ネパリ・バザーロと仲間たち、奥能登・輪島へ tsuna39 2026s
奥能登から
文・土屋春代(ネパリ・バザーロ創立)
2024年1月1日に起きた能登半島地震の支援で4月から能登半島最奥部の珠洲市と輪島市に通い1年半が経った2025年10月に3連休を利用してスタッフや家族、岩手、愛知、関東から集まったボランティア総勢14名で輪島に行きました。
2024年はいつ行っても突きつけられた目を覆いたくなる光景、数多の潰れた家々、道を塞ぐ倒壊家屋の屋根、曲がった電柱などはさすがにかなり片付けられていましたが、液状化で起伏の激しい道路や隆起した海岸など残された災害の爪跡に記憶は一挙に引き戻されました。
東日本大震災支援の時は炊き出し、日用品や食料品のお届けから始まり、慰安のための温泉招待ツアー、生活再建の仕事づくりというように時間の経過で変わる状況に合わせて対応をしてきました。しかし、奥能登は生業支援を優先し販売することから入ったため、ゆっくりと交流する機会がなく、一緒に食事をしたり話し合ったりしたいと常々思っていました。輪島市門前の「いしり」の生産者、(株)タマタニさんを訪問した6月に交流会をしたいという話で盛り上がり10月の連休に実施しましょうとその場で決まりました。宿泊施設が少ないので部屋を先ず確保するためホテルに戻ると直ぐ予約をしました。どうにか取れた7部屋は輪島市では貴重です。泊まれる人数が少なく交通手段も限られ呼びかけが広くできず残念でした。
10月の3連休は観光シーズンにもかかわらず市内は人影も車も少なく、やりきれない気持ちになりました。もっと現地に来てほしい、交流し励ましてほしい。ところが応援に行きたくても行けません。これではどんどん人がいなくなり、復興も進まなくなると案じられます。輪島で心通う友人となった人の「地域で支え合って生きていくから、見守っていてね」という言葉が胸に刺さりました。
沖縄の伊江島で一緒に活動する仲間で作家で編集者の堀切リエさんが詳細なツアー記録を残し、さらに、生産者の皆さんや地元のボランティアさんも含め30名以上が集い楽しかった交流会、被災された方達の想い、参加して感じたことなどを抜粋してツアー報告にまとめてくださいました。
ネパリ・バザーロと仲間たち、奥能登・輪島へ
文・堀切リエ
1959年生、千葉県市川市在住。作家・編集者。子どもの未来社編集長、群読グループ「すいれん」所属。著書に『伝記を読もう 阿波根昌鴻』『同 田中正造』(あかね書房)、絵本『あっぱれ!どぐうちゃん』(ポプラ社)、『絵で見る日本の図書館の歴史』(子どもの未来社)、脚本に「花咲かそ!天神沼』(劇団風の子)など。
白藤酒造さんのお庭に花を植える
2025年10月11日朝、羽田空港から飛び立ち1時間弱で能登里山空港に到着。着陸前、「地震のために滑走路に起伏があるが安全上の問題はない」というアナウンスに少し緊張する。
空港から白藤酒造へ向かう途中、車窓からまず目についたのは、天辺のとんがった丸い白色のテントだ。名古屋工業大学の北川啓介教授が開発・実用化した「インスタントハウス」で、海外の被災地にも提供され、ここ輪島でも避難所や宿泊所として利用された。道路の側溝やブロックは所々くずれ、傾いた電信柱や閉鎖されたままの橋もあるが、崩れた家の撤去は少し前に大方済んだそうだ。
白藤酒造で待っていた白藤妙子さん(9代目蔵元白藤喜一さんの母)と花の苗を仕入れに…。どの花を植えるか、妙子さんと相談しながら選んでいく。2024年1月1日の能登半島地震後、4月に珠洲市の「湯宿さか本」を訪れたネパリ・バザーロは、そこで白藤酒造のお酒に出合い縁をつないできた。対話と支援を続け、今回は妙子さんの希望で花を植えることになったという。昼食を取りながら、妙子さんのお話を伺う。
「一度目に揺れた後、次にまた大きく揺れたけれど、家族全員が命拾いしてよかった。夕方、ガスボンベの爆発するような音が『ばーん、ばーん』と聞こえたかと思うと、向こうの空が真っ赤に染まった。酒蔵には仕込み途中のもろみがあってね。4日の夕方、息子の大学の先輩鈴木大介さん(鈴木酒造店)が山形から来て蔵の状態を見て、次はもろみを運べるタンクローリーで来てもろみを助けだしてくれたの。なんとかお酒を仕込めるようになるまでに1年、今年の3月から今までの三分の一くらい出せるようにはなったね」。
当時の様子を語っていた妙子さんが、ふと、東北はどうなっているのかなと口にすると、陸前高田の復興に携わっているツアーメンバーの小出浩平さんが、「震災前からの過疎化と高齢化がさらに進んでしまいましたが、私たちは2019年に新しい市民エネルギーの会社を立ち上げて、娘はそこで働いています。魅力的な仕事があれば若い人たちがやって来ますよね」と答えた。「輪島にも若い人がわくわくできる仕事があるといいね」とうなずく妙子さん。
それから皆で庭仕事。花壇とプランターに花の苗を植えていく。「育ってきたら道側に並べて、通学する小学生たちに見せてやろうね」。妙子さんの言葉に子どもたちが花を見ている様子が浮かび、何気ない日常をとり戻すことも復興の大事な側面なのだと思い当たる。ネパリ・バザーロの面々は慣れた手つきで雑草取りをしていた。
左から2人目が堀切リエさん、5人目が白藤妙子さん。


地元食材と各国料理に集う交流会
翌日は、朝からふれあい健康センターの調理室で料理づくり。「バーニャカウダ」「炊き込みご飯」など、ネパリ・バザーロが取り扱う調味料や材料を生かした料理メニューには、タマタニの魚醤「いしり」も使われている。ネパリの土屋春代さんになぜ交流会を企画したのか伺う。「能登の支援を始めてからずっと皆さんと交流がしたいと思っていたの。地元の皆さんからも交流会をしたいという希望が出てね。メニュー入りの招待状をお送りしたら、とても楽しみにしてくださっているのよ」。メニューは東日本大震災支援の温泉招待活動でおもてなし料理づくりのメニュー&レシピを担当したネパリの魚谷早苗さんが中心になって考えた。そこへ輪島塗の梶原泰庸さんからの差し入れが。箱を開けたら大ぶりの甘エビがたくさん!!
タマタニの一行も到着して自国の料理を作り始めた。フィリピンのクリスさんとレジナさんはパンシットビーコン(春雨の炒め物)と揚げ春巻き。インドネシアのティニさんはソートーアィヤム(鳥肉のスープ)。ベトナムのミィーさん、タンさん、タムさん、ハイさん、フクさんは生春巻き。
11時頃には会場に色とりどりの料理と飲み物が並び、ネパリ・バザーロが交流・支援してきた方々が一堂に集まって会が始まった。タマタニの専務板垣猛さんは、明るくて仲のよい仲間だという外国から来たスタッフを一人ひとり紹介してくれた。各国の料理や隠し味にいしりを使ったパスタなども大好評。お腹いっぱい食べて、話していると、ツアーメンバーの水谷明子さんとフィリピンのお二人はズンバを踊りだした。
酒のたかたの高田和代さんが、「土屋さんが『復興が遅い!』と私たちのために怒ってくれたのがうれしかったです」とにっこり。「でもまだ散歩ができないんです。景色を見るのが悲しくてね」。金沢までは人が来るけれど、輪島は泊る場所が少なくて団体が来られない。「なんとかなっていないところがどうにかならないと、復興したとは言えないと思います」という言葉に、土屋さんは「被災の状況が見えないままの場所があるから、私たちはその地で生きている人とつながることが大事だと思っているんですよ」と応えた。皆で美味しい物を食べて語りあう場の有り難さを改めて噛みしめた時間だった。

漆器を完成させるのはそれぞれ技術をもった職人の分業制
片付けの後、輪島塗会館で塗師屋の梶原泰庸さんにお話を伺った。
「輪島塗の漆器は124ほどの工程を分業制で職人たちが受けもっています」。けれど地震後戻ってこられない職人も多くいるため、その分業制が、つまり漆器作りが危うくなっているという。梶原さんも家と仕事場が全壊して仮設住宅で暮らしている。「輪島塗の漆器は傷がつけば修理ができるし、塗り直しもして孫子の代まで使えるんですよ」。
改めて漆器を見れば、つやっとして色合いも深く、滑らかで手に優しくなじむ。漆が人間の生活に取り入れられ、ずっと生活の中にあったことを想うと、この漆器の技術が続くことを強く祈りたい。ネパリ・バザーロではこの漆器のすばらしさを少しでも多くの人が知って手に取ってもらえるよう、「作る人と使う人の関係づくりのお手伝い」をしている。

丁寧な輪島塗の箸作り
輪島観光の中心地であった朝市は、今は草ぼうぼうの野原だ。港は4~5mほど隆起し、漁を再開できていない。今はワイプラザという商業施設の一角で出張朝市として開かれているが、そこに出店している鮓井商店の鮓井辰也さんを仮工房に訪ねた。朝市通りにあった二階建ての店舗はつぶれ、数キロ離れた自宅と工場もほぼ全壊。仮設工房に移ったが豪雨で裏山が崩れて埋まり、再び仕事道具や材料、製品を失ってここに移ったという。
「70年ほど前、親父が輪島で漆だけで仕上げた箸づくりをスタートしました。漆を塗って板に刺して、漆が垂れてきたのを2時間毎に引っくり返し、1日に100回くらいやっているのを見て、正直、この商売には先がないかなとも思ったのですが、今は親父と同じ手作業で箸を作っています。地震後は支援も含めて箸を買ってもらい、『生かされているなあ』と感じるけど、3年先、5年先は?息子の代になってもこの仕事を続けられるのか、正直しんどいなと思ってた…。そこへネパリさんが訪ねてきて箸を紹介して販売してくれた」。ほら、と指さす先の壁には「つなぐつながる」の記事が貼ってある。「少しでも次につなげられるなら続けようと思えたんです」と鮓井さんは笑顔を見せた。ツアーメンバーの堀川絵美さんは、丁寧に作られた美しい箸を自分の生活に取り入れたいと語った。他のツアーメンバーも同じ気持ちだったと思う。


完全熟成のいしり作りと防災食作り
お昼を食べて海沿いを走り、門前に向かう。タマタニでは板垣猛さんが迎えてくれた。
「地震でだめになった工場の設備を全部交換し終えたのがつい一カ月前で、13~14樽仕込みました。中身は鯖を切って塩もみしたものにさらに塩を加えるだけ。2~3年で完全熟成したら販売します。13年前ここへ来た時、私はいしりの作り方を全く知らなかった。数年間いろんなやり方を試して、昔からの製法に落ち着きました。数値には表れないものがそこにあるとわかったからです」。窓からけっこう先に見える海は隆起をしたためで、地震前はすぐ目の前にあったそうだ。そして今、板垣さんは「防災食」という観点からレトルト製品に取り組み始めている。「地震後、『魚を食べたい』という声があったのに缶詰しかなかった。レトルト商品は万一の時、皆さんの助けにもなると気づいたんです」。今作っているのはシンプルな味付けの物なのでアイデアがあればぜひ教えてほしいと投げかけると、次々質問が飛び出し、いろいろアイデアも出て盛り上がった。板垣さんは大変な地震の体験からも新しい未来を切り拓こうとしている。それを応援するのがネパリ・バザーロなのだと、私の中ですっとつながった。
ツアーメンバーを紹介するにはすでに誌面が尽きているが、皆さんと語りあった時間は楽しく温かく、昔からの知り合いのように打ち解けられた。今回のツアーは本誌の名前「つなぐつながる」の言葉通りのネパリ・バザーロの活動を体験でき、私にとって貴重な体験となった。飛行機の窓から見える滑走路の所々のつぎはぎを、森に沈む太陽が光を放ち照らし出していた。


ツアーに参加して私の感じたこと
文・日下部礼音
車に体を揺らされていました。私は一日だけ能登の輪島に行きました。その道中で見た、屋根の一番上。和風な家の、その雰囲気に合わないブルーシートが目に入りました。最初はその一軒だけだと思いましたが、見渡せば二軒、三軒と、どんどんと増えていきました。
輪島朝市にあった被害に遭われた日吉酒造店さんに着きました。道路に出ないくらいのギリギリに置かれた屋根っぽい物。大変だったんだなと感じました。ここだけでもあまりの光景に驚きましたが更に酒蔵の正面から見た時、私達側の壁は何もなく、酒造タンクが支えになり、2階がかろうじて崩れ落ちず残っていて、下を見たら木が散らかっていました。
ここに来るまでは分かりませんでしたが、2年近くも経っているのにブルーシートがまだあったり酒造さんの崩れた木片がまだそこに存在していて、崩れた民家の屋根も撤去されずに残っていて、まだ2年弱しか経っていないんだ、まだこれから復興していかないといけないんだと思いました。
私は小学生で、機会がなければお手伝いはできませんが、離れた場所からでも、少しでも早く能登が復興するよう祈るばかりです。 
