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屋我地島 マース物語 tsuna20 2021s

屋我地島 マース物語~ 伝統の塩づくりと地域のもう一つの歴史 ~

地の塩 世の光

文:土屋春代

「屋我地」と言えば国立療養所沖縄愛楽園は有名です。迫害を受け行き場のなかったハンセン病患者の方達の努力が実り1937年、屋我地島に「国頭愛楽園」の前身となる沖縄MTL相談所が開所しました。1938年に国頭愛楽園が開園する際にはハンセン病患者は強制的に収容されるようになり、社会から切り離されました。薬で治癒すると分かってからも50年近く国策として隔離政策が続き、人生を奪われました。カカオフレンズの沖縄ツアーでは必ず愛楽園を訪問します。それは、私達が大切なものを見失うことがないように深く知る必要があると思うからです。地の塩・世の光・・・、厳しい差別と偏見に苦しまれた回復者の方達とそのご家族の方達は社会を浄化し、人々を導く光だと思います。全ての人の尊厳が守られ、深く傷つけられたり人生を奪われたりすることがない社会を築くための。


奥間政則さんのドローン撮影による屋我地島の愛楽園(沖縄ドローンプロジェクト提供)

愛楽園のこと
国立ハンセン病療養所は全国に13ヶ所あります。その中でも沖縄愛楽園と宮古南静園は戦争の影響を最も強く受け、特に悲惨な状況でした。日本で唯一、住民を巻き込む軍の方針“軍官民共生共死”の下、激しい地上戦が行われ、県民の4人に1人が亡くなったと言われる沖縄戦の末期から戦後は食料も底をつき、不衛生な環境や栄養不良で免疫力が落ち“戦争らい”と言われる患者が増え、施設の収容定員の倍以上の約900人の方が入所させられていました。

愛楽園は軍の施設と間違われ激しい空爆を受け建物はことごとく焼失しましたが、砲弾による死者は一人でした。しかし、避難のために掘らされた壕は古い貝が埋まった地層で、末梢神経をおかされ痛みを感じない手指をその破片が傷つけ、傷口から悪化し亡くなった方や栄養失調やマラリアで亡くなった方は300人近くいらっしゃいました。

ハンセン病とその歴史
古くから不治の病と恐れられ、忌み嫌われてきた感染症です。1873年にノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師がらい菌を発見し、差別的に使われてきた「らい」を改め、ハンセン病と呼称されるようになりました。日本でも業病、国辱病などと言われ、1907年「癩予防ニ関スル件」が制定され隔離が始まりました。1931年「癩予防法」により徹底した隔離が進みました。患者は人里離れた奥地や離島に設けられた療養所に強制的に隔離されるようになり、優生手術の対象とされた遺伝病ではないことは明らかになっていたのですが強制断種や堕胎が行われました。療養所は患者作業を前提に運営され重症者介護、薪割り、道路工事など、患者作業と呼ばれる強制労働も課され、怪我や病気でなくなる人、深刻な後遺症に苦しむ人が増えました。

1943年、アメリカでプロミンという特効薬が開発され治癒するようになり、少数ですが隔離政策をとっていた他の国は隔離を廃止しましたが、日本では国立療養所など限られた場所でしか使用が許されず隔離政策が続きました。病原性が弱く、戦後、栄養や衛生面など環境がよくなり新規感染者は非常に少なくなりましたが、民主憲法下で1953年に改定された「らい予防法」では強制隔離は一層強化されました。各地の療養所で入所者の皆さんのハンガーストライキなど激しい人権闘争が起きました。しかし、社会から闘争を支援する声は上がらず、差別と人権抑圧を認める法律がまかり通り、世間も“無らい県運動”という名の患者狩り、通報に協力しました。家族に発症者が出ると周囲の視線をおそれて見つからないように隠したり、親戚にも知られないようにしたり、そして、絶望の果ての自殺や一家心中が起きました。この「らい予防法」がようやく廃止されたのは1996年のことでした。間違った政策が取られていなければ、早期に発見され通院による治療が受けられていれば、普通に生活が続けられて治癒し、後遺症に苦しむこともなかった。夢や希望をもち、やりたいことが叶えられたはずの人々がどれほどいらしたことか。

遺骨の引き取りを拒まれ故郷に帰ることができず療養所の納骨堂に今も眠る数多の遺骨は、死後も受け続ける差別に安らかに眠ることができているのでしょうか。

1916年に改定された「癩予防ニ関スル件」で、療養所長に懲戒検束権が認められるようになりました。療養所内には狭く暗くトイレ以外何もない監禁室がありました。そこに監禁され罰を与えられる罪とは一体どんな罪だったのでしょうか。多かったのは“脱走”だそうです。親が子どもに会いたい、子どもが家族に会いたい、その一心で“無断外出”してしまうことが厳しい罰を与えられる罪だとしたら・・・。

感染の危険を避けるためと称し、裁判所ではなく療養所での出張裁判が認められ、きちんとした調査も審理もないまま冤罪で1962年に死刑が執行された菊池事件は今も再審開始を求める活動が続けられています。

ハンセン病患者への差別や偏見は多くの国にあります。長年関わってきたネパールでも根強くあります。しかし、日本の徹底した“絶滅政策”である終生隔離政策は世界でも類を見ず、2001年に熊本地裁で憲法違反と断罪されましたが、人々の奥深くの意識にまで根付いてしまった偏見と差別は未だ消えません。2016年に提訴された家族訴訟も2019年に勝訴こそしましたが、500人以上の原告の方の中で氏名を公表された方はごくごく僅かです。

元患者家族の癒えない傷はいつまで
ご家族の方々の多くは秘密を抱え、その苦しみを誰かと分かち合うこともできず今でも苦しみつづけておられます。氏名を公表し、表に出て活動されている方はどれほど勇気を振り絞ってそうされているのでしょう。

土木技術者として辺野古新基地建設に反対する奥間政則さん(55歳)のご両親は鹿児島県の国立ハンセン病療養所・奄美和光園で出会い、結婚され、ふたりの子をもうけました。子どもを産むことを禁じられた療養所の中で和光園はそれを許されたごく稀な療養所でした。政則さんが小学校に上がる頃、ご両親は子どもたちを連れて沖縄に戻りました。出身地域を避けて住んでも、ハンセン病が回復しても常に差別と偏見がついて回ります。奥間さんのお父さんも仕事先で元ハンセン病患者と分かると嫌がらせを受け仕事を失うことが度重なり、お酒を飲んで家族に暴力を振るうようになったそうです。そういう父親を許せず反発したと政則さんは言われます。ご両親は病気について何も語ろうとされませんでした。2013年頃、お父さんは戦中の苦しかった体験、戦後のハンセン病発症、受けた差別などを手記にされ、その清書を奥間さんに頼みました。その後、ハンセン病について詳しく知るために通った愛楽園で入所者証言集を読み、手記にも書かれていなかった事実を知ったのは、お父さんが亡くなる1年前の2015年でした。その時の衝撃はとても大きかったと言われます。父の苦しみ、お酒や暴力に逃れるしかなかったやり場のない怒り。しかし、理解はできても和解はできず、親子の溝は埋められないままでした。

奥間さんはお父さんの話をされる時「とーちゃん、とーちゃん」と懐かしそうに言われます。父親への理解が深まるごとに生きて結び合えなかった父子の絆を少しずつ取り戻してほしいと願わずにはいられません。

しかし、発症した本人だけでなく家族も苦しめ続け、人権や尊厳を奪った『国策』はハンセン病だけではありません。奥間さんは沖縄に過重な基地負担を押し付け県民の願いを圧し潰そうとする『国策』とも闘っています。

私自身の差別意識を見詰めて
ハンセン病に罹患した方達とご家族が受けた非道な差別と尊厳への冒涜は知れば知るほど激しく残酷で、筆舌に尽くしがたいとはこのことと思います。どんな言葉も軽く感じられ表現できません。なぜこれほどの人権侵害が公然と長きにわたって行われているのでしょうか。犯人捜しをして一部の人を暴き責めても本当の解決にはなりません。誰でもが抱える差別意識、無意識であっても誰かに向けてしまうその感情、自分の心の内をきちんと見詰めなければ同じことが繰り返されます。そして、次の標的が自分や自分の大切な人々である可能性も当然あります。心に棲む魔物を封じ込めるには、差別の結果何が起きたかをきちんと知ることが大事だと思います。家族訴訟原告団長・林力さんの言葉「無知こそ差別の始まり」を肝に銘じたいと思います。


奥間政則さんが技術者として建設に加わった古宇利大橋(写真右端)の前で。


奥間政則さんと愛楽園交流会館展示室で。


愛楽園の正門前で。右が土屋春代。

追悼
愛楽園自治会長の金城雅春さんが2021年3月8日、67歳で永眠されました。金城雅春さんは高校生の時に発症しました。1980年に愛楽園に入所され、長年自治会長を務め、2001年に判決の出た国賠訴訟では愛楽園を中心に沖縄原告団を結成し団長として不正義と果敢に闘われ、憲法に反すると認めさせ勝訴しました。長い間、本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします。

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