ネパールコーヒー物語 verda28
地域開発 人が人らしく生きるために
シリンゲ村のコーヒー農民たち 偏見と差別との闘い その1
文・ネパリ・バザーロ副会長 丑久保完二
自然農法で てまひまかけて育てた ネパールコーヒー
シリンゲは、ラリトプール郡の最南端に位置します。グルミやアルガカンチと比較すると距離的には首都カトマンズに近いのですが、山の起伏が激しいカブレ、マクワンプルに接し、行き来の難しい所です。カトマンズからバスを乗り継いでほぼ1日掛かり、そこから徒歩で険しい山道を8時間以上歩くと、ようやくシリンゲに辿り着きます。グルミ、アルガカンチの厳しい山道も歩いてきましたが、この地はそこと比較しても更に激しく、岩の多い細い道は今日まで住民の生活にどれほど多くの困難をもたらしてきたことかと思います。気温は、冬の2月というのに朝も8時になるととても暑く、じっとしていても汗ばむ程で、5月は40度を超えます。18年近い活動を通じて得たものは何か、また、これから何処に向かおうというのか、ここでの活動は、それを教え導いてくれるかのようです。より困難な状況にある人々に寄り添う時、私たちは本当に大切なものは何かを学ぶことができるのではないでしょうか。
コーヒーの生産地シリンゲ村訪問
子どもたちの声は6時ごろから聞こえていました。バドミントンのラケットを近所の先生から借りてゲームを楽しんでいたのです。この村でバドミントンは贅沢なもの。きっと、昨晩、ふらふらになりながら到着したときに、バドミントンの選手だったことを私が話したからでしょう。暫くうとうとしていましたが気合を入れて起きてみると時間は既に8時半。お茶の時間です。クワ(そば粉を水で練ったもの)にミルクを混ぜて小皿に入れたものを子どもたちが運んできました。砂糖で味付けたものなので、こちらの人にはとても美味しい食べ物です。村は山の中腹ぐらいに位置しています。天気が良く周辺の山々が良く見えました。私たちが宿泊したところは村の公民館的な役割も果たす宿で、デゥラルさん一家によって運営されています。デゥラルさん一家の最年少のマニサちゃんは、妻の妹の娘ですが、最近、母親が高い木から落ちて亡くなったのです。村の女性たちは、ヤギや牛に餌を与えるために高い木に登り、枝を切り落とす役割も担っています。急な斜面の所に茂っている木に登るのは大変危険な仕事です。お兄さん、お姉さんに寄り添ってお手伝いをする明るい笑顔の少女にそんな悲しいことがあったとは。「元気に育って欲しい」と願わずにはいられませんでした。
2月、朝晩はとても冷え込みますが、昼間は夏のように暑く半袖が必要なほど。それはコーヒーを育てるにはとても良い環境です。この家庭にもコーヒーの木がありました。200本ほどで収穫量はまだ少ないのですが家庭の貴重な収入源です。スパイスも自家用に作っています。この村周辺から上を見上げるとラクダの瘤のような形をして大きく聳え立つカレソール山が見えます。山の中には寺院もあります。標高は2千5百メートルくらいで、コーヒーを運ぶには、この山の脇を徒歩で移動するのです。
シリンゲとの出会い
シリンゲのコーヒー生産者バドリ・プラサド・チョーレルさんとお会いしたのは、1996年頃のことですから、13年も前のことです。ネパリ・バザーロ(以下ネパリ)がコーヒー生産者を探していることを知ったサナ・ハスタカラ(以下サナ)のチャンドラさん(注1)のご紹介でした。バドリさんは市場を求めてカトマンズへ度々来ては、知り合いを訪ねたり、店に直談判しては断られるなど大変苦労されていました。当時のネパールでは、コーヒーが栽培されていることすらほとんどの人が知らず、需要もないので流通の仕組みができておらず、購入したら豆の選別、皮むきなども自分でする必要がありました。ネパリもコーヒーの輸入を始めて2年目頃で、自分たちの作業場などなく、サナの事務所の一角を借り、スタッフの方に ボランティアで豆の選別作業のお手伝いまでして頂きました。それは、私たちがコーヒーのために現地事務所を開く直前でした。
良質の豆だけをといくらお願いしても、麻袋の底の方はくず豆を入れてしまい、すぐに分かることを何度もするので困ったことを今でも鮮明に覚えています。当時、私はまだネパール語があまり話せず、英語も通じず、理論的に話は進まないし、仕事をするには大変でした。しかし、毎年、1トン、2トンの単位で少量ですが、お付き合いは今日までずっと続いてきました。
シリンゲが有機農業を取り入れたのは、とても早かったのですが、少量であることと、私たちの主な対象地域であるグルミからとても離れていたため、更に10年間に亘る内戦の影響もあり、国際的な有機証明取得の手伝いは大幅に遅れてしまいました。
注1)個人や数人規模で製品作りをしている100を超える小さな生産者たちのために、マーケティングや輸出業務を行うNGO、サナ・ハスタカラの統括責任者。
シリンゲ生産者協同組合発足
シリンゲ生産者協同組合は2008年ようやく協同組合形式になりました。それまでは、農民の自主的なグループでした。
彼らが有機農法を取り入れるようになったきっかけは今から約20年前、UMN(United Mission to Nepal)の中のCDHP(Community Development and Health Project) として、森林保全を目的にした活動がシリンゲ地域で展開されたことによります。初めは、カナダから指導者が来て、農業技術、子育て、トイレの使い方などを教え、水を引く作業も実施しました。その任期後にオランダ人2家族が村に住み、村人たちと生活を共にしながらコーヒー栽培やコーヒー皮むき機の扱い、そして 有機農業について指導しました。それ以来この地域では野菜も全て有機農法が当たり前です。当時植えた木が大きく茂り、その成長には目をみはります。その時に共に植林活動をした方たちが、現在のシリンゲ生産者協同組合設立中心メンバーです。理事は11名で、若い方も多くいます。代表のバドリさんももう58歳。白髪が増え、皺が深くなったバドリさんを見ていると初めてお会いした頃からの年月の早さを感じます。
グルミ、アルガカンチという西ネパールの奥地は、ネパールで初めて有機コーヒーの認証を得たところです。手探りで始めたこの活動も、当初はネパリ単独で有機証明を申請し、試験官をオーストラリアから現地に招き進めていましたが、地域の体制が整ってきたことにより生産者名で認証を取れると判断し、協同組合名での申請に移行しました。アルガカンチの申請にはグルミと地域が違うため、また別の協同組合(AAI)を作ってもらい申請を出し、今日に至っています。この流れは、他の地域にも広がり、ラリトプール全域を含めて実施する、しかも、政府組織の紅茶コーヒー開発委員会(National Tea & Coffee Development Board。以下NTCDB)が音頭を取りながら組織的に進める動きへと繋がりつつあります。
グルミからシリンゲへ
西はグルミ、東はパンチタールを有機栽培発信基地にして、ネパール農業の将来モデルを示していこうと、現地の農業技術を持つ人々と地道に進めてきたことが、着実に成果を上げ、周囲の人々の信頼を得て実現しつつあります。
有機証明へのこだわりは、単に商品に表示することが目的ではなく、食の安全確保を目指し有機農業を推進する世界の流れを示し「良いものを作れば市場も開ける」という農民への動機づけが一番の目的です。それによって働く人食べる人双方の安全も守られます。グルミ、アルガカンチは、韓国に紹介した成果が現れ、私たち以上に大きな市場ができてきました。韓国のフェアトレード組織はネパリと比較にならないほど大きな組織です。私たちが東ネパールで展開している奨学金の仕組みを参考に、グルミでも同様な活動 を進めようともしています。ここに至るまでには長い間、試行錯誤が続きました。アメリカのフェアトレード団体に打診をして量が少ないとあっさり断られたこともありました。でも、ようやく、皆様に支えられてきたそのコーヒーに新たな市場が開けました。
そして次の課題に取り組むことができるようになりました。それはシリンゲで有機認証を取得することです。ただ、今までの取り組みとは少し状況が違ってきました。有機認証が食の安全確保のために、世界の常識になりつつあり、ごく身近になった反面、申請手続き、内容共に煩雑になってきました。特にシステム面で専門家のアドバイスを受けられる仕組みが 必要です。その為には、NTCDBが音頭をとって取り組むことはとてもありがたいと思います。 このように政府が動くようになった背景には、グルミでの有機コーヒーの成功と市場拡大の一方、アメリカ市場を中心とした、有機に関心をもたず、企業利益追求のみの不安定な需要と2008年末からの経済危機による突然の取引停止があります。
時代は味方しているようにみえますが、ここに大きな落とし穴があります。その仕組みに入れないと認証が取りにくくなるからです。どのようなことが現実に起きているのでしょうか。
試される時
政府が力を入れるようになったまではよいのですが問題はここから始まります。体系的活動を行うには、モデルケースとしての地域を選び組織を作ります。最近、シリンゲ周辺でその試みが始まりました。まず、地域コーヒー生産者協会(District Coffee Producers Association。以下DCPA)を作りました。対象地域は、トラドゥルン地域で、その中に7つの小さなコーヒー生産者協同組合ができました。シリンゲも対象地域に含まれてはいるのですが、なぜかシリンゲの生産者協同組合だけは試みから除かれていました。DCPAの代表を訪ね、かなりの時間議論をし、近々シリンゲ協同組合と話し合ってくれるとの約束を取り付けました。しかし、シリンゲ協同組合の若者がポツリと言いました。「あなたたちが帰れば、彼らDCPAは聞く耳を持たないよ」と。地域の中でも特に貧しいシリンゲは相手にされていないようです。彼らだけでは道を開くことが困難な状況だと分かります。
夜になると、若者があちらこちらから訪ねて来ました。シリンゲ協同組合の人もいれば、他の協同組合の人もいます。そして、それは、連日、深夜まで続きました。「何故、ここに来たのか?」「シリンゲ協同組合を支援するのは何故?」「コーヒーに幾ら払っているのか?」「幾らで、日本で売られているのか?」など、私たちの目的、活動内容、これからのかかわりにとても関心を寄せ、矢継ぎ早に質問してきました。私も彼らの一途な様子、真剣な問いかけに応えて、ネパリの目的と活動、有機農業の大切さ、何故証明を取ろうとするのか、この村とのかかわりの経緯、グルミで何をしてきたか、そして、これから如何にしていくべきか、夜の更けるのも忘れて語りました。
シリンゲは、電話ができない、携帯の電波は届かない。電気も、滞在中、夜7時ごろから2時間くらいくることがありましたが、それも最初の2日間だけ。後は全く電気がきませんでした。これでは、電気を使う生活はまず無理です。ですから、ここで生産したコーヒーは、全ての行程が人の手によってなされています。コーヒーの実を摘むのはもちろん、コーヒーの果肉を取り除くのも、乾燥も。コーヒーの果肉を除いて乾燥したものをパーチメントといいますが、そこから私たちが焙煎する生豆を取り出すのも、豆の選別も全て人の手です。ここでは、他の村では見られなくなった手足を使った脱穀機もまだ現役です。移動も運搬も石がゴロゴロ点在する細い急斜面を何時間も歩かなくてはなりません。何も背負わなくてもふらふらになり、体力の限界を感じ、途中横になりたくなった道を彼らは重いコーヒー袋を背負って何時間も運びます。その後、バスでカトマンズまで運び、更に停車場から私たちの連絡場所を兼ねたカーゴ会社の事務所まで背負って運び、支払いを受けます。
私がカトマンズに戻る日、そのジープでコーヒーも一緒に運ぼうということになり、村人たちも同乗しました。車の中で、皆、楽しそうに歌っていました。雰囲気を明るく盛り上げようとしてくれていました。生活がどんなに厳しくても陽気で前向きな彼ら。そして古き善き友人として温かくもてなしてくれた気持ちが嬉しく、励みになりました。
カトマンズに戻ると有機証明取得を進めるための申請書作成の情報整理に追われ、又、アドバイザーとシステム作りの打ち合わせをしたり、NTCDBの事務所を訪問して不公正がないようにお願いしたり、関係者たちとの情報共有のためにあちこち説明に回るなど、出国ぎりぎりまで駆け回りました。トランクをタクシーにやっと積み込み、飛行場へ向かう途中も車中で会談をしながらの旅でした。
バドリさんの長年のご苦労や若者たちのこれからの夢を思い、村人の置かれている立場が少しでも改善されることを願い、課題を一つひとつクリアしつつ、挑戦していくことを誓いました。
(Verda 2009秋 vol.28より)