても時間がかかります。計画を練っているなか、11月3日、更に西側(極西ネパール)で大きな地震が起きました。2015年のカトマンズ近郊の大地震被害に似ています。交通手段が限られているので、地方自治体を通じた支援を中心にするように通達が出ています。関係した生産者はいませんが、支援が早く届くことを願うばかりです。(完二)
映画「福田村事件」に刺激され、関東大震災時に朝鮮人虐殺の一番酷かったのが自分の住む横浜だったことを知り、今年出版された「神奈川県関東大震災朝鮮人虐殺関係書類」の編者・山本すみ子さんのご案内で「横浜の虐殺現場を歩く」というフィールドワークに参加させていただきました。20年ほど前に働いていた神奈川区の、通勤で朝夕通っていた道、職場のすぐ横の公園、出張で歩き回っていた場所で理不尽な虐殺が行われていたことを何も知らずにいたことがショックであり、恥ずかしくもあります。横浜市はこの事実から目を背けているようです。なぜ「天下晴れての人殺し」だと罪悪感を消し去れたのか。小学生の子供まで一緒になって「私も突いてやったら死んでしまいました」と平然と言えたのか。過去をきちんと検証せず、学ばずにきたことが、また大きな悲劇が生むことになると恐ろしさを感じます。(早苗)
関東大震災の朝鮮人虐殺は、半数以上が横浜で行われたと初めて知って驚きました。足元のことに無知でした。10月末に現場を歩くフィールドワークがあり、早苗さん、萌さんと参加し、現場を案内してもらいました。凄惨な虐殺が、こんなに身近な場所で、そして今立っているこの場所で起こっていたとは・・・ショックでした。そして、救援で入ったはずの軍隊が、率先して虐殺しているということ、警察が流言を拡大し、自警団を組織し、虐殺の先頭に立ったということを資料を読み解き教えて頂きました。日本の植民地主義と人々の朝鮮人蔑視の延長にあったジェノサイド。同じ人間なのに、共に生きる隣人なのに・・・。権力者によって差別感情が植え付けられ、利用されてきたのでしょうか・・・。私たちはそれを乗り越えていかなければと思います。現在の、イスラエルのガザへの侵攻、即時停止を願います。民族差別により迫害され続けたユダヤ人。ナチスによるホロコースト。そして今、ガザのパレスチナ人へのジェノサイド。民族差別は、政治や一部の都合のいい人々に利用され続け、苦しむのは私たち市民です。ガザへのジェノサイドを止めるためにも、足元を学んでいかなければと思います。(百合香)
直営店のあるあーすぷらざには、中国残留邦人帰国者家族の方々や外国につながる方々を支援されている「ユッカの会」が運営される「ともしびカフェぽけっと」があります。そちらで開かれた、中国帰国者の方々と本場の肉まんを作り、お話をする会に早苗さんと百合香さんと参加してきました。中国語が飛び交う中で、帰国者の皆さんに肉まんの作り方を楽しく教わり、お一人お一人の人生を一部分ではありますがお聴きしました。満州への開拓、ソ連軍侵攻による壮絶な逃避行と引き揚げ。ご家族を亡くされ残留孤児として生きられ、文化大革命で暮らしが一変し、何十年も中国で生き延びてこられた後に自らが日本人であることを知られ、日中国交正常化と日本での肉親探し。そして祖国でありながら知らない土地での再びの戦後開拓や、言葉も通じない日本社会での暮らし…。ネットでも知れる歴史ですが、その歴史全てに人生を翻弄された方々が目の前にいらっしゃいました。歴史の一つとして学べば簡単に“知った”気になれるのですが、でもそこには生きた人の数だけの人生が存在していて、その複雑さをしっかり学び想像し続けていく事で、少しでも日本の誤りと向き合えることにもつながるのだと思います。世代は違えど、今の時代を共に生きている日本人として、私は無関係ではないはず。「それでも日本が好き」と言ってくださった皆さんと、またお話がしたいです。(萌)
10月
作家で人権教育研究家の伊波敏男さんが中学校に招かれての特別授業に立ち会わせていただきました。中学1年から3年までの合同授業。途中で休憩をはさみながらも90分の間、やんちゃざかりの子ども達が真剣にお話に聴き入りました。沖縄生まれの伊波さんは中学2年生でハンセン病を発症し、沖縄島北部の屋我地島にあるハンセン病国立療養所沖縄愛楽園に隔離されました。突然、親や家族から引き離され5歳から15歳までの子ども達が暮らす寮に入れられてからの波乱の人生。いくつかのエピソードを交え差別や偏見の恐ろしさ、信頼できる友人の大切さ、自分を大事にすることなどを語られました。質疑応答の最後に皆へのメッセージをと請われ、伊波さんはこう言われました。「特効薬が見つかって治る病気と分かってからも続いた日本の隔離政策。終生隔離という過ちがなぜ90年近くも続いてしまったのか。患者がどんなに助けを求め続けても世間の無知、無関心が人権を踏みにじる政策を助長してしまった。ハンセン病に限らず、こういうことを許してはならない。声をあげなければならない」子ども達はその後の授業に移りましたが、伊波さんが帰られる時、玄関まで見送りにきて次々に握手を交わしていました。車が動き出すと外まで走り出て手を振りながら、口々に「ありがとうございました!」と叫ぶ子ども達の顔は輝いて見えました。(春代)
年末に毎年数人で、ネパールの高等教育の奨学生の様子、そのホームビジットや面談を中心に、支援している養護施設の子ども達や、その後継続して支援が必要な子ども達、そして、農村部の協同組合や農家を訪問しています。又、今までお付き合いのある生産者とお会いすることも重要です。活動が各地の農村部に広がり、又、昨年訪問出来なかったハンセン病回復者のご家族が住むキャンプも、皆さん楽しみにされているので行かねばと思っていますので、全てを回ることは不可能です。ネパールも女性の地位が低く、農村部に行くほどに顕著です。厳しい生活をされている方々に少しでも寄り添い、共に支える関係を作って行きたいと思います。今から訪問が楽しみです。日々、応援頂き、有難うございます。(完二)
6月の学習会でお話をいただいたくるみざわしんさんの芝居「同郷同年」を観に行きました。幼い頃から共に育った3人が、放射能廃棄物の最終処分場の誘致をめぐり、賛成し、反対し、立場を変えて揺れ動く。それぞれに村を思い、自分たちの暮らしを守りたいと思いながら、違う道を歩み、責め立て合い、それでも思い合っている姿。国策や交付金依存の怖さと根深さを感じました。「事故は首相が収束宣言を出したから収束したんだ」「また事故があっても首相がまた収束宣言する。時間がたてばなんでもおさまる」という皮肉。アフタートークでは最終処分場の文献調査に応じた寿都町での住民分断の話があり、沖縄での基地反対をめぐる分断も想起されました。代々その土地に暮らし、これからも暮らしていく人々を、国が札束で翻弄している理不尽さを感じます。(早苗)
有難いことに、使命に心を熱く燃やし、命懸けといっても大袈裟ではないほど精力的に活動されている80代の大先輩方との出会いが続いています。伊江島で阿波根昌鴻さんの非暴力の精神を引き継がれている“命どぅ宝の家”の謝花悦子さん。作家で人権教育研究家の伊波敏男さん。14歳でハンセン病を発症され、壮絶な人生を力強く切り拓いてこられました。在日コリアン3世の宋富子(ソンプジャ)さん。差別され、生まれてきた命を呪いながら、立派な“日本人”になることを目指して必死に生きてこられたそうです。31歳の時に日本の侵略の歴史を初めて知り、衝撃を受けられたそうです。それから歴史を猛勉強され、民族の誇りと人間の尊厳を取り戻し、現在は川崎の桜本に在日コリアンの歴史を伝え、多文化共生を目指す歴史ミュージアム建設のために奮闘されています。他にもお伝えしたい方がたくさんいらっしゃいます。敗戦間際に生を受け、差別や偏見、貧困に苦しみながら生き抜いてこられた先輩方は、まっすぐと、あたたかく迎えてくださいます。この宝のような出会いから生き様を学ばせて頂き、差別や偏見のない社会にしていかなければと強く思います。(百合香)
近頃、いかに私たちがメディアの報道やSNS上での言論に思想や感情、人格を形成されているかを痛感しています。つい先日は、ある一つの告発報道によって、世論に養護されていた側と批判されいて側の立場が一夜で逆転したことがありました。新たな事実によって世論が変化することは必然ですが、SNS上での感情の転換の早さに怖さを覚えた出来事でした。また現在は様々なSNSが生まれ、必要な情報や答えがとても短い動画でまとめられ、考える時間すら与えないようなものも多くあります。そういった時代の転換もあり、「Z世代は自らで考えない」「指示待ちが多い」と言われてしまうのだと思います。一つのネットニュースや動画などで短時間で物事が分かり“便利”である一方、自らで情報を集め追及し、疑念を持ちながらも深めていく力は必要なくなる時代となってしまいます。その先は、デマを信じヘイトとなり、虐殺や戦争にまでつながることもあると私は思います。想像力を持ち、時間をかけて様々な情報を均等に集めていくことは暴力に抗する一つの作業です。私はどのようにしてメディアと付き合い、自らの思想を形成しているのか、改めていきたいと思います。(萌)
9月
東日本大震災の被災各地を回り支援を続けてきました。ひんぱんに通った宮城県石巻市、児童74人と教職員10人が津波に流され震災遺構となった大川小学校に7月、行きました。最初に行った時から、何故裏山に逃げなかったのかとの疑問が頭から離れませんでした。現地に行ったなら多くの人がもつ疑問だと思います。遺族の方達が真相究明に取り組まれても埒があかず裁判に訴えた、その経過を伝えるドキュメンタリー「生きる」を観て、何冊かの本も読みました。今回はガイドをお願いし、ご遺族の方に詳しい説明を伺い、数々の疑問もぶつけて、根底にあるものが見えてきました。この事件が大災害で起きた不幸な事件ではなく人災であること。真相を究明し、責任を明らかにして反省し、再発防止に努めるより、管理する側の人間が情報の隠蔽、改ざんをしてまで保身に汲々としていたこと。このような問題はどこにでもあり、いつでもどこでも起こりうると感じました。逃げる時間はあったのに、教師の指示をひたすら待ち犠牲になった子ども達、裏山に逃げようと言いつつも結果的に一緒に亡くなった教職員達の無念を考えると教訓として生かさなければと思います。(春代)
8月末、久々に陸前高田で椿を植樹した土地の草刈りを、百合香さんと実施しました。横浜からだとなかなか草刈りに行けずですが、年3回は最低限必要です。草が伸び始める5月から6月、暑くなり勢いづく7月から8月と秋という具合です。今年は、特に暑く、盛岡から来てくれたボランティアさんが6月、お米農家さんを中心とするアグリ笹森さんが7月に応援してくれました。そして私たちで8月でしたが、葛のつるが伸びる、伸びるで、なんとか最低限のことしかできませんでした。搾油とチョコ製造の工房の土地を貸して頂いている松野さんも、周辺の草刈りのお手伝いをしてくれたお陰で、なんとか体裁を保っている感じです。来年は、もう1回は必要と思います。昨年は、途中で雨が降り、車がスリップ(4駆でないとダメですね)して宿泊先から助けてもらいました。今年は、百合香さんが指に怪我を負ったりして、宿泊先や工房のスタッフから、草刈りの応援するよ、とか、温泉、特別に入って汗ながしてから横浜に戻ったらと温かい声をかけて頂きました。お陰様で、椿の木も元気に育っています。(完二)
沖縄・伊江島のわびあいの里にお手伝いに伺うと、樹木の枝切りを頼まれることがよくあります。え〜!こんなに青々と元気に茂っている枝を切るなんてもったいない!と思いながら、バッサバッサと切り落としていると、毎回連想するのは原稿を短くする編集作業です。例えば今号・秋カタログの対談は、若者3人の生き生きとしたやりとりが10500字もあったのに、割愛して4700字ほどに縮めました。手をつける前は「一体どこを削れというのだろう」と途方に暮れるのですが、心を鬼にして整理していくとアラ不思議、無造作に伸び放題だった枝葉がスッキリして、幹の向きや枝ぶりが見え、風通しも良くなり、スリムになっただけでなく、ここから新たな芽吹きが始まる予感すらしてくるのです。剪定って大事ですね。とはいえ、闇雲に切ればいいわけではないので、成長を促し、見栄えもいい剪定(編集)ができるよう、心して精進してまいります。(早苗)
先月末、完二さんと陸前高田の椿畑の草刈に行ってきました。カンカン照りの太陽の下、汗まみれになり、ビショビショに。ツルがからまった木の中に入り込みながら刈り、草土まみれに。完全防備のつもりでも、虫にあちこち刺され、痛かったり、痒かったり、むずむずしたり。フラフラになりながらも、ガーっと作業して、その後のシャワーの爽快なこと!!ごはんの美味しいこと!!しかし、同時に頭をよぎります。「汗水垂らして、鍬一本で開墾し」「戦禍を逃れて、山の中を逃げまどい」という、昔の厳しい生活を語る常套句のような言葉たち。伊江島の反戦平和資料館で触れた、土や血が着いたままの当時の衣服たち。飲み水も十分ではない中、体の汚れを落とすことなく、色んなものにまみれたまま、空腹に耐えながら、着のみ着のままむしろで寝る日常に、真夏の草刈後の、体にまとわりついた気持ち悪い感覚が重なりました。迫りくる「恐怖」や「不安」に晒されていない中での感覚ですし、実体験の数千分の1にも及ばないとは思いますが、それでも、学ぶことによって、色んな場面で少しでも想像力を働かせて、言葉にならない身体的感覚を身に刻んでいきたいと思いました。(百合香)
脚本家の宮藤官九郎がつくるドラマが好きで、「離婚しようよ」というドラマを観ました。離婚をしたい女優と政治家の夫婦の話なのですが、もう一つのテーマが選挙!!制作の上で、政治記者や選挙ライターの方々からも詳しく聞き取りをされたとのことで、地方での国政選挙はこんな感じなんだ~、これはあの元首相が元ネタになってるな?と思えるくらい、現実に基づきながらコミカルに描かれていてとても愉しく観れました。ドラマを観ながら選挙や政治の存在が自然と近くなる感覚があると、友人にもおすすめしやすいです。様々な媒体が政治を面白く、日常に溶け込ませる形で世に放ってくれることは大切だなと改めて感じました。(萌)
8月
7月末、悲しい知らせが届きました。カカオフレンズツアー参加者にいつも戦争中の体験を話してくださった沖縄県大宜味村の平良啓子さんのご逝去の報です。多い時は年に4回くらいお会いし、今年も2、3、5月にお会いしたばかりです。88歳とは信じられないくらいお元気で、ご家族の中での自分の役割とテキパキ家事をこなされていました。平良さんは9歳の時に学童疎開で乗船した対馬丸が米軍の潜水艦の魚雷に撃破され海に放り出されました。数日間、海上を漂い奄美大島に流れ着いた数少ない生存者です。身元が分かり、半年後に戻った沖縄で沖縄戦を体験されました。戦後、小学校の教員となり、子ども達に戦争の恐ろしさ、平和の尊さを体験を通してずっと語られてきました。今年の5月連休には9歳の孫娘を伴いお話を伺いました。机から身を乗り出し2時間近く、じっとお話を聴いていた孫は強い衝撃を受けたようで感想を聞くと「言葉にならない」と言いました。大宜味村憲法九条を守る会の代表でもある平良さんは「この頃はまたおかしな状況だから、何かしないといけない」と、沖縄が再び戦場になるのではと危惧されていました。平良啓子さんは平和を守るために最期まで闘われました。どうぞ安らかにお眠りください。啓子さんにお会いできてよかった。ありがとうございました。(春代)
今年も、中等教育統一試験SEEの成績(10年生卒業)が発表されました。同時に、その後の高等教育支援の奨学候補生が、カンチャンジャンガ紅茶農園、そして、東ネパール平野部に住むキサン民族の子どもたちから届きました。入学試験の準備もあるので、奨学金を出せるか否かの判断も時間との勝負です。ひとりでも多くの子どもたちが自立への道を歩むことを願っています。それでも、厳しいご家庭の子どもが多く、何度受けても、学校の卒業試験が通らない子どももいます。今回は、貧困故に、両親が早くなくなり、妹2人と共に残された子がそうでした。現地コーディネーターと共に、なんとか仕事の機会をと頭を悩ませています。(完二)
少し前に耳にした「怒りは敵を煽り、敵にも力を与える」という言葉が印象に残っています。確かに怒りや憎しみは自身の闘う力になりますが、相手にも対抗する感情が生まれ、抑えつける口実を作ります。そしてそれぞれが自分こそ正義だと思い込み、暴力を正当化するのでしょう。なぜ非暴力で闘う必要があるかを一言で伝えてくれているようです。沖縄で基地反対を訴える若者が、「争うよりも愛しなさい」を平和集会のスローガンとしたのもそんな気持ちからでしょうか。そう考えると、戦後すぐから「相手の悪口を言わない」「武器と思わせるものを持たない」「大声を出さない」
を陳情規定としてきた阿波根昌鴻さんの哲学と行動は本当にすごく、今私たちは改めて学ばなければならないと思います。(早苗)
皆さま、体調はいかがですか?強い日差しや、クーラーの冷んやりした空気にさらされて、疲れがたまってくる頃ですね。食欲も落ちてしまいますよね(←私は最近食欲UPで困っていますが^^)。そんな時におすすめなのが、「はちみつイオン水」!ご存知ですか?私は初めて作ってみたのですが、とっても簡単で美味しくて、感動しました。その上、材料は全てネパリの商品にあるではないですか・・・☆!レシピはとっても簡単。お水約350mlに、はちみつ大さじ1、お塩小さじ1/4に、お好みで柑橘果汁を混ぜるだけ。もちろん、栄養豊富なチウリはちみつに、ミネラルたっぷりの屋我地島の海塩、シークヮーサー果汁で作りましたよ。体が欲する美味しさです◎はちみつは胃腸に負担をかけずに素早くエネルギーに代わり、お塩で塩分も補給できて、疲労も回復。まさに天然の栄養剤。自然の恵みに感謝して、健やかに夏を乗り切りましょうね!(百合香)
9月23日(土)に開催するつなぐつながる学びの会のゲスト、杉山春さんの著書「児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか」を読みました。家庭内での児童虐待事件が起こると、どれだけ残酷な親であるかが繰り返し報道されることが多いと感じますが、“加害者”である親に共通しているのは「生真面目さ」であると杉山春さんは言われていました。選択的夫婦別姓を巡る論争や、子ども家庭庁の新名称問題からも考えられる通り、「こうあるべき」という家族や母親、父親象がこの社会にはあり、その社会規範から外れぬよう必死に「良い親」であり続けようとする生真面目さ。そしてその「良い親」でいられなくなってしまった時に逃げる場所もなく、助けを求める先も分からず…。とても苦しい社会に今生きているんだと感じました。児童虐待の問題に関わらず、「自分が苦しいのは自分のせいだ」という息苦しさを社会全体から少しでもなくせるよう、社会が何を強いているのか、その社会づくりに加担してしまっていないか、学んでいきたいです。(萌)
7月
先月も秋田県大館市の「花岡事件」のことを書きました。アジア太平洋戦争末期、日本国内の労働力不足を補うために閣議決定で、中国から4万人近い人々を強制連行し奴隷労働をさせ、多くの人々を凄惨な死に追いやりました。その労働現場の一つ、花岡鉱山での労工達の一斉蜂起が花岡事件です。毎年6月30日に大館市主催で中国人殉難者慰霊式が行われます。6月23日の沖縄慰霊の日に向けたイベントや7月2日に秋冬カタログの撮影もあり、長い移動距離や自分の体力を考えると今年の参加は難しいと諦めていましたが、コロナ禍で4年間、中国からご遺族をお招きできなかったが今年はお迎えできると聞き、やはり、どうしても参加したくなりました。29日にはNPO花岡平和記念会と2023.6.30実行委員会によるフォーラムがあり、林伯耀氏の基調講演やご遺族の方々の証言もお聴きできました。大館市は事件40周年の1985年から6月30日、中国人労工たちが蜂起した日に、その日以外に亡くなった方たちも合わせて419名のお名前を刻んだ碑の前で慰霊式をしています。追われて山に逃げこんだ労工たちを山狩りして鎮圧した警察など、およそ2万人の中には地元の消防団や自警団、一般市民もいました。殺害にも加担しています。そのことへ深い反省とこれからの平和のため日中友好のため、大館市はこの事件を風化させてはいけないと、加害の事実と真摯に向き合い続けています。(春代)
今年も、ネパールの中等教育修了試験SEEの発表時期となりました。現地コーディネーターが進学希望者とその結果の確認作業に入りました。円安と物価高で高等教育支援の奨学金財源も大変厳しくなっています。実質的には、円安により例年の2割減です。一方で、生活の厳しいご家庭の支援が増えているのも事実です。明るい材料も幾つかあります。
コーヒー村のシリンゲ協同組合が若者中心に若返りそうです。まだまだリーダーシップを取るには経験が必要ですが、これから徐々に一つひとつ課題をクリアしながら共に歩めたらと思います。又、服作り、ハンディクラフトでお世話になったマヌシとは、小規模ローンを通じて、女性たちの経済的自立をする活動があるので、その女性たちとスパイス生産の分野で協働することができないか、を目的に、スモールプロジェクトを始めました。これにも、シリンゲの若者が協力してくれています。これからも、応援、宜しくお願いします!(完二)
翻訳家・平野卿子さん著『女ことばってなんなのかしら?「性別の美学」の日本語』という本を読みました。その中の、そもそも日本語とは?の章で、日本語は主語がない(誰がやったのか言わない)、主観的(事実より感じたことを語る)、遠回しに断る(はっきりいわない)、自動詞を好む(「ランチにコーヒーをつけない」ではなく「ランチにコーヒーがつかない」というように、自分がやったのではなく自然にそうなったかのようにいう)、受け身を好む(自分ではなく相手のせいにする)。おや、これはまさに、戦争責任も原発事故責任も軍事力強化の根拠もうやむやにして、仕方がなかったことにする過去から現在の私たち日本人の特性をあらわしているではありませんか。著者も、西洋語と日本語は、「男性的」「女性的」(といわれる)言い回しの対比に似ていて、女ことばをつかわない日本の男性たちもこの「女性的な」言い回しを使って国を牛耳っている、「女性的な」言い回しをやめてきちんと自己主張しないと、と言っています。日本人の特性が日本語をこうさせたのか、日本語で思考するから日本人がこうなったのか、鶏と卵のようですが、興味深いです。(早苗)
一人デモを続けられている、元原発技術者・小倉志郎さんから送られてきたメールに唖然としました。6月26日、東京高裁で開かれた「女の会」の「安保法制違憲訴訟」で、Tシャツに「NO WAR」という文字が入っていることを理由に傍聴希望者が入廷を禁止されるという事態が起きたそうです。警備員が、Tシャツを脱ぐか、裏返しに着るかしないと傍聴できないと言ったそうです。理由は、「メッセージ性があるから」「裁判長の判断だ」と。さらに、虹色の靴下や、「忘れない」の文字が入ったTシャツも止められるなど、他の裁判でも同様のケースが頻発しているそうです。信じられますか・・・?ごく当たり前に、平和を願う言葉ですよ?平和を表す緑の服もNGになるのでしょうか?何の根拠もなく、ここまで言論と表現の自由が侵害されていることに怒りと恐怖を感じましたが、それほど、私たちが自分たちの考えを表現することを、国は恐れているんだということに気付かされました。私たちが思う以上に、私たち一人一人の自由な表現には力がある!私たちの力を信じて、どんどん表現していきましょう!(百合香)
年末から通いはじめた自動車学校を無事に卒業し、自動車免許を取得することができました!働きはじめて5年目にして、私も自動車を運転できる立場になれたことがとても嬉しいです。きっと私は運転が得意な方ではないと思うのですが、働く上で自らの世界が変わりました。働きはじめてからすぐにコーヒーの焙煎発注の担当をさせてもらいましたが、発注のタイミングにあわせて、生豆を倉庫から事務所に自分で運ぶことが出来ず、スタッフ間で依頼をしていたものが、生豆を運ぶところから自分の仕事ができるようになる。陸前高田や野田村、カタログ撮影のための軽井沢への移動も、ただ乗っているだけではなく自分も運転する立場としてその場にいられる。運転をするという立場は責任重大ですが、できることが増えた今はとても嬉しいです。安全運転でがんばりたいと思います!(萌)
6月
6月2日と3日、秋田県大館市にある「花岡平和記念館」に行きました。アジア太平洋戦争末期に中国から4万人もの人々を強制連行し強制労働させた日本。その中の986名が送り込まれた花岡鉱山。あまりの重労働と過酷な環境に餓死、拷問死、自死など毎日次々に亡くなり、このままでは全員殺されてしまうという危機感から人間の尊厳をかけて一斉蜂起しました。しかし、直ぐに鎮圧され更に多くの人々が殺され、日本の敗戦でやっと帰国できたのは半数近く。花岡事件は全国135ヶ所の中国人の強制連行、強制労働の現場の中でも連行した人々への扱いの残酷さ、死者数で象徴的と言われます。満蒙開拓団について調べると開拓団の人々の悲惨な逃避行の被害だけでなく、そもそも満州という日本の思うままに操れる偽の国家をつくり、中国やアジア諸国を侵略し非道の限りを尽くした加害の事実に突き当たります。その事実に向き合うための一歩は6月17日のくるみざわしんさんのお話を聴く学習会。花岡事件については来年、カタログに掲載する予定です。一歩ずつですが、加害の歴史を知る努力を続けたいと思います。(春代)
今年初めの体調は絶好調でしたが、2月に暗闇で転び骨折、5月連休を使って充実した沖縄訪問でしたが、内容とは裏腹に体調は疲れ気味。歩くのもやっとの日々が続いてしまっています。気合いを入れるものの、これはじっくり待つしかなさそうです。年末のネパール訪問から早や半年、モーニングスターチルドレンホームの身寄りがない子どもたちが、西ネパールの看護師を育てるキーとなっている学校で学び始めて2年が過ぎ、この度、訪問することになりました。思えば、この活動を始めたきっかけが、その学校のメインサポーターであるネパール合同ミッション(世界各地から医療、教育関係者が集まり、ネパールへの奉仕活動を続けているUMN)に所属し、西ネパールのタンセンに建てられた病院です。そこに派遣されていた岩村昇医師が日本の学校の講演に来られたことがご縁になっています。その後も、その病院がらみのお手伝いのご縁がありました。気が付いてみると、又、タンセンの看護学校訪問と不思議なご縁です。あと1年を切った在学の機会ですが、無事に自立をして育ってくれることを願っています。いつも、応援、有難うございます!(完二)
テレビでは好意的な評価が多くみられたG7広島サミットをモヤモヤしながら見ていました。核兵器は抑止力だと明言して保有する国々の首脳が原爆資料館を訪れましたが、戦争反対・核兵器反対の人が見れば、その想いをさらに強くする展示も、抑止力になると考える人が見れば、それが悲惨であればあるほど「やっぱり抑止に効果がある」と思うだけではないのでしょうか。自国の核保有は正当だが、他国には認めないというのは、「暴力はダメだ!暴力をふるわれたら、どうだ、痛いだろう!だから暴力はやめろ!」と自分より弱い相手をボコボコにしながら暴力否定しているような矛盾と身勝手さを感じてしまうのでした。(早苗)
入管法が改悪に向かっています。入管施設の中の映像をいくつも見ました。難民の方が命の危険を気力体力を振りしぼって虫の息で訴えているのに、せせら笑いながら対応する職員の方々。大人数名で、無抵抗の難民の方に、馬鹿にした言葉を浴びせながら、明らかに拷問、虐待を行い強制送還させる職員たち。無抵抗で無力の方が命を失うということが、どうして分からないのでしょうか?仕事だから?ルールだから?上司の指示だから?仕事を終えて施設を出ると、きっと所謂いい人も多いでしょう。なぜなのでしょうか・・・自分は安全地帯にいて、正しいことを行っていると信じているのでしょうか…。今、難民という立場の方々を排除しようとしている力の矛先は、同じくらいの、もしかしたらそれ以上の恐ろしい力で私たちにも向かってきているのに・・・。もし改悪されてしまっても、施行まで時間があります。反対の声をあげ続け、廃案にできる希望はまだまだあります。共に生きる大切な仲間の命を諦めないで頑張りましょう。(百合香)
星野源さんと荻上チキさんが対談された回のラジオが好きで、そこでお二人が興奮気味に紹介されていたフランスの社会学者ブルデューの名著「ディスタンクシオン」がずっと気になっていて、先日やっと「100分de名著」で内容を知りました。解説は沖縄や生活史が研究テーマの社会学者の岸政彦さん。若かりし頃にブルデューの影響を大きく受けられた岸さんの解釈と、社会学に対する姿勢に感動しました。岸さんが言われる社会学の役割は「自己責任にさせないこと」、そして「他者の合理性」を表していくこと。一見、理解することができない他者の生き方や言動の背景には、生まれ育った環境や周りの人間関係からの影響で蓄積されてきた文化的資本があって、必ず理由がある。その合理性を少しでも想像することができれば、他者を目の前に「私も、あなただったらそうするかも」ともっと優しくなれるのかなと、岸さんの社会学をもっと学びたいと思いました。ブルデューは本の中で『重力の法則は飛ぶことを可能にする』と言っています。これまでの人生の履歴の中で生きている不自由さを知れることで、本当の自由を自らの意思で選びとれるのかもしれないと思うと、「自由」の奥深さを感じました。(萌)
5月
5月3日の憲法記念日、沖縄島北部の大宜味村で対馬丸事件の生存者、平良啓子さんに体験談を伺いました。昨年の5月連休に続き、今年も孫3人を連れて沖縄に行くにあたり、どうしても平良さんのお話を孫たちに聴いてほしくて大宜味訪問を入れました。私はカカオフレンズツアーのご案内でいつも平良さんのお話を聴かせていただきますが、その都度、孫娘のことを考えていました。アメリカの魚雷攻撃で沈む貨物船から海に放り出された平良さんは9歳。孫娘も今9歳です。自分と同じ年の時の平良さんの凄まじい生存の闘い。家に戻られてからの沖縄戦の体験を聴いて孫娘がどう感じるのか。身を乗り出して聴いていた彼女に感想を聞くと、「言葉がでない」というひと言。受けた衝撃の大きさを表す正直な気持ちでしょう。戦争は絶対ダメと、辛い体験を語り続ける平良さんが代表を務める大宜味村憲法九条を守る会は、憲法九条を後世に残そうと2017年、役場敷地内に九条の碑を建立しました。戦争は天災ではなく人災だから意識して皆が努力すれば防げます。2度と悲劇を繰り返さないよう頑張りましょう。(春代)
ネパリのフェアトレード活動を始めて31年になろうとしています。当時、エネルギッシュに動いていたシリンゲ協同組合代表のバドリさんは、今年3月にお亡くなりになりました。そして、お連れ合いのクマリさんも具合が悪くなり病院に運ばれた、とたった今、情報が飛び込んで来ました。次世代へ交替している過程にあることを実感することが多くなりました。その間、物価の高騰も無視できないものになっています。嬉しいことは、次世代の若者が育って来ていることでしょうか。元奨学生も、社会の担い手の中心になる年代に入り、頑張っています。社会の変化と世代交代を考え、できること、できないことを取捨選択しながらも、初心を忘れずに進んで行きたいと思います。(完二)
GWに沖縄を訪問し、平良啓子さんにようやくお会いすることができました。9歳の時に疎開のために乗った対馬丸の撃沈と帰沖後の沖縄戦を生き延びた平良啓子さんのお話は力強く、過去から現在へと繋がっていきます。「戦前の軍国教育は今考えると馬鹿らしいが当時はそれを信じていた。戦争は政治家が起こす。戦争を始めたい時は教育に少しずつ入れてくる」と憤る平良さん。平和教育の場は学校だけではありませんが、学校で何をどう教えるかは重要です。そしてそれを牛耳っているのはその時代の政治家であることを考えたら、ますます選挙の重みを感じずにはいられません。
(早苗)
沖縄訪問では、命どぅ宝の家に4泊しました。昼間は働き、明るいうちにシャワーで汗を流し、食事は皆で作ってゆんたくしながら皆で食べて、夜はそのままクタっと寝て。阿波根昌鴻さんが戦争につながる全てのものを決して許さず諦めずに闘い続けた、その日々はどれほど厳しく壮絶なものだったのだろうかと思いますが、対照的に、命どぅ宝の家で過ごす日々はあたたかく、絶対的な安心感と、自分が活かされていることを感じます。そこからは、平和に続くもの、心安らかにさせるものには、限りない愛情を注がれた阿波根昌鴻さんの心が引き継がれていることを感じます。石ころにも雑草にも話しかけ、愛情を注がれたそうです。一人ひとりの心が平穏で満たされる、その積み重なりが平和な社会なんだなぁと感じました。美味しいものを食べた時、きれいなものを見た時、誰かと心が通じた時・・・心がふわっとあたたかくなる、その感覚を軽視しないで、大事にして、心の中にたくさん溜めていきましょう。(百合香)
伊江島のわびあいの里(命どぅ宝の家)に滞在させていただき、謝花さんご指示のもと倉庫周りの草むしりや荷物整理をしている時、「米軍演習場工事反対!」という手書きの大きな看板が出てきました。「これは基地の入口に立てていた看板だねぇ…」と謝花さん。農民の日々の生活、子どもたちにつなぐための土地、当時の方々が暮らしの中で必死に守られるようとしたものを、今を生きる自分は守ろうと行動できているのか?自問しながら、歴史が詰まった看板を壊さぬよう大事に汚れを落としていました。そんな時、謝花さんが私に「基地前に座り込む運動も必要。座り込みに行く時間も体力も、お金も十分ではないなか皆必死で行動している。それでも前に進まない現状。私たちは、暮らしの場から平和運動をすることも大事にしないといけないと思っている。おじい(阿波根昌鴻さん)がつくったこの里から…」と言われました。私自身の話だ、と思いました。私の、私たちの暮らしの延長線上(過去も未来も)にあるものは何なのか。謝花さん、阿波根さんの思想を学ぶだけでなく、自分自身で日々問いていきたいです。(萌)
4月
沖縄カカオプロジェクトのメンバーとして、リサチョコレート製造者を目指されている大阪のNPO・CPAOさんの製造研修のため、4月初旬に岩手県陸前高田市の工房・椿のみちに行きました。2月の沖縄研修に次ぐ研修です。沖縄は“なぜ沖縄か?”を知っていただきたくてご案内しました。陸前高田の工房ではリサチョコレート製造の素晴らしい職人となったスタッフたちから愛情いっぱい、惜しみない指導を受けてチョコレートづくりの難しさと楽しさを感じていただきました。CPAOの皆さんは帰ったらすぐにもスタートしたいと意欲満々で、工房スタッフたちも仲間としてこれからも応援したいと張り切っています。東日本大震災支援からスタートした国内事業が理不尽な扱いを受け続けている沖縄の、沖縄ならではの地の利を活かした産業づくりを目指す沖縄カカオプロジェクトに至り、ネパールもインドもつながる大きな輪ができました。層の厚みを増していく沖縄カカオプロジェクトの今後がとても楽しみです。ぜひ、カカオフレンズとしてこの輪に入って支えてください!(春代)
沖縄カカオプロジェクトのクラフトチョコレートを造る輪が広がっています。最近でも、大阪で、そして沖縄でその趣旨を活かしながら挑戦したいという動きがあります。進展がありましたら、お知らせしますね。ネパールでは、カトマンズ近郊の養護施設MSCCで最近、理事会が開かれて、代表理事が交代となりました。コロナが始まった頃に急逝されたラムチャンドラさんの後任です。今までその後を支えてくれたラムチャンドラさんのご家庭の皆さん、上の娘さんはご結婚され、その弟が、その後支えてくれていましたが、お子様が生まれ、お仕事も忙しくなっていました。次のステップに向けて、進んで参ります。応援、宜しくお願い致します!(完二)
3月末に長野の満蒙開拓平和記念館で拝見した、画家・王希奇さんの大作「一九四六」がテレビでも紹介されていました。原爆投下、沖縄戦に並ぶ敗戦時の悲惨な出来事なのに、扱われることの少ない満蒙開拓団を語り継いでいかなければいけないと。敗戦直後、外地に残された日本人に対して、受け入れの余裕はないから日本国籍も捨てて現地でやっていけと切り捨てた日本。日本は外地の邦人に冷たかったという説明は、引き上げ者の帰国後の苦労を思うと政府だけのことではないと感じます。そして、それは現代を見ても、外国人技能実習生や入管収容者への不当な扱い、障害者・被災者・被害者が声を上げ始めた時の掌を返したバッシングなどにも共通する、異質なものへの排除の心理、内と外を切り分ける怖さを感じます。(早苗)
先日のこと。完二さんと孫のはると君(5歳)の会話が聞こえてきました。妖怪がいる?いない?と何やら真剣な議論をしている模様。完二さん「だってテレビに妖怪出てたじゃん」、はるとくん「・・・テレビで言っていることが、全て正しいんじゃないんだよぉ!!」おぉ・・・!すごい!ちゃんと分かっているんだなぁと驚きました。テレビはもちろん、大人が言っているから、学校で習ったから、偉い人が言っているから、ではなくて、得た情報を一旦疑って、自分で考える力をこのまますくすく伸ばして欲しいなと思いました。という私も、日々手元に届くたくさんの情報に飲み込まれることなく思考を続け、その中から血が通った情報や、声なき声を代弁している情報に気付けるように、感性を磨いていかないとと思いました。大事なことをあらためて教えてもらいました。ありがとう!(百合香)
満蒙開拓平和記念館の図書コーナーで、731部隊の元少年兵であった篠塚良雄さんの本(高柳美智子さん共著)を読みました。関東軍の731部隊が捕虜の方々に行った行為がはっきりと証言されていて、文字を読むだけでも苦しかったのですが、なぜ少年たちが当たり前かの様に罪を犯してしまい、戦後、撫順戦犯管理所での生活の中でどのようにして罪と向き合い“人”に戻れたのか、篠塚さんの人生にいつの間にか引き込まれていました。歴史を学ぶことは積極的にしたくても、本を読みながら「この言葉の意味なんだっけ」「この事件知らない、調べないと進めない…」と、読み進める手や頭がとまってしまうことが多々ある私なのですが、“過去の歴史”としてではなく“一人の人生”としてその歴史を知れる時、いつの間にかぐっと読み進めている自分がいて、私の頭や心にすっと落ちていく感覚があります。私たちが生きている今の社会は、これまでを生きて来られた方々の人生の上で成り立っていることを忘れず、敬意を持って歴史を学べたらと思います。(萌)
3月
2月23日、久しぶりに学習会を開催しました。コロナ禍でずっとできなかった集まりを再開するにあたり、「つなぐつながる学びの会」としてシリーズで行うことにし、その第一回目でした。長引くウクライナ戦争で核の脅威を実感する今、戦争で原爆投下された唯一の被爆国・日本が戦後、核とどう向き合ってきたか、なぜ、福島原発事故という被害甚大な核災害をなかったがごとく軽く扱うのか、数々の疑問を抱える中での学習会。元原子力発電所の技術者で核の真の恐ろしさに気づき、即刻全世界の原発を止めるべきと訴える小倉志郎さんをお迎えしました。設計から現場まで熟知した専門家の説得力あるお話に衝撃を受け、意見交換も盛り上がりました。そして、問題意識をもつ人々がどのような意見も自由に発言できる場がどれほど必要か強く感じました。これからも学びの会を続けます。ご参加をお待ちしています。(春代)
先月、骨折と手の平、人差し指を縫ったことを書き、皆さまからご心配頂いたメッセージを頂き、有難うございました!それから1ヶ月が経ち、傷もほぼ閉まり、後1ヶ月で完全に治りそうです。骨折直後沖縄に伺い、行く先々でご心配もかけてしまいました。その骨折も順調で、それなりに動かせるようになって来ました。どうか、怪我だけはお気をつけ下さい。悲しいお話が続きますが、シリンゲコーヒー協働組合代表のバドリさんが2月末にお亡くなりになりました。今後のことについては、シリンゲの皆さんとも話し合いながら体制を整えたいと思います。若者達が頑張ろうとしていますので、今後とも、宜しくお願い致します。(完二)
市の広報誌に4月9日の統一地方選挙の案内が載っていて、あぁ、もうこの時期かと日の経つ早さに慌てています。国政選挙よりもっと投票率が低くなりがちな地方選挙。有権者の半分も投票しないのはとても残念なこと。そういえば以前、市の選挙啓発ポスターが有名人の顔と投票日くらいしか載せていなくて、いやいや投票促すならもっとアピールすることあるでしょうと思ったけれど、案外投票日すら意識していない人も少なくないというエピソードもありました。もうすぐ選挙だねぇといろんな人と話題にして、自分も候補者の情報を積極的に集めて、少しでも選挙が盛り上がるといいなと思います。(早苗)
「異次元の少子化対策」なる言葉が突如表れ、批判殺到しています。その内容にはここでは触れませんが、個人的に「少子化“対策”」という言葉を聞く度に、心がモヤっとしていました。子どもが少なくなると労働人口が減り、税金が減り、様々なインフラが保てなくなり、消滅してしまう村や町が出てくると・・・。だから、「少子化」は「国難」であると・・・でも、子どもが生まれてくるのは労働力のためでしょうか?地域の機能を保つためなのでしょうか?そうではないんじゃないかな、と、「少子化“対策”」という言葉を聞く度に、何だか悲しい気持ちになっています。ただただ、人らしく幸せに生きるために生まれてくるんじゃないのかな、と思います。そうして生まれてきた子どもたちが、どんな人口構成であろうとも幸せに生きられるような仕組みを考えることが政治の役割なのではないでしょうか。もちろん、昔は子どもだった大人たちも、今を生きる人、みんなが幸せに暮らせるように。政府が産むことを奨励することも抑制することも、個人の性と生殖の権利に国が介入すること。そこには、これまで多くの差別や暴力、闘いの歴史がありました。“モヤっ”を放置せずにいたいなと思います。(百合香)
福島での原発事故が起きた時、私は栃木県にいて高校1年生でした。もうあれから12年が経とうとしている中で、気がつけば、福島とその周辺の私の同世代の方々が甲状腺がんで苦しまれていて、そして東京電力を訴えるための裁判を起こしていました(「311子ども甲状腺がん裁判」)。彼らが甲状腺がんに苦しまれている頃、大学生だった私は東北に何度か通っていました。女川町の原発PRセンターにも個人的にふらっと立ち寄りましたが、その時は原発の問題はあまり理解していませんでした。28歳になった私の世代は、仕事をもっと頑張ろう、新しいステージに挑戦したい、結婚して自分の家族を持ちたい、自分の人生の優先順位をそれなりに自由に決められる年齢だと思います。だけれども、責任の所在が確かにされない原発事故によって甲状腺がんになってしまい、時間とお金を治療につかい、大学も仕事も諦めざるを得ない苦しみの中で生きられている同世代がいること、その苦しみがない人生に私は生きていたということ、甲状腺がんになる確率はあった私なのに、これまで意識していなかったことを今やっと気づきました。3月15日に、その裁判の第5回口頭弁論があります。原告の皆さんの意見陳述は今回が最後とのことです。意見陳述はホームページにアップされます。私は、原発についての自分の考えを文字にすることをいつも迷ってしまいますが、原発事故後に甲状腺がんになってしまった方がいることは事実で、その事実を知る前の私にはもう戻れないので、近しい友人や知人にも原告の皆さんの存在と言葉を伝えていけたらと思います。(萌)
2月
本がどんどんたまります。本箱を買っては溢れ、買っては溢れてしまいます。しかも探しにくい。そこで、ジャンルごとに整理しました。沖縄戦、特攻隊・戦争・近現代史、沖縄問題、満蒙開拓団&青少年義勇軍、ハンセン病、在日外国人、福島原発事故、他いくつかのグループに。見やすくなった!と喜んでいると後ろから「よく集めたね!」と、家人のひと言。「集めた?読んだのです!」と私。でも、もう一周、二周読まないと理解には至りません。良書はスルメと同じ?読めば読むほど面白くなります。(春代)
久々のネパールから1ケ月が経ち、その時に約束して来たことへの実現に向けて追われる毎日を過ごしています。コロナ禍では、より立場の厳しいご家庭では、女性が被害者になるケースが目立ち、現実に見聞きもしました。そうでなくても女性への差別、暴力は多いと、コロナ禍で亡くなられた牧師のラムチャンドラさんから聞いていました。その一つひとつに向き合い、問題を解決に挑戦して行きたいと思っている矢先、買い物からの帰り道、暗闇で転び、両手を怪我して、挙げ句に骨折までしてしまいました。慎重さが足りない自分を反省しています。早く治して、課題に挑戦して参ります!(完二)
「ソ連兵へ差し出された娘たち(平井美帆・著)」を読みました。敗戦時に中国に取り残された開拓団が、自分たちを守るためだと未婚の女性たちをソ連兵の「接待」に送り出した事実を丁寧に調べたノンフィクションです。衝撃的な痛ましい事実ですが、無事に日本に戻った「接待」責任者の男性が、「接待」を強いた女性に対し穢れた存在と蔑むばかりか、「ソ連兵のケツを追っていた」とからかったという根深い女性差別と無神経さには何より怒りを覚えました。その差別意識は決して今は消え去った過去のことではないでしょう。この悲惨な事実を第三者が「非常時だから」と語ったことに対し、「非常時だからしかたがないのであれば、非常時ならばまた同じようなことが起こるということ。つまりはその事実を肯定しているということだ」という一文は、様々な問題にも共通し、忘れず胸に刻んでおかなければと思いました。(早苗)
『原発を並べて自衛戦争はできない』と書いたプラカードを首から下げて、いつも一人デモをされていらっしゃる元原発技術者の小倉志郎さん。昨年11月、JR横浜駅構内でプラカードを外すように駅員に求められたそうです。昨年7月、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である―大飯原発運転差止請求判決の要旨から」と書かれたTシャツを着て、原発事故の避難者関連訴訟の傍聴のために福島地裁にいた松本徳子さんは、メッセージ性があるので脱ぐように職員に求められたそうです。松本さんは福島県郡山市から自主避難されました。先月のこと。私は久しぶりに帰省し、空港に向かうバスの中で、母と過ごす残り僅かな時間を惜しんで話をしていました。「緊急の時以外、お話しはお控えください」。静かな車内にアナウンスが響き、ドキっとしました。緊急の時って・・・?これって、本当にコロナ対策ですか・・・?声をあげる権利を、私たちはこの3年間自ら差し出しているように、私は思えてなりません。もうやめませんか。私たちの声を取り戻しませんか。戦争が始まって、「あの時は仕方なかった。声をあげられなかった」と、後悔する前に。(百合香)
同性婚や選択的夫婦別姓がまだまだ認められない社会にうんざりしています。それらの法律が通ったところで、これまでの日常が脅かされ、悪影響が及ぶ人はきっといないはずです。ただ、好きな人が誰であるかで社会から抑圧され続けてきた人々、姓の選択を強制されていると感じる人々が自由になり、本来の自らの人生を歩めるような基本的な人権がやっと手に入るだけのことだと思います。「日本の伝統的な家族観が壊れる」と言う層もいますが、家族の形を、なぜ国家に、政治に決められないといけないのでしょうか。国家のもではなく、家族それぞれのものです。「性的マイノリティへの理解を深めましょう」という言葉も、私の中ではとても落ち着きません。もちろん差別やヘイトクライムは絶対的に許せるものではありませんが、ただ好きな人と生きるために、“社会から理解してもらう”という言葉がそぐわない気がします。そういった大切な法案が、数の論理である国会内で話し合われていることも忘れてはいけないことだと思います。(萌)
1月
新年早々何を書こうかと迷いました。気になることはたくさんありますが、1月だから、年のスタートに相応しい元気なことを書こうと思うと、どうも出てきません。私は悲観的な人間ではないと思うのですが、最近、ため息をつくことが多くなりました。年のせいでしょうか。まぁまぁ、愚痴はこのへんで、今年の計画を少しご披露します。3年間、学習会など人が集まることを自粛してきましたが、皆さんとシェアしたいテーマがたくさんあるので、専門家や体験者をお招きして学びたいと思っています。原発について、アジア太平洋戦争に関すること、在日外国人の問題等々。専門家のお話を聴くだけでなく、参加者が語り合えるような場にしたいと思います。ぜひ、ご参加ください!(春代)
3年振りにネパールに行って来ました。やはり、この目でみる、感じるは大切で、多くの発見、出会いと感じた旅となりました。最初に目に入って来たのは、仕事が減っている状況でしょうか。単にコロナの影響だけではなく、パラダイムシフトが起きているからだと思います。生活の向上が見られる一方で、置き去りにされ、依然として厳しい生活を余儀なくされる人々との二極化が進んでいるようにも感じました。その厳しい生活をしている皆さんも、少し応援をして向上する機会を得られた奨学金は、卒業生後、生きる技術、仕事を経て自らステップアップして行く姿を幾つも感じることができました。皆さまの応援あっての結果に感謝しています。(完二)
年末の沖縄で、ずっと行きたかった佐喜眞美術館に伺いました。沖縄の地で拝見する「沖縄戦の図」は重く胸に迫ります。スパイ容疑で日本軍に殺された人、ガマに逃げ込む人たち、集団強制死を迫られる人々、痛恨之碑。ちょうどヤマトからの学生が来ていて、館長のお話を後ろで聞かせていただけました。戦時下の群集心理、「真実を見つめる少年」にだけ描かれた瞳。学生さんたちからは幾つも質問があがり、頼もしく感じました。普天間基地を見下ろす屋上では、県民の意思を無視して基地を沖縄に押しつけるヤマトへの怒りを投げつけられ、学生たちはどう感じたのか。心の隅に刻まれて、これからのいろいろな場面で考えるきっかけとなることと思います。(早苗)
3年ぶりのネパールで、生産者の方々や奨学生、養護施設の子どもたちとようやく再会することができました。感染拡大に厳しい経済状況に、困難な中を生き抜き、逞しく成長している若者たちには感動しました。また、生産者の工房では、代表やマネージャーの方々だけでなく、ワーカーの方々も喜んで下さっているのが表情から伝わってきて、来れて良かったと心から思いました。ネパールではほぼ日常を取り戻していますが、「ネパリが来てくれて、やっとノーマルに戻ったと思えた」と言ってくださったのが嬉しかったです。コロナ禍で厳しいロックダウンが2回あったネパール。家から出られず、刑務所にいるようだったとマハグティのスニールさんは言われていました。私たちも行きたくても行けない、耐え難い時間でした。こうしてお会いして、たわいのない話で大笑いして、場と時を共有することが、生きる力になりますね。日本社会も、自分たちの生きる力を信じて、社会を取り戻していきましょう。(百合香)
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんと佐藤慧さんの年末年始の取材報告を聴きました。沖縄で遺骨捜索を続けられている具志堅隆松さんと共に、福島県大熊町で娘の汐凪さんの遺骨を探し続けている木村紀夫さんの元へ再訪問され、搜索をされた報告です。感じたことは書ききれない程たくさんあるのですが、年末にかけて動きのあった原発や軍備費の「大転換」について、木村さんが涙ぐまれながら言われた言葉がとても重く、私の中に残っています。「何かあった時に、避難が必要な原発をなぜわざわざつくるんですか…。こんな悩まなくて言い訳ですよ。世の中の99%ぐらいの人たちはそういうことを考えないっていう…。本当に息が詰まりそうな感じですね。そういうことをちゃんと伝えられない、言えないって。特にここ(福島)で」。日本は年が変わると同時に「昨年のことは忘れて、気持ち新たに!」という風潮があると思うのですが、忘れてはいけないことがたくさんあります。年越しを喜べない人々はきっとたくさんいいらっしゃると思います。いち日、ひと月、1年の積み重ねだと思い、私たちの今の足元がどんな社会につながっているのか、考えながら日々を過ごしていきたいと思います。(萌)