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人が人らしく生きるために tsuna35 2025s

ストリート、児童労働から看護師への自立の道

文・丑久保完二


写真左からアシャさん、シムランさん。2023年6月、タンセンの看護学校に会いに行った丑久保完二と。

モーニング・スター・チルドレンズホームに引き取られた頃
アシャさんは路上で暮らしていたところネパール軍の軍人に保護されました。6歳くらいだったと思われます。どのくらい路上で暮らしていたのかは分かりません。シムランさんは、親に売られて使用人として働かされていたところ、主に暴力を振るわれ、警察に何度か通報が入り保護されました。7歳くらいだったと思われます。詳細な記録は残っておらず、二人とも覚えていないので確かではありません。国の施設に一時保護され、2008年にモーニング・スター・チルドレンズホーム(MSCC)に引き取られ育てられました。保護された経緯から、親の所在は分からず、身寄りは一切ありませんでした。

1989年に、ビシュヌさんが4人の子どもたちを引き取って始めたホームも60人近い大所帯になっていました。ネパール社会は、10年以上続いた内戦が終結に向かい、反政府勢力マオイストが政権を担う時代へと変化している頃でした。市民のための政治への変革を期待されたマオイストでしたが、実際に政権を担うと、悪政が目立ちました。ホームも例外ではなく、マオイストからの度重なる金銭の要求を断ったビシュヌさんは、ホームの少女にセクハラをしたと汚名を着せられ、2012年にパートナーのムナさんと共に逮捕され牢獄へ。14歳以上の子どもたちは、他の施設へ移されたり、親や親せきの元に帰されたりました。13人の子どもたちが残され、その中に、アシャさん、シムランさんがいました。


2008年9月。前列右端がビシュヌさん、隣がムナさん。前から3列目、右から2人目、水色の服を着ているシムランさんはホームに来たばかり。中央チェックシャツの子の後ろがキラン君。私たちは1991年にビシュヌさんに出会い、NPO法人ベルダレルネーヨを通して生活費の一部として毎年60万ルピーを支援してきました。

ラムチャンドラさんに代表理事を交替
ビシュヌさんの後を継いだのは、ラムチャンドラさんでした。ビシュヌさんの逮捕により近隣からの支援は途絶え、一番大きな支援者であったイギリス人も支援を停止、レギュラーサポートを続行しているのは私たちだけとなりました。経済的にとても大変だったと思いますが、牧師でもあったラムチャンドラさん、とても献身的に子どもたちの面倒をみていました。特にアシャさんは感情の起伏が激しく、ラムチャンドラさんは人一倍気にかけ、いつも心配していました。

2015年4月、ネパールのカトマンズを中心とする大地震が発生しました。老朽化していたホームの建物は危険だったので、子どもたちは一時テント生活。ラムチャンドラさんと、教会を通じて入ってくる被災情報を元に、私たちは避難キャンプへの緊急支援を始めました。ヌワコットキャンプ、ラスワキャンプや、被災した奥地の村々も回りました。トイレ設置、飲み水の供給、井戸設置、衣類支援、仮設住宅支援等、精力的に活動しました。

ホームでは、地震で亀裂が入った男子寮の建て替えを支援しました。その対応も落ちついて来た頃です。SLCといわれる高等学校卒業資格(日本の高校1年生終了と同等)の受験を控える年齢にまで成長した子が数人出てきていました。ホームの決まりでは、この年齢になると、ホームを卒業しなければなりません。ネパールでは、路上で保護されたり、親が育てられない幼い子どもたちが大勢いて、ホームには日々SOSが届くからです。しかし身寄りのいないアシャさん、シムランさんには行き場がなく、私たちの高等教育奨学金支援システムに乗せて支援しようと話し合いを重ねていました。

2020年初めのことです。アシャさん、シムランさんの今後について打合せをして帰国すると、ラムチャンドラさんから一報が入りました。「軽い肺炎を起こしたようだ。これから入院するが1週間したら電話する」それから数日後、酸素吸入機を使用しているとの連絡を最後に帰らぬ人となりました。突然の死を受け入れる間もなく、ラムチャンドラさんのご家族と連絡を取り合いながらの緊急対応をしました。子どもたちの精神的ダメージが心配でしたが、その直後、日本でも新型コロナウィルス感染症が拡大し、ネパールでは厳しいロックダウンが続き、私たちは3年間ネパールに行くことができませんでした。


精神的に不安定なところがあったアシャさんですが、ラムチャンドラさんには心を開いていたようです。MSCCに来て、どれほど安心したことでしょう。


ネパール大地震の直後、体調を崩し入院していたアシャさん。この時の看護師の姿が印象に残り、自分も目指したいと思ったそうです。


広場にテントを張り、一時避難。寝泊まりの大変なテント生活を経験した子どもたち。

高校卒業資格取得から看護学校入学へ
故ラムチャンドラさんの願いを実現するために、そして、アシャさん、シムランさんの自立を考え、看護学校への進学を目指すことにしました。学費が高額なため緊急支援をお願いしたところ、多くの方があたたかなご寄付をお寄せくださいました。本当にありがとうございました。進学先の学校は、偶然のことですが、故岩村昇医師(注)が赴任したタンセン病院付属の看護学校になりました。看護学校長とラムチャンドラさんのご家族が知り合いだったことがこの偶然の繋がりに至りました。入学試験も無事合格。3年間の学校生活がスタートしました。二人からは勉強や実習の様子等度々連絡が入り、頑張っている様子に安堵していました。

ところが、身寄りのない子どもたち故に、経済的な自立を考え、看護学校へ入学させた経緯ですが、ここでも大きな問題が立ちはだかりました。二人には市民権がなかったのです。市民権がないと、看護師の国家試験を受験することさえも叶いません。市民権取得に奔走しますが、案件は放置され進みません。

そうこうしている内に、卒業を迎え、西ネパールのタンセンから首都カトマンズに戻り、看護師の国家試験準備に入りました。2024年1月のことです。3月の受験には市民権がないので、願書が出せず、受験すらできません。次は6月、それもダメ。次の受験願書提出期限は、10月1日。試験は、11月です。これが最後のチャンスでした。

この難題は、ある人の助けにより急展開し、僅か二ヶ月で解決に至りました。長野県軽井沢町にある風越学園が、人権教育の一環として、元ハンセン病回復者で作家の伊波敏男さんをお招きして、中学生合同の講演会を2023年9月に開きました。その翌年、2024年3月に、横浜でも講演をして頂きました。伊波敏男さんは、同年7月に若月賞を受賞され、私たちも、長野県の受賞会場にお手伝いで参加しました。その時、楢戸健次郎さんという医師も、若月賞を受賞されました。楢戸さんは、極西ネパールの遠隔医療に貢献されている方で、故岩村昇医師とも親交のあった方です。会場での出会いから、アシャさん、シムランさんの市民権取得で困っていることを伝え、ネパール政府関係者とも親交のある長年の友をご紹介頂きました。トリブバン大学教育学部の准教授、ヒカマットさんでした。この時から、ホームで長年理事を務めているハンセン病回復者でハンセン病支援を行う組織の代表でもあるディーパックさんと弁護士も交えた協働が始まりました。

市民局との交渉を始めますが、最初は難航します。ヒカマットさんとディーパックさんが、少女売買の斡旋業者でないかと疑われたからです。ネパールでは少女に市民権を取得させ、インドや中東、アフリカに売るケースが社会問題になっています。ヒカマットさんは、市民局OBの友人を通して、自分たちは信頼できるということを伝えてもらいました。その後、話は急展開。必要な書類を保護された当事の警察署に行って調べたり、ホームに来た当初の書類などを揃えて提出。ついに市民権取得の朗報がもたらされたのは、最後の受験チャンスの願書提出締切当日でした。2024年10月1日のことです。その後、試験も高成績で無事に合格。看護師国家資格、そして仕事を得て、自立の道を歩み始めました。故ラムチャンドラさんも、きっと喜ばれていることでしょう。


2024年7月農村保険振興基金第32回若月賞を受賞されたNPO法人どさんこ海外保険協力会代表の楢戸健次郎医師(右)と土屋春代。故岩村昇医師の生涯を描いた「共に生きる」の絵本を手に。


TSHS(前タンセン看護学校)の校長タンジュさん(右)は、楢戸医師の支援で博士号取得。学校の上にタンセン病院があり、故岩村昇医師のことはよくご存知でした。


左からディーパックさん、ヒカマットさん。


卒業式。二人は晴れやかな表情です!

ネパールの社会問題と私たち
市民権がないネパール人は、とても多く存在していて、現在のネパール社会の大きな問題であり、国会でも取り上げられる案件になっています。

最近、キラン君(25)という若者が、ラムチャンドラさんの時まで使っていたホームの建物に寝泊まりしています。8歳の時に路上から保護されましたが、14歳くらいの時にホームを飛び出しました。牛乳を売る等しながら生活してきましたが、厳しい生活に耐えられなくなり、1年程前にホームと連絡を取り現在に至っています。そのキラン君も市民権がありません。市民権は、人としての最低限の権利です。アシャさん、シムランさんの時の経験を元に、キラン君の市民権取得の応援をしようと話し合っています。


市民権取得には、公告義務があり、2024年3月下旬に地元紙に掲載。


2024年12月28日、アシャさんとシムランさんに市民権を取得した感想をお聞きしました。
「この数年、何度も却下されて絶望的でしたが、ヒカマットさんとディーパックさんが警察署にも行って書類を集めてくれて希望を感じられるようになりました。裁判所にも2回行き、ついに市民権を取得した時は、人生で一番大きな贈り物をもらった気持ちでした。支えて下さった皆さん、本当にありがとうございます。一生忘れません。これからは自分の足で立って生きていくことができます」。いつも冷静なシムランさんの感極まった喜びの声を聞き、市民権を拒絶されるということが、どれほど尊厳を傷つけられることだったのかということに気付かされました。アシャさんは「天国に来られたと思いました。それまで何度書類を出しても拒否されてばかり。希望が感じられず辛かった」と。銀行口座を開設したと嬉しそうに教えてくれました(市民権がないと開設できません)。ヒカマットさんが「これで二人は人として生きていける」と力強く言われていました。二人のこれまでの人生を思い、涙が出ました。
12月28日はシムランさんの21歳の誕生日でした。アシャさんの誕生日は1月25日。生まれた日は分からないので、MSCCに来た日を誕生日にしています。皆でお祝いをしました!皆さまの多大なご支援に心から感謝申し上げます!これからも見守って頂けますように。
高橋百合香


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子どもたちの将来のため、ホームでは教育内容が充実している私立の学校に通わせていました。ホームでは毎日勉強の時間もありました。ノートを嬉しそうに見せてくれるアシャさん(右)。左写真は、看護学校の先生とアシャさん。2024年12月に病院に就職しました。ステップアップを目指し、勉強を続けています。


シムランさんの手術研修の様子。2024年12月から病院で働き始めました。手術室のアシスタントを任されています。「学校で学ぶのと仕事は全然違う。責任は全て自分にあります」とシムランさん。

(注)岩村昇医師(1927~2005)
日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)よりネパールに派遣され、タンセン病院に赴任。無医村にも精力的に巡回し、18年にわたり結核やハンセン病医療などに取り組む。土屋春代が中学生の時に岩村昇医師からネパールの子どもたちの話を聞いたことがネパリ・バザーロの原点。岩村夫妻が関られた里子の日本国籍取得を協力させて頂いた。


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