きのうの行方 tsuna6 2017a&w
第8回 見直される銭湯
題字・板絵・文 瀬戸山玄
【銭湯の心意気】
東京中に銭湯がひしめきあう1960年代、風呂屋の家族を描く人気TVドラマ『時間ですよ』があった。白黒放映は1965年からだが、果して2600軒を超す銭湯が都内に乱立した背景はなんだろう。
「商店街や駅が新しく設けられると真っ先に銭湯が誘致され、清潔さが信条の魚屋や八百屋などの住込み店員も利用できれば自然と人も集まる。だから空き地に銭湯が建つと地価まで上がる時代でした」
そう証言するは18歳で能登半島から上京し、銭湯に携わりながら経営者まで昇りつめた業界OBの坊山義信さん(83歳)だ。空襲で焼けた親戚の銭湯が工場と住宅が混在する大田区内にあり、戦後再開すると多い日はお客1500人を呼び寄せたという。今も昔も銭湯は町の復興の原点だったのだ。けれど舞台裏は旧態で、坊山さんの仕事も山のようにあった。
午後二時から開いて夜12時半に暖簾をしまうが、商店の住み込み店員は仕舞い湯の頃に集まってくる。片づけ終えて休むと深夜3時をまわるため、朝飯は午前11時。そのまえに鏡を磨き、カランを磨き、タイルも磨き、釜掃除と煙突掃除までこなす。水道事情の悪い当初は、水を一斉に使う夕方は水圧が下がり、湯ばかりか水の出も悪くなる。時には断水して、井戸から手で汲んで給湯タンクに貯めた。ボイラーの熱源には雑燃料と呼ばれる大工さんの切り落とし類を使い、釜焚き専門がはりついた。熱量の貧弱な設備で湯船を清潔に保つのは、さぞかし知恵が要ったと思う。坊山さんには職場というより、同郷の経営者と従業員らが一丸になって盛りたてる運命共同体だった。関東圏の銭湯を支える裏方や経営者には、暖簾分けされた坊山さんみたいに北陸や能登出身者が多い。冬の出稼ぎに端を発した起業の名残なのだろう。
【三助という修業】
入りたての若者が見習い中にする修業に、浮世絵にも描かれた「三助」と呼ばれる流し役があった。仮に入湯料400円のほかに流し代300円を客が番台で払うと、「流し」の木札が渡される。同時に番台からバックヤードの釜場に呼び鈴で連絡がいく。男なら一回、女は二回という符丁で合図を送ると、大ぶりな桶三つに湯を満たして流し場へ重ねておく。小判型の桶なので重ねられるのだ。三助の格好は、夏でも腹に晒しを巻いて半股引姿。手にはヘチマを握る。そこへ石鹸を含ませて背中を中心に、腕を掴んで上に引きあげ、首まわりや脇や腰まで洗う。
流しが済むとマッサージに移る。タオルを相手の肩にかけて肘や、膝で首筋などを押す。時にはゲンコツでたたく。洗ってマッサージをして計10分。流し代は洗髪料とほぼ同額だった。坊山さんも若い頃に経験を積むのだが、時々お呼びのかかる女湯での流し仕事は、シャイなだけに恥ずかしさがつきまとったという。
若手の稼ぎは基本給+流し賃。300円の流し賃なら180円が店に入り、残り120円が三助の懐に。東京に人口が一極集中しない戦前には、三助を三人も置く銭湯があったらしい。それくらい疲れを癒す入浴が優先されており、町のお風呂屋さんは横丁のスターだった。戦後の集団就職で入湯客の数が膨れあがるとさすがに洗い場がごったがえし、釜焚きに集中するため三助どころでなくなってしまう。
そんな憩いの場も一昨年、都内で遂に600軒を割った。内風呂が当り前になったからと言えばそれまでだが、銭湯の醸しだす解放感とワンコインの充足を愛でるファンは変わらず多い。誰でもスイッチ一つでボイラーが焚ける時代だ。銭湯のオーナーたちも世代交代が進んで絶滅危惧種となる前に、元々あったハダカの心意気を蘇らせようと必死に風向きを探る。音楽系、芸術系、建築系、落語系、健康系という風に銭湯毎にテーマ性で色分けされる日が近いかもしれない。実は筆者もそんな風を感じて時々利用するので、初の板絵展は自由が丘の銭湯みどり湯で催そうと決めた。ボチボチ、時間ですよ!入浴礼賛!
板絵キャプション:聞き取りに基く昭和のイケメン三助氏
瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。