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ハンセン病問題を問い続ける tsuna33 2024a

~変わらない差別構造~

文・土屋春代

屋我地島にある沖縄愛楽園(奥間政則さん撮影©沖縄ドローンプロジェクト)

屋我地島とハンセン病
沖縄島北部、やんばると言われる地域の小さな島、屋我地島。その沖の海水を汲み上げ薪釜で炊き上げた美しいサーモンピンク色の「屋我地島の塩」がよく売れています。

この塩を見つけた時、〝屋我地〟という地名で連想された病があったこと、差別され隔離され人生を奪われた人々がいたこと、それらの問題が未だ終わっていないということを伝え続ける助けになるのではないかと思いシーソルトチョコレートを開発しました。

屋我地島にある沖縄愛楽園は全国に13ヶ所あるハンセン病国立療養所の一つです。患者は特効薬が開発され病が治癒しても施設から出ることはできず、隔離を定めた「らい予防法」が1996年にようやく廃止されても一般社会で当たり前に暮らすことができませんでした。ほとんどの方が死後も帰れず療養所内の納骨堂に安置されています。家族であることを長年隠し続けて暮らさざるを得なかった方たちの苦しみは今も続いています。ハンセン病は完治できてもハンセン病問題は終わりません。それは病にかかった人たちの問題ではなく、私たちの問題だからです。私たちが問題の本質を知り、差別のない社会を築かなければ終わらない問題です。

ハンセン病とネパリ・バザーロの名称
業病とおそれられるハンセン病に罹患した人々が一般社会から遠ざけられ隔離されていることを知ったのは14歳の頃でした。治癒した後も隔離され続けるのはおかしいと思い、ずっと気になっていました。ネパールに最初に行った1991年12月、大きな寺院に囲まれたバザールにゴザを広げ、仏像や仏具などを販売している人にハンセン病の後遺症があるのを見て驚きました。片言の日本語で話しかけてくれるその人は自然体でした。他の店に買い物に入った時に別の人も見かけました。日本では一般社会から隔離されている人も金持ちも貧しい人も混ざって生活している、最貧国と言われるがここは多様性に富む素晴らしい社会だと興奮しました。もちろん、ネパールと深く関わるようになって、恐ろしい差別構造を知りユートピアではないと目覚めましたが。多様性に富み輝いて見えたバザールでの光景を原点にしたいと会社名をネパリ・バザーロ(ネパールの市場)と決め、1992年から走り出しました。

沖縄カカオプロジェクトと沖縄愛楽園
断片的な知識でただ批判だけしている自分に、違う、全く分かっていないという自覚がありました。もっと知りたい、ハンセン病回復者の方やご家族と直接触れ合う機会がほしいと思っていました。ハンセン病回復者である友人と共通の趣味のクラシック音楽のコンサートに行ったという知人の話をうらやましく聞いていました。

そうしているうちに負の部分を沖縄に押しつけることによって、「平和憲法」に守られてきた日本が大きな転換期に入り、戦争ができる国になってしまいました。戦争をくい止めるために、沖縄の歴史と沖縄戦の真実、軍事要塞化されている現状を伝えなければならない。その手段のひとつとして沖縄カカオプロジェクトを開始しました。支援者のカカオフレンズの方達を案内する沖縄ツアーの訪問先に沖縄愛楽園を入れたのは私自身がもっと知りたい、出会いたい、伝えたいということはもちろんですが、沖縄戦の影響を強く受けている愛楽園の事情は沖縄の歴史や現状を知る上で欠かせない訪問先だと思ったのです(*)。

今回はハンセン病回復者で作家、平和活動家の伊波敏男さんと、ハンセン病回復者の両親の元に生まれ、家族として苦しんだ奥間政則さんを通してハンセン病問題を考えたいと思います。

*沖縄県宮古島市にもう一つのハンセン病国立療養所宮古南静園があります。太平洋戦争下の度重なる空襲により壊滅的な被害を受け、愛楽園同様、沖縄戦の影響を強く受けています。

伊波敏男さん

伊波敏男さんを知って
愛楽園の資料館に置かれていた『ハンセン病を生きて きみたちに伝えたいこと』(岩波ジュニア新書)という本を手に取ったのが、著者の伊波敏男さん(81歳)を知るきっかけでした。伊波さんの青少年に伝えたいという強い想いで書かれた本が、これまでもやもやとして整理がつかなかった私の頭の中をすっきりさせてくれました。次々に伊波さんの著書を読み、お会いしたいと熱望しました。

軽井沢の学校の中学生に授業をお願いして
長野県上田市に住み信州沖縄塾を主宰しておられると知り参加したかったのですが、伊波さんは沖縄に帰られてしまい、その後のコロナ禍でお会いすることができなくなってしまいました。

コロナが5類扱いになり、徐々に通常に戻り始めた頃、関わりのある軽井沢の風越学園の中学生に授業をして欲しいと思い切ってお願いしたところ、快く引き受けていただき、2023年9月、特別授業が行われました。伊波さんの授業を提案した時、「うちの子どもたちはゲストのお話をじっと座って聴くかどうか、寝転がったり、動き回ったりするかもしれません」と、最初は心配されていた教師の甲斐さんが、伊波さんやハンセン病問題について生徒達に説明をすると「それは聞かなければならない話だ」という発言もあり、事前学習にも熱心に取り組み、伊波さんの授業を楽しみに待っていたそうです。そして当日、伊波さんが中学生の時に経験されたこともいくつかの具体的なエピソードを交えて語られ、合間合間にグループで意見交換をし、子どもたちはとても真剣に聴き質問も活発でした。伊波さんが帰られる時、授業中だったにもかかわらず生徒たちは皆教室から玄関に出てきて、走り出した車の後を追いながら手を振り、大きな声で「ありがとうございます!」と叫びながら、見えなくなるまで見送っていました。伊波さんから直接聴くお話は強烈なインパクトがあり、人々を惹きつけ、ハンセン病問題への関心を高めると確信し、横浜で講演をしていただけないかとお願いしました。

伊波さんの講演会を横浜で開催して
3月16日に講演会を開催することが決まりました。断られる覚悟でしたが、即答で受けていただき嬉しくて張り切って帰宅しました。そこに伊波さんから届いたメールは「僕はこれまで600回近く講演してきましたが、年齢的にも体力的にも横浜の講演が人生最後の講演になると思います。だから、全てを出し尽くし、これまでに実現できなかった講演スタイルでやりたいと思います。協力してください」。人生最後?どうしよう、あまりに責任重大、期待に応えられるだろうかと不安が押し寄せました。

年明け早々から頻繁なメールのやりとりとオンラインでの打合せを重ねました。ご褒美は打合せの後の質問タイム。本だけでは分からなかったことなど、どんな質問をしても丁寧に答えてくださいました。横浜に到着されてからの打合せもどんどん内容が濃くなり当日に向けて皆のモチベーションも高まり、一丸となって頑張りました。

語られた伊波さんの波瀾万丈の人生。沖縄戦の時、2歳の伊波さんは母親の背に負ぶわれ家族で逃げる中、入った壕で泣き叫び、敵に見つかるからと殺されそうになったこと。14歳でハンセン病と診断され自死を試みるが失敗、家族から引き離されて愛楽園に入ったこと。高校進学を目指しての愛楽園脱走、岡山県の長島愛生園内に開設された県立邑久高等学校新良田教室での学生生活、5年間で12回にわたる手指の後遺症の機能回復手術。社会に出て受けた様々な差別、常にポケットに隠していた指を出させ堂々と生きろと励ました友人。ハンセン病回復者であることを公表しての就職、結婚。正面から差別と向き合ったため最愛の家族と別離せざるを得なくなったこと。国賠訴訟の賠償金を基金にした、医療従事者を目指すフィリピンの貧しい家庭の若者たちへの奨学金支援等など、ここまで赤裸々に語られるのかと驚くほど。そして、辛く困難な道程の折々に出会う素晴らしい人々。参加した老若男女、皆が伊波さんの人生に寄り添うような感覚になり感動と重要なメッセージを受けました。

照明を工夫し、沖縄戦の実写フィルムも交えたいくつかの動画と過去の体験と出会いに合わせたたくさんの写真、伊波さんの朗読と予め録画した音声を組み合わせた、まるで朗読劇のような講演は2時間半という長さを感じさせず大好評でした。

ネパリ・バザーロでの講演、横浜市内の公文国際学園で中高生約900名への講演、東京の高麗博物館での講演と3日間連続の講演を精力的に果たされ、参加者皆に力強いメッセージを伝え、沖縄に戻られました。自らの経験を語ることができる方は限られています。著書ももちろん素晴らしいのですが、直接語られるお話はより深く心に響きます。

ある時、メールにこう書かれていました「ゲームオーバーのスイッチを押すのはもう少し延期します」。よかった!これからも講演を続けてください。偏見や差別がなくなり、尊厳が守られる社会の実現に伊波さんの力が必要です。


愛楽園を脱走し、父とヤマトに向かう船上で。当時16歳。


社会復帰をし、東京コロニーで働く伊波さん


出典:毎日新聞2001年5月11日


中学生をはじめ、伊波さんの話に聴き入る講演会の会場の様子。


講演会終了後、多くの参加者と会話が弾んでいました。


講演会のボランティア、参加者の方々と。

◇伊波敏男さんが若月賞を受賞されました!
2024年7月26日、長野県佐久市の佐久総合病院で第32回若月賞の授賞式が行われました。若月賞は農村医学を確立し、長年地域医療に貢献された佐久総合病院総長・故若月俊一氏の業績を記念して制定された賞で保健、医療、福祉分野で功績のあった人に贈られます。ハンセン病の当事者であった伊波さんが差別や偏見と闘いながら人権と平和を柱に様々な活動をされてきたことが評価されて受賞につながりました。

 

奥間政則さん


両親は沖縄の人なのに、なぜ自分は、奄美大島で生まれたのか?なぜ父は酒を飲み、家族に暴力をふるったのか?50歳で初めて、恨み続けてきた父の苦悩を知るきっかけとなった証言集を手に。

ご家族の苦しみ
2020年に奥間政則さん(58歳)と出会い、ハンセン病患者本人だけでなく家族も苦しみもがき、辛い人生を送っていると教えられました。ハンセン病はただの病ではなく、人の存在そのものを否定してしまうのです。家族であることから逃れようと否定すれば自分そのものも否定してしまう、勇気を振り絞り明かして生活すれば守りたい家族にも矛先が向く。人権意識の恐ろしく低いこの国では病気になるだけで一生が狂わされかねません。人を信頼し、安心して暮らせる社会を築くには何が必要でしょう。完成した奥間さんのDVDを観て、一緒に考えませんか?

{対談}稲塚由美子×土屋春代
言葉、音、映像等を駆使し、個人に光を当て、個を大切にした記録活動を行われている「隣る人」工房主宰の稲塚由美子さん(写真右)。奥間さんのドキュメンタリーDVDを作られました。ネパリ・バザーロ土屋春代(写真右)が、稲塚さんにその想いをお聞きしました。(DVDはこちらからご注文頂けます)

つなぐつながる 人の縁でできたDVD
土屋:奥間さんのドキュメンタリーを作ってくださってありがとうございます。稲塚さんと出会ったのは2017年。前々からお世話になっていた光の子どもの家に密着取材したドキュメンタリー「隣る人」を観に行った時。制作者の稲塚さんがアフタートークで大久保製壜所事件のことを話されました。私たちにとっても衝撃的事件だったのでとても驚きました。

稲塚:あの時なぜか「隣る人」の原点として話しました。私には知的障がいの兄がいますが、まだ福祉環境の進んでいない時期に中学卒業後に、紆余曲折あり就職したのが大久保製壜所。自分が大学の時に兄は大久保製壜所から逃げ出して行方不明になりました。やっと見つけましたが兄は逃げた理由を話さない。今でもあの話はしたくないと言って口にしません。自分で事件を調べ、とんでもないところだと分かりました。虐待、性暴力。親たちは子を置いてくれるだけでありがたいと収めようとする。胸がつぶれます。その事件が「隣る人」制作の原点。声に出せないということの。上映会のアフタートークは何十回もしましたが、その話をしたのはあの時だけ。土屋さんが詳しく聞きたいと声をかけてくれました。

土屋:陸前高田市に震災支援で工房を建て、椿油をつくった時、気に入ったビンが見つかり、よく調べず大久保製壜所から買いました。なぜか気になって深く調べると事件のことが分かり、もうここからは買えないと思い、そのビンのメーカーから直接買うために動きました。しかし、購入先を替えることに応じてもらえず必死で交渉して、メーカーの担当社員の理解と協力を得て、ようやくルートが開けました。

稲塚:今回のDVDのことは、すぐ土屋さんに相談しました。いろんな人に知ってほしいけれど一過性のセンセーショナルではなく、顔が見えるつながりで広げたいから。

土屋:奥間さんは各地で講演され、沖縄の軍事要塞化に抗う話とハンセン病差別という二つの国策を話されますが、このDVDがあるとより伝わると思います。

稲塚:刻々と変わる「今現在」は奥間さんに話していただく。基本的に大事なことだけを奥間さんの映像を使って伝えています。

土屋:DVDで伝えているのは変わらない価値観ですね。10年、20年経とうと変わらないこと。奥間さんが伝えたいことは、時代を超えています。

このDVDの企画の意図
稲塚:奥間さんの「父を恋う」気持ち。特に子ども時代の大事な時を失ったこと。その理由を50歳で一気に知り、父の本当の苦しみを初めて知った。その両親への想い、知らなかった過去を辿る心の旅ということで企画しました。奄美大島、宮古島…、嬉しかったのは奥間さんも行ったことがなかった所に行けたことです。

土屋:奥間さんに限らず患者ご家族の苦しみを思うと切ないですね。子ども時代に家族と持てたはずの大事な時間を奪われています。失った時は取り戻せない。あとで一緒に住んでも、戻れない。

稲塚:奥間さんもコミュニケーションが取れないと言っていました。自分も「隣る人」で児童養護施設を見てそう思います。人は誰かに添ってもらわないと寂しい。孤立は捨ておけない。奥間さんの失われた時はもちろんすべては取り戻せませんが、ニコッと笑う顔が旅の最初と最後で違うと思いました。大人もですが、子どもにとって国に勝手に人権が壊されるのは許せません。ハンセン病の差別は他の国でもあったけれど、特効薬ができた後は改善されました。日本はどれだけ遅れたか。

土屋:らい予防法が廃止されたのは1996年。少し前に、ようやくです。これほど遅れたのは私たちが理解せず、後押ししなかったからだと忸怩たる思いです。

稲塚:後押しどころか知ろうともしなかった。自分自身の中にもあるのだと思いますが、自分とは違う、そちら側ではないと。自己責任を日本人にあまりに強いてきて、辛いのは自分のせいと思わされます。
土屋:それは政府、権力者には都合がいいですね。本当は一番の責任があるのに、関係ないという顔をしていられます。

稲塚:今でもそういうことが起こっていて、それを知り尽くしているからこそ、奥間さんの両親は子どもを守ろうとして隠し、奥間さんは知らずに、親を恨む対象にしてしまった。ご両親の気持ちを思うと胸がざわざわします。カメラの前で語ってくださる方たちは人に知ってもらいたい、自分の気持ちを話したい。でも「普通」は崩したくない。指さされたり、特別視されたりしたくない。両方のせめぎあいがあります。奥間さんは覚悟してご自分で顔を出して、故郷に帰れず納骨堂に眠る方達、声なき声、生まれることのできなかったあの子たちのためにも自分が、と言ってくださっています。それぞれに事情があるので皆さんにDVDの内容をチェックしてもらいました。誰も傷つけたくありません。

土屋:大変な責任がありますね。

稲塚:出資者を募らないと決めているのは、何かあった時に自分だけに責任の所在を置くため。何があるかわからないので最大限、奥間さんと相談して、傷つけることのないように配慮しました。それに、観る人のことも信じたい。説明で全部言われるよりも、背景、言葉の後ろ側を、観た人に想像してほしいというのもあります。

土屋:そういう映像になっていると思います。奥間さんの気持ちがすごく伝わってきます。奥間さんだけの問題ではなく、私たちすべての問題だと伝えていきたいですね。なんで言わなかったの?ではない。言わせない。聞かない。聴く態勢がない人に言えません。

稲塚:背景を想像するのが大事。知的障がいのある兄は黙っていても何かを思っているというのが原点。普通の家庭でも、子どもは辛いことがあっても親を思って言えない。声なき声をすくいあげるのが私たちの想像力。

土屋:その人たちは炭鉱のカナリア。それをきいて危ないと思わないといけない。

稲塚:炭鉱のカナリアを一羽で行かせてはいけない。一緒に思う人が大事。DVDが一助になれば。ハンセン病のことでもあるのですが、普遍的なことであるから。そのためには奥間さんという「人間」を映像で観てほしいのです。

土屋:頭だけで理解するのではなく、心で受け止め、人の悲しみを分け合って一緒に乗り越えたいと思う、そういう一人にさせたくないという気持ちを、皆が持ち合えたら、温かい平和な社会になると思います。

稲塚:大勢の幸せのために個人が犠牲になっても構わないという考えがあります。犠牲になるのが自分だったらと考えて欲しいと思います。特別なことではなく、奥間さんがたどった道は誰にでもありえる。ハンセン病でなくても別なことでも。他人事と思って分断させられてしまい、真の敵から目を背けさせられてしまうことがないようにと思います。言葉を出せない兄といると、私も一緒にポツンと残されている気がします。服を一枚着るにしても、人は誰でもできると言われたら生きていけない。

土屋:一人ひとり違いますものね。できないことがあるから支え合って生きていかないと。

稲塚:「支え合う精神」が根本なのですね。ネパリの商品は血が通っています。味、生産者の背景、「共に」を大事にしているのが伝わってきます。愛楽園のある屋我地島の塩を使ったシーソルトチョコレートがますます美味しく感じます。


幼少期の奥間さんと父。©隣る人工房


奥間さんが幼少期の頃、父が撮影した家族写真。©隣る人工房


伊波さんの講演会場にて。沖縄から駆け付けた奥間さんと土屋(左)。

 

◇奥間さんのDVD(左)と伊波さんのご本(右)もお手に取ってご覧頂けますと嬉しく思います。

左:DVD
二つの国策差別に翻弄された父母への想い 奥間政則 
~ハンセン病差別・琉球弧の軍事化拡大~
ハンセン病患者を強制隔離し、断種・堕胎を行ってきた国策。今も根深く残る差別・偏見。本土上陸を防ぐために沖縄を犠牲にした日本という国が、沖縄に基地を押し付け、琉球弧の軍事化拡大という国策で、今ここにいる人々に犠牲を強いる構図は変わらない。父の記憶と共に、息子は怒りを胸にハンセン病問題と基地問題、二つの国策の差別を全国で訴え続ける。

■【企画・インタビュー】稲塚由美子
■【制作・著作】「隣る人」工房
■【編集・発売】株式会社沖縄タイムス社
■【DVD上映時間】106分/資料冊子付

右:本
ニライカナイへの往路
ハンセン病の”烙印”と格闘した著者の「遺言書」。自ら病んだハンセン病から人間の尊厳を問い続けた作家・伊波敏男が、故郷の沖縄が「平和の島」から「基地化」する様に歯嚙みしながら、80歳の片道切符を手に自らの立ち位置を見つめ、最後となるであろう書籍を書き著した。

■【著者】伊波敏男
■【発行】特定非営利活動法人クリオン虹の基金
■【編集・発売】株式会社沖縄タイムス社
■【ページ数】288頁