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きのうの行方 verda46 2015su

第2回 幸せな暗やみ

題字・絵・文 瀬戸山玄

「日本最西端の映画館」と聞いて旅心をそそられた。

福岡から天草エアラインの小型機で35分。さらに天草空港から終バスで天草市中心まで20分あまり。出張帰りに立寄ったのは、二階席まである110席のクラッシックな本渡第一映劇だ。手書きの似顔絵看板や書体から昭和が匂いたつ建物は築62年を誇る。これより西に映画館はない。

夜の部を終えた支配人の柿久和範さんを居酒屋に誘った。合併前で本渡市として漁業もまだ元気だった頃、計4館が地元で人気を競いあったという。それぞれ洋画から邦画や日活ロマン系まで上映内容をしぼり、どこも二階席は人目を忍ぶ熱いデートの場と化した。やがて就職や進学で都会への人口流出がおこり、過疎化が進むと最後の第一映劇も休館状態になりかかる。そこへ助っ人に駆けつけたのが、当時プログラマーだった29歳の柿久さんである。本渡生まれの彼は学生時代の四年間、東京新宿のミラノ座でアルバイトに励んだほどの映画ファン。匙をなげた館主と交渉のすえ、仲間と上映会を催しては客層の掘り起こしに挑む。フィルムのかけ方も熊本の他館で身につけて98年、逆風を承知でついに定期上映を果たすのだ。

「館の外まで行列ができたのは宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のときでしょうか。日本一小さな天草映画祭を2001年に立ちあげ、高倉健さんや、宮沢りえさんまで来てくださいました」と顔をほころばす。

役者たちからの声援に励まされた若支配人も今年52歳。老朽化が進む館を整えながら、高級なゴブラン織りの中古座席を京都の劇場から譲りうけ、割安なレディースデーまで設けて大奮闘がずっと続く。

「息子を小さい内から映画館に連れてきていたので、大学生になった今も大の映画ファンです」と喜ぶのは伴侶の敬子さん。彼女も子育て中から切符を売り、難しい映写機へのフィルム掛けで危うくパニックに陥ったこともある。本当は産業遺産に登録されてもおかしくないけれど、スナック一軒が同じ建物内で営まれているので指定や助成を受けづらいらしい。

亡き人とつながる場

私が子どもの頃には、いく先々に映画館があった。郷里鹿児島の週末映画館は床が土間で歩くといつもペタペタしていた。小学時代に小田急経堂駅近くの南風座では、クレージーキャッツの爆笑喜劇で初めてギャグを覚えた。向ヶ丘遊園駅裏のアンモニア臭が漂う映画館ではよく戦争モノを友だちと一緒に観た。話の筋立てもさること暗闇に妄想がむくむく膨らみ、鑑賞後のマセたおしゃべりをひどく楽しくした。それだけに各地を仕事で巡ると映画館の無い町はどこか心もとなく思えて仕方がない。

昔ながらの時間を味わいたくて翌朝、『遥かなる山の呼び声』と『君よ憤怒の河を渡れ』を立て続けに観た。初回から高倉健の追悼特集で、倍賞千恵子の健気さにこっそり泣いた。車椅子のお年寄りを含めて観客8名。高齢化が進む娯楽の乏しい町で、フィルムは少しくたびれているものの、古い映画館が亡き人とつながる大切な場だと気づく。二階の狭い映写室を覗かせてもらうと、88年の傑作『ニュー・シネマパラダイス』の世界がそこに凝縮されていた。

本渡第一映劇と同様、各地で個人経営の単館が町柄の要石として踏ん張っている。ネックは新作のデジタル化が一気に進んだこと。ましてデジタル映写機も800万円以上と高い。単館は購入に苦心するけど、近年流行の不特定多数に募金を呼びかけるクラウド・ファンディングで、デジタル対応を果たす劇場もすでにいくつか現れた。何とか本渡でも実現して欲しい。次世代に超個人主義のスマホ文化だけでなく、光と闇が育むアナログ会話の楽しさを伝えるためにも。

絵キャプション:映写室の小窓から記憶のマンダラ世界を覗いた

瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。