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ハンセン病問題を問い続ける tsuna37 2025a

ハンセン病問題を問い続ける

~親や自身のハンセン病を背負い生きた子らは~

文・土屋春代(ネパリ・バザーロ創立)

ハンセン病問題を知れば知るほど長い期間に積み重ねられた偏見と差別の根深さや深刻さに暗然とします。全国13箇所のハンセン病国立療養所の入所者数は1955年の約11000人をピークに減り続け、2025年5月1日現在639名、平均年齢は88.8歳(厚生労働省調査)です。「らい予防法」廃止まで89年間の長きにわたり隔離政策をとってきた国の根絶計画は目論みのとおりになってしまいます。それでハンセン病に対する偏見や差別が社会からなくなるのでしょうか。根絶すべきは偏見と差別であって人ではないはずです。
アジア太平洋戦争の敗戦後の焼け野原から立ち直り目覚ましい経済成長を遂げた日本。衛生環境や栄養状態がよくなるとハンセン病発症者は激減しました。しかし、元々感染力が弱かった病が治療薬の発見により治癒できるようになっても終生隔離政策は続きました。隔離の根拠となった「らい予防法」が1996年にようやく廃止になって隔離から解かれても、長い年月、社会と隔絶して生きてきた人々の中で社会復帰できた人はわずかです。結果的に終生を療養所で暮らすことを余儀なくされました。
あらゆる人権侵害が行われ人としての尊厳が極限まで踏みにじられてきたハンセン病回復者の方達と療養所の外の一般社会で暮らし、根強い偏見と厳しい差別の矢を真っ向から浴びなければならなかった家族の方達は今も苦しみ続けています。この事実から目を背けては私たちの社会から恐ろしい差別はなくなりません。いつか私が、いつかあなたがその矢面に立たされます。私たちはこれからも学び続け、伝え続けていこうと思います。
子ども時代に感染した子、親の収容にともなって療養所に連れてこられた子、今回は子ども達のことからハンセン病差別とはどのようなものだったかを考えてみました。

子どもが受けた過酷な差別


黒髪校入学に反対するデモの様子(映画・あつい壁より)

黒髪校事件
親の療養所への入所にともない連れられてきた健康な子どもは親から離されて別の施設で育てられました。
熊本県にあるハンセン病国立療養所菊池恵楓園では園からかなり離れた竜田寮という保育所で育てられました。そこで子ども達に授業はしていましたが学区内の一般の学校に通わせたいと長年、教育委員会等関係方面に働きかけ、ようやく1954年4月に新一年生となる子たち4人の黒髪小学校入学が決まりました。ところがPTAのほとんどが強く反対、入学拒否運動を展開し、入学式の日に竜田寮から付添人に手を引かれてきた子ども達を待ち受けていたのは拒絶する文言の貼り紙と校内に入れまいとするPTAや地域の反対派の人々でした。竜田寮と同じ条件の他の療養所では問題なく地域の学校に通い、一般の子ども達とともに学んでいること、九州大学医学部に竜田寮児童の通学について医学的見解を求め、感染の危険は考えられず、通学に問題なしとされたといくら説明しても断固阻止しようとする反対派は在校生を1ヶ月休学させ、別の場所で自習させるなどし、座り込みや市内デモも繰り広げました。賛成派反対派による激しい応酬による混乱が何とか収まるには1年近く掛かりました。様々な立場の市民を巻き込む地域の大騒動に発展した渦中で竜田寮の子ども達はどれほど不安で傷ついたでしょう。「日本国憲法」で守られるはずの基本的人権はもちろん、悪名高い「らい予防法」ですら、第一章第三条で「何人も、患者又は患者と親族関係にある者に対して、そのゆえをもつて不当な差別的取扱をしてはならない」としています。守られるべき子らの権利と尊厳がこれほどまでに踏みにじられたのは前年に隔離をさらに強めるよう改悪された「らい予防法」の影響があると思います。ハンセン病とは強い感染力をもち強制的に終生隔離しなければならない恐ろしい業病であるという偏見をすり込み、住民の恐怖をあおったことから起きた事件だと思えるのです。

〈映画「あつい壁」〉
黒髪校事件を題材にした映画「あつい壁」が1970年公開されました。この映画を企画製作した中山節夫監督は菊池恵楓園の近くで生まれ育ち、黒髪校事件の起きた時は高校生でした。物心つく頃から身近に暮らしていた中山さんはハンセン病がほとんど感染の心配がないこと、治療により治癒しても外見に残る後遺症により誤解から不当な差別を受けていることを知っていました。現・多摩美術大学映画科を卒業し映画会社に入ったものの、本当につくりたい映画がつくれないと独立し、最初につくった映画が「あつい壁」でした。子ども達が受けた凄まじい差別、その背後にある今も続く根強い偏見を社会問題として訴えようと自主作品として製作、フィルムと映写機材をもち6年をかけて全国をまわり上映会をし訴えたと言われます。


写真中央が中山監督。右が土屋。

県立邑久高校 新良田教室
全国の療養所には中学校までしかありませんでした。1953年の「らい予防法」〝改正〟時の基本的人権の尊重を求めた患者達の命懸けの闘争により岡山県の長島愛生園の敷地内に1955年「県立邑久高校新良田教室」が開設されました。ハンセン病患者のための高校が開校するという知らせは義務教育を終え、学ぶ機会をなくした全国の入所者に社会復帰への期待をもたらし、第1期生の募集は定員30名のところに56名の応募がありました。初めての高校開設で多くの受験生があると噂があり、自分は到底無理だろうと受験を諦める人も多く、受験生の年齢も15歳から30歳までの幅広い年齢層でした。
治療と勉学の両立のため定時制普通科高校とし、また全国から集まり学力差があることを考慮し一般高校のクラス人数より少ない1学年30名定員で4年制としました。ほぼ全員の生徒が朝食後治療棟に投薬に行き、放課後、医局で治療を受ける生徒もいました。一般教室1棟、理科・社会・家庭科棟1棟、管理棟(教員室・保健室・図書室)1棟、男子寄宿舎3棟、女子寄宿舎1棟から成っていました。ハンセン病に苦しむ若者の教育機関としての役割を果たし、患者数減少のため1987年に29期生の卒業をもって閉校。307人の卒業生を送り出し32年の歴史に幕を下ろしました。


新良田教室・寄宿舎全景(昭和33年5月)当時としては珍しいカラー写真(閉校記念誌より)


到着後すぐに入らされる消毒風呂。

〈第8期生 伊波敏男さん〉
作家で人権活動家の伊波敏男さん(82歳)はハンセン病患者が学べる全国唯一の高校ができたことを知り入学を目指しました。終生隔離の決まりを破り沖縄愛楽園を脱走し入学まで鹿児島県の星塚敬愛園に入所しました。1961年、試験に合格し長島愛生園に向かう列車に乗るため他の合格者8人と鹿屋駅で出発を待っていた時、2人の見知らぬ紳士が伊波さんを探して現れ、大切な国際文書ですから読んでくださいと封筒を手渡しました。
入っていたのは2つの国際会議の翻訳文書。1953年のキリスト教救癩会議と1956年のローマ会議「らい患者の救済並びに社会復帰に関わる国際会議」でした。伊波さんは読んで驚きました。外国では、すでに、らい政策が変わり始めていたからです。らい患者隔離政策が見直され、外来治療が開始されていたのです。さらに、驚かされたのは、ローマ会議決議文書の内容でした。「らい病は治る病気であり、差別的法律を廃止し、偏見除去のために、啓もう活動を強化しなければならない、隔離収容政策を是正し、一般病院での治療と在宅治療を推進し、社会復帰の推進を図るべきである」と、記されていたからです。しかも8年も5年も前の国際文書なのです。プロミンという特効薬が発見されどんどん治療が進み社会に出て普通に生活ができるように変わっていたのです。日本でもプロミンが戦後入っていました。それなのにこの差はなんとしたことか。伊波さんは怒り、闘うことを決意しました。
伊波さんたちを乗せた列車は貨物輸送車で鍵が掛けられ貨車の窓には外から貼り紙がされ、「伝染病患者輸送中につき立ち入りを禁ず!」と書かれていました。この頃、各地で患者を療養所へと〝輸送する〟患者専用の列車を陰で〝お召し列車〟と言っていました。
愛生園は瀬戸内の離島にあり、船は患者専用桟橋に到着します。職員には別の専用桟橋が離れたところにあり、園内は患者ゾーンと職員ゾーンに全て分かれています。そして桟橋近くの建物に直ぐに入れられるとクレゾール液を満たした消毒風呂に肩までつからされ、服も持ち物も全て消毒されました。新良田教室でも生徒と教員の間は厳格に分けられ、生徒の答案用紙や費用の支払いに使用した紙幣も消毒されたのです。生徒が教員室へ入ることは原則禁止されていました。どうしても用事がある場合は、先生ごとに異なる信号をベルで押して伝え、教員室の外で話します。このような区別(差別)に頓着せず生徒と相撲をとったり一緒にスポーツで汗を流す教師も中にはいましたが、思春期の若者にとってどれほど屈辱的な体験だったかと思うと胸が痛みます。
1955年の開校当初からあった「ベル制」は、伊波さんの卒業後、後輩達が抗議をし教員達と話し合いを重ね、ついに73年、ベルは撤去され生徒の教員室への出入りも自由になりました。

*1998年にハンセン病回復者達が訴えた「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」は2001年全面勝訴。判決で「遅くとも昭和三五年以降においては、もはやハンセン病は、隔離政策を用いなければならないほどの特別な疾患ではなくなっており」と断罪されました。(昭和35年=1960年)


伊波敏男さん。


愛楽園を脱走し、父とヤマトに向かう船上で。当時16歳。(伊波敏男さんご提供)


昭和30年、一期生の授業。男子27名、女子3名。(閉校記念誌より)


茶箱を利用した消毒箱。答案用紙、教科書、参考書等を教員室に持ち込むため消毒。(閉校記念誌より)


生徒は教員室に入室禁止。先生を呼び出す時に鳴らすベル。生徒は「ベル制」とよび、差別と捉え撤去運動を起こした。(閉校記念誌より)

〈新良田教室で教員として生徒たちと共に歩んだ横田廣太郎さん〉
新良田教室で数学を担当していた横田廣太郎さん(83歳)は大学4年になって間もない時、数学を教える人がいないから来て欲しいと声を掛けられ非常勤として行った学校が新良田教室でした。通ううち、卒業後もここで教えたいと決心し閉校まで生徒たちと共に歩み、閉校記念誌の編纂にもあたられました。最初、勤務校がどこか分からずに連れて行かれ、長島愛生園の中にある邑久高等学校の分校だと知って驚かれたそうです。それは横田さんの祖父は長島愛生園の開園当時に水道を本州側から引いてくる技師で、伯父は園内で働く放射線技師。子どもの頃、園内に住む従兄弟達と遊ぶためによく行ったなつかしい場所でした。そして「病気は絶対にうつらない。心配は要らない」と教えられてきました。
しかし新良田教室は旧厚生省が設置した特殊な学校であらゆる行事は長島愛生園の園長の許可が必要で、島外に自由に出ることもできませんでした。教員の中には勉強だけを教えればいいという立場の人もいて、多くは異動で数年で去る中、横田さんは積極的に生徒と関わろうとしました。ベル制廃止のように少しでも壁をなくしたいと考え、結局、新良田教室が閉校になる87年まで、非常勤時代を含めて約24年の間教師を続けました。
新良田教室の卒業生は307人で、280人が社会復帰をしています。しかし、社会進出を果たしながらも病歴を隠し、新良田教室の卒業と知られたくない人もいます。卒業式で渡された卒業証書を破り捨てたという話も聞きます。卒業生たちが医師、看護師、教師、公務員、作家や実業家、全国の療養所の自治会役員など多方面にわたり活躍しているのを知るとすごく嬉しいと言われる横田さん。この学校の果たした役割はとても大きく、新良田教室で学んだことを胸を張って堂々と言える、誇れる社会になってほしいと、横田さんは願われるのでした。

*2001年勝利した国賠訴訟の原告団の中で闘争を主導した人々に新良田教室卒業生が何人もいました。


閉校時に同窓生たちの寄付で建立された記念碑。碑の後面の文章は同窓生が考え、横田さんが揮毫された。

最後に

ハンセン病差別と教育
ハンセン病回復者と家族への偏見や差別が未だに続いているという深刻な状況が2023年12月の厚生労働省の初めての全国的な意識調査で明らかになりました。ハンセン病について「知っている」38%、「名前は聞いたことがある」52.2%を合わせると、約9割が認知していて、元患者や家族に対する偏見や差別が「現在、世の中にあると思う」39.6%、自身が偏見や差別の意識を「持っていると思う」が35.4%です。元患者や家族と関わることについて、ハンセン病に関して小中高校などで学んだ経験がある人の方が抵抗感を示す割合が高く、「ハンセン病患者の療養所への強制的な隔離は、治療法が確立された後であっても、やむを得ない措置だった」といった誤った言説について、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と支持する割合が学習経験のある人の方が高かったという結果も出ました。ハンセン病に関しての学び方、どう伝えるかがとても重要だと思います。
小学校教諭だった佐久間健さんは著書『ハンセン病と教育 負の歴史を人権教育にどういかすか』のはじめにで、「ハンセン病の歴史のなかで教師と教育界は大きな負の役割を果たしてきた。学校はハンセン病の発見と強制収容のシステムと化し、教師は教え子を療養所へと送り込んだ。ハンセン病隔離政策に加担していった教師と教育界の歴史的な過ちを検証・総括し、過去の事実を現在の教育につなげたい」と書かれています。

無らい県運動
強制隔離を絶対のものにし戦後の民主憲法下も引き継がれてきた根拠となった3つの法律。それは無らい県運動という官民あげての情け容赦のない患者狩りを後押ししました。
1907年、近代化を急ぎ欧米に追いつこうとしていた国はハンセン病を文明国の恥〝国辱病〟として根絶しようとしました。一般社会から隔離して施設に入れようと最初の法律「癩予防ニ関スル件」を制定し全国5ヶ所に療養所をつくりました。
戦争体制に突き進む1931年、「癩予防法」と改正し、徹底した隔離を進め、生涯を療養所で過ごすよう全国に国立療養所を配置し、全ての患者を入所させる体制が作られました。療養所長には懲戒検束権が与えられ牢獄のような監禁室まで作り支配下におきました。一方、市民の恐怖をあおり患者を見つけたら報告し収容に協力するように仕向けました。各県は競って患者を見つけ、患者ひとりにつきいくらという報奨金を出すところまでありました。無らい県運動と言われるもので、戦前は警察や市民の密告が多く、戦後復活した無らい県運動は保健所や学校などが発見の中心を担いました。いかに恐ろしい病かを見せつけるように患者を収容する時は保健所職員が白い防護服に身を包み、白い粉末を家の内外に噴霧し消毒を徹底しました。まるで犯罪者のように患者が連れて行かれた後、いたたまれず引っ越す家族もいるほどでした。
1953年、戦後の民主憲法下の「らい予防法」でも強制隔離は更に強められました。明治以来、患者たちを〝療養所〟とは名ばかりの施設に終生隔離し、治療らしい治療もせず、患者に労働を強いて病を悪化させ、不満を抑えるため結婚は認めつつ、男性は断種、女性は不妊手術や堕胎で子どもはつくらせませんでした。私たちの社会はそのような重大な人権侵害を2001年まで許してきました。そして、最近起きたパンデミック、コロナ禍でも明らかになったように、集団を守るために個人の人権を犠牲にする風潮は変わっていません。ハンセン病差別の根本問題はまだ解決せず、このままでは繰り返されることは明らかです。全国に13箇所ある国立療養所にはそれぞれの館に歴史資料、使用された生活用具などが展示されています。東京都東村山市には国立ハンセン病資料館があり、豊富な資料や写真で分かりやすくハンセン病問題について解説しています。ぜひ、一度足を運んでください。

参考図書&映像
・『新良田』 閉校記念誌 昭和62年3月 岡山県立邑久高等学校新良田教室閉校記念事業実行委員会
・映画 『あつい壁』 1970年製作、
『新・あつい壁』 2007年製作 監督・中山節夫
・『ハンセン病と教育 負の歴史を人権教育にどういかすか』
佐久間建 人間と歴史社
・『花に逢わん』  伊波敏男(新良田教室第8期生) 人文書館
・『ハンセン病療養所』 冬敏之(新良田教室第1期生) 本の泉社

ハンセン病とネパリ・バザーロ称の名称
ネパールに最初に行った1991年12月、大きな寺院に囲まれたバザールにゴザを広げ、仏像や仏具などを販売している人にハンセン病の後遺症があるのを見て驚きました。片言の日本語で話しかけてくれるその人は自然体でした。他の店で別の人も見かけました。最貧国と言われるネパールで日本では一般社会から隔離されている人々も普通に暮らしていることに刺激を受けました。1992年8月、人の尊厳が守られ、その人らしく生きられる社会、誰も排除されない社会の実現をめざし起業した時、バザールでの光景を原点にしたいと会社名をネパリ・バザーロ(ネパールの市場)と決めました。


カトマンズ郊外にある、元ハンセン病の方々が暮らす集落。定期的に訪ね、ささやかな支援と交流を続けています。