きのうの行方 tsuna7 2018s
第9回 五島・天草の巡礼者たち
題字・板絵・文 瀬戸山玄
「すみませ~ん。どこでもい~ですから、乗せて~いってもらえませんか~」
海岸端で車からカメラ機材を降ろしていると、遠くのバス停で必死に叫ぶ女が立っていた。大きな福江島でも、そこはバスが日に3便ほどしか通わない所だ。移動によほど困ったのだろう。胸を波打たせて小走りで近づいてきたのは、美貌の面影を留める楚々とした五十がらみの女性だった。
「いくらこんなオバさんでも、砂利トラを止めてヒッチハイクするほどの勇気は無いもんですから」
ほっとした様子で屈託なく笑顔を浮かべた。彼女は遠藤周作の『沈黙』を読んで以来、キリシタン悲話の地として名高い五島列島への巡礼に憧れ、東京からやって来たクリスチャンだった。長崎市の遠藤周作記念館を皮切りに、周辺のカソリック教会をいくつも巡り、数日かけて福江島にようやく辿り着いたという。
こちらが編集者と浜で撮影を済ますまでの小一時間、彼女は閉鎖中のレストハウスのベンチで帳面に俳句をしたためていた。車に乗ると、道中での巡礼譚を語りだした。ある隠れキリシタンの里を訪ねた折のこと。山の上の史跡まで一人で足を運んだ帰り道、麓で畑を耕していた初老の農夫が声をかけてきたという。
ーずいぶんと遅かで、心配しよったば~。
巡礼の旅だと告げると、農夫もまた信仰を代々守り続ける家で育ち、妹が修道女なのだと明かす。まるで隠れキリシタン同士のような、歴史の古層に導かれた束の間の一期一会には温かい血が通っていた。別れ際、彼女が名残おしそうに農夫へ挨拶した。
「東京に戻ってしまうと、もう二度とこれでお目にかかることもありませんね」
すると男は「いえ、次は天国でお会いしよっばね」としみじみ言葉を結んだ。旅先でふいに手渡された慈しみの言葉に、胸が熱くなり涙がはらはらこぼれたという。もとよりセンチメンタルな一人旅。長年の想いを積み上げて叶えた道行は至福の重なりだったらしい。笑みを絶やさぬ彼女をこそばゆく感じながら、荒川港近くの集落バス停まで送り届けた。辺境の五島には昔から嵐や政変に追われた漂流民が流れつき、異物をごく自然に飲み下す柔らかな弾力が備わっていた。
*
翌春、初めて天草下島へ渡った。羊角湾の奥に寄り添う河浦町崎津はあまりの不便さゆえ、禁教令下も破壊と殺戮を免れ、無血のまま明治を迎えたキリシタンの漁村である。「海の天主堂」と呼ばれる崎津天主堂が集落の芯となり、漁協組合員の実に4割がクリスチャンだ。当時、信徒代表を務める漁協組合長宅を訪ねると、仏間奥にオレンジ色の光に照らされたマリア像が祀られていた。海に生かされてきた彼らは恵比寿様にもお神酒を捧げるが、小さなマリア像を各船に乗せて朝夕拝むのが崎津の習わしだ。
「戦後の物資の乏しい頃は、船室も無線も羅針盤もなかとば小さか木造船に5馬力のポンポンエンジンば載せ、対馬や五島まで繰りだした。それも水筒のキャップについちょる玩具みたいな磁石と、北極星を見んごち進むとです。燃料もカスだらけの原油みたいなもんで、波をかぶって一度冷めたら滅多に始動せん。だから漁の危うさば今とは断然違ったです」と組合長。GPSなど存在しない頃の闇夜の出漁は、各灯台の明滅の間隔差だけが頼りだった。
「どこん灯台が光っとるんか知るのに、点滅の間に祈りの言葉を何度となえられたかで覚えいくとです」
そんな会話のさなかに正午を告げる、天主堂のカネの音が羊角湾に響き渡った。長らく神父がおらず経典さえなく、村の長老が儀式を担ってきたから、覚えきれ無い教義やしきたりが抜け落ちるのも仕方ない。いつしか女の洗礼名がマリアの代わりに丸谷となり、男はジュアンが寿庵となり、誓いのアーメンまで風雪に擦れて、「アンメンリンス」と変形した。
二つは90年代半ばで携帯もスマホも普及しない頃の旅の思い出だ。一連の巡礼者たちの足跡は近年、ユネスコの世界遺産認定にむけて働きかけが進む。西洋と日本の結び目に咲く、植物のような信心の多様性がいつまでも失われずにいて欲しいと願う。
板絵キャプション:スコセッシ監督の映画「沈黙」も膨大の調査の末に一昨年完成した。
瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。