カンチャンジャンガ紅茶農園より verda09
地域開発 人が人らしく生きられるために
紅茶生産者とモニタリング
文・ネパリ・バザーロ副会長 丑久保完二
町から遠く離れた紅茶農園、澄んだ水と空気。そこには、人々の温かい助け合いと、 自然と調和した暮しがあります。そこに住む人々の生活や紅茶農園の様子をみながら、そこで実施している福祉プログラムの一面をご紹介します。
山の中に広がるフェアトレードの世界
ネパールの東、バドワプルから北へ約100キロ走ると目的地フィディムに着きます。幾つもの山を越え、紅茶で知られるお茶畑がつづく田舎風景のイラムまで、舗装された良好な道を飛ばすと、突然深くえぐられた泥んこの輪だちが現れました。ハンドルを取られないように右、左にと忙しく操作しながらゆっくりと進みます。雨が降り、雪道のように滑る道を、走る、走る、走る。「あ~、崖!」と思う間もなく車がそちらに向って滑って行きます。何度も手をつっぱり、顔が緊張することもありました。夜も更けてあたりは真っ暗闇になった頃、3,000メートルの峠を抜けたと思うと、突然に細い険しい道を急降下。そこには、フェアトレードの世界が広がっていました。
カンチャンジャンガ紅茶農園
ここは、パンチタールという地域にあり、近くの山の上にフィディムの町が一望できます。紅茶だけでなく、コーヒーも栽培しているし、カルダモン、シナモン、ジンジャー、ベイリーフのスパイスも栽培しています。ここの特長は、海抜2,500mの山間部で、空気と水が新鮮なこと、山の斜面が険しく不毛であった土地を活用して、紅茶農園を作ったことです。紅茶農園に適した斜度は60度までと言われていますが、ここは70度もあります。その不毛の土地を利用し、そこに紅茶という換金作物を植え、生活改善に役立てているのです。また、紅茶の木で地滑りを未然に防いでもいます。それを可能にしたのが有機農業の実践です。土壌を肥沃にし、退化を抑えているからです。先祖代々受け継がれた叡智を利用し、伝統的な手法で土壌の質を改善し、長期に渡り土壌を肥沃に保っています。養分の供給は、周辺の田畑で生産されるたい肥、緑肥を基本にしています。虫の駆除には、IPM(自然の中にある成分を使い、無理のない形で防虫効果を出す)方式を採用しています。
食料安全基準への動き
この農園が提供する紅茶は、IFOAM(国際有機運動連盟)に加盟しているオーストラリアの有機農業証明機関NASAAから1998年に認可を受けています。NASAAは、2001年10月、JASより日本有機証明機関としても認められました。日本で有機(オーガニック)表示をするためにがんばった成果です。また、FLO(フェアトレードのラベル表示を通じて、その活動を促進する組織)の認定を2000年11月に受けています。
FLOとフェアトレード
FLOは、ドイツに本部を置いています。フェアトレード表示基準を定め、その基準をクリアした製品には定められたフェアトレード・マークを表示できるというものです。一般市場にフェアトレード商品を広げる手段として考えられた動きで、その起源は、カトリック系の教会の運動、トランスフェアー運動です。
フェアトレードの運動そのものを担っている私達IFAT(International Federation for Alternative Trade)メンバーの場合は、私達自身が現地へ赴くのでFLOに加入する必要性がなく、独自のブランドマーク(認定マーク)を表示することで検討を進めています。
地域貢献とパートナーシップ
町から遠く離れたところにある、この紅茶農園は、その地域の生活水準向上に大きく貢献しています。紅茶工場では約50人、紅茶農園では約200人前後の人々が働き、茶摘みの季節には更に多くの人々が働いています。生活道路を確保し、教育支援を行い、ソフトローンなど幾つかの福祉プログラムも実施しています。最近では、家族計画に対する人々の意識の向上も図りたいと考えています。ここで働く人々は、以前より暮らしが楽になったと言います。毎日仕事があるのは、とてもありがたいそうです。生活はまだ厳しいですが、貧困を解決する即効薬はありません。小さな地道な努力の積み重ねが大切です。人々の想いを紅茶に乗せて、新しい社会創りは始まっています。
福祉プログラムと奨学金
仕事の機会が増えても、まだ、学校へ行けない子どもたちがいます。より多くの子どもたちにその機会を与えるには、資金面、親の教育への理解と啓蒙が必要です。そこで、フェアトレードを側面から応援する仕組みとして、奨学金を出すことにしました。初めの年の該当者は、141人。そして、今年は164人です。この福祉プログラムの期間は5年。その仕組み作りから、神奈川総合高校の自主活動であるワンコインコンサート実行委員会の皆さん、紅茶農園と話合いを重ねながら今日に至っています。活動開始の時にその年度計画書を作成し、年の途中で中間報告書、期末に現地視察(Monitoring)と実施レポート及び年度末報告書を作成しながら、活動のフォローをしています。
現地視察(Monitoring)
この3月15日夜遅くに紅茶農園に入り、1年間の活動結果のフォローをしました。翌日と翌々日は、各4校ずつ訪問。その翌日は、現地の世話役の人たちとの会議(Joint CommitteeとMonitoring Committee)、そして村人との会議をしました。又、現地の政府機関(Center District Office)にも伺い、教育関係の支援趣旨説明と応援をお願いしました。その翌日は、山を降り、川を渡って入り、まだ、マオイスト(当時の反政府勢力)の活動が残る領域で3校訪問しました。更に、幾つかのお宅を訪問、会計監査などをこの間に実施し、その結果を纏めてジョイント・メンバーとそのフォロー会議も実施しました。モニタリングの対象校は、17校で、訪問できたのは11校、奨学金対象人数比で80%でした。初めてのモニタリングということもあり、学校の状況と印象、この奨学金の効果を知ることに絞りましたが、山の上に学校があることが多く、山向こうへ行くには、一度山を降りなければならないので、途中、ギブアップする者がでるほどで、このような環境で、生徒のケアをしていくことの大変さも感じました。100%完全なシステムを構築することはできませんが、「全員が学校へ行ける」という、この周辺地域では実施できなかったことを達成した意義は大変大きいと、多くの方が語ってくれました。
全員が学校へ行けるチャンス
カトマンズに戻り、そこに40年住んでいるというアメリカ人ジャーナリストのバーバラ・アダムスさんに偶然お会いしました。以前から、この農園の子どもたち全員を学校に行かせたいと考えていたそうです。そして、実行することの難しさを話されていました。
この実現に向けて応援してくれたスタッフ、ボランティア、購入して下さる消費者の皆さん、そして、高校生の皆さんに深く感謝致します。
このプログラムが、周辺の地域へ良い刺激となり、より多くの子どもたちが学校へ行けることを願っています。農園では、5年後の奨学金縮小を考慮して、更に収入向上の検討を開始しました。
ネパール紅茶の歴史
紅茶の歴史は、1843年以降に、東部のイラムで紅茶農園が作られたことに始まる。1985年、政府により、ジャパ、イラム、パンチタール、テラトン、ダンクタの東部5地域は、「ティー・ゾーン」とされ、それらの紅茶農園は国営化された。1985年から1999年は、たくさん紅茶の木が植えられ、たくさんの農園と工場もできた時期である。1997年には、国営の紅茶農園と工場が民営化されている。年々、着実に紅茶産業は成長し、現在では年間生産量が約500トン(1998年)を超えるまでになった。1999年11月、ネパール産の緑茶の展示会も首都カトマンズで開かれ、緑茶が市場に現われた。このお茶産業は、工場では約1,200人の労働力を吸収し、3,250世帯の小農家に貢献している。
ネパール有機紅茶の歴史
オーガニック栽培の紅茶農園は、1984年に始まった。そのオーガニック紅茶栽培に大きな影響を与えた人がいる。今から46年も前、当時まだオーガニックという言葉も知られていない時、有機肥料の工場を作ったシディ・バハドゥールさんだ。現在76才になる彼はネパールの農業の将来に有機肥料は必要だとの信念で赤字の工場を今日まで支え続けてきた。不毛の土地をなんとかして人々に役立つものにしたいと考えた東ネパール、カンチャンジュンガ(英名)の山の麓、パンチタール出身のディーパック・バスコタさんはシディ・バハドゥールさんの考えに強い影響を受け、有機紅茶農園を始めることになった。ネパールで初めてのオーガニック紅茶農園、カンチャンジャンガ紅茶農園はこうして誕生した。
(verda 2003秋冬 Vol.09より)