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きのうの行方 tsuna5 2017s

第7回 煮飯仙人のおさらい

題字・板絵・文 瀬戸山玄

「ナニワの飯炊き名人」村嶋孟さんが、中国各地で炊飯の手ほどきをするようになったのは約一年前。日に白米90㎏を炊く大阪・堺の「銀シャリ屋げこ亭」に中国人客が来るようになり、スマホで名人芸を撮りまくっていたのは予兆だったのだろう。中国商務省から奇抜な招請状が届くのは、村嶋さんが体力的に店を続けられるか心揺れていた頃だった。

ジャポニカ米の栽培を増やし、食味の良さを伝えて消費を伸ばせば、都市と農村のミゾも埋まる。そんな一石二鳥の計画実現に日本の力を借りたいというのだ。彼のお米に注ぐ探究心は、日本の炊飯器メーカーが開発顧問に招くほど知られていた。けれど小麦と穀類を主食にしてきた大陸に、お米を丁寧に研いだり洗ったりの和食的な稲作文化はない。ヌカの残る冷飯は匂うから捨ててしまう。大釜の底に残るおこげをオニギリにして、出入りの郵便配達や宅急便の人にふるまう村嶋さんが違和感を感じない訳はない。それでも妻の恵美子さんと料理人の長男が賛同し、三月毎に古巣へ戻れる三年契約で、84歳の村嶋さんは食堂繁盛記の中国編として旅立ったのである。

大阪・堺は江戸期から繁栄を極めて財をなした商人の町で、父親は木造豪邸のアク洗いを業とする裕福な親方だった。それがB29による大空襲で燃え尽き、敗戦を迎えた昭和20年夏に家業を根こそぎ失う。14歳の村嶋さんは一面焼け野原のなかに呆然と立ちすくんでいた。

再開した旧制中学では、軍国主義的な表記を黒く塗りつぶした、古い教科書が平然と使われていた。二年早く生まれたら志願兵として命を捨てたはずの愛国少年は、このとき祖国にもたれかからない人生を自力で切り拓こうと心に誓う。

二十歳で北海道に渡り、炭鉱町の工事現場で監督をして資金を蓄えた。道産子の恵美子さんと所帯をもち、出稼ぎから堺に戻ると小さなお好み屋を開く。折しも朝鮮戦争の休戦で北米産の軍用小麦が、日本にどっと流れこんで安く手に入った。後に屋号とする銀シャリ・白米は、戦時配給制の名残で買うにも米穀通帳に縛られた。開店から半年後、かき集めたお米を丁寧に炊いて出すと評判が立ち、人気食堂への運を掴む。

【樂しみは一碗の中に在り】
「3年がんばって飯屋がダメなら本気で腹を切ると決めて、枕元にいつも日本刀を置いていた」と当時の心持ちを明かす。修業歴のない素人料理だけに毎月一度は家族で老舗料亭に出かけ、限られた懐事情で別々な一品を頼むと、親子で分けあって料亭の味を盗んだ。

人気献立が生まれると食材を厳選。ご飯だけは料亭も真似できない味にしようと、お米の調合と炊き方を研究し尽くした。ホカホカご飯に奥方自慢の卵焼きと息子のお造りなど、一家総出でこしらえる40品以上のおかず天国に魅せられ、最盛期は連日500名が詰めかける学食風な賑わいを見せた。しかも味覚を狂わす香辛料や、粘膜を荒らす硬焼きソバは一切口にせず、休みに必ず六甲山を巡って体を整えるほど用心深い。「仏教の教えには顔施という、笑顔の施しがあるんですよ」と語り、飾り気のない簡素な店にお客はいつも笑みで快く迎えられた。

そんな本業の暖簾をそのまま大手同業者に預けて、北京の国賓用マンションに三人で暮らし南船北馬の実演ツアーが続いた。白髭を蓄えた中国服の彼は、行く先々で「煮飯仙人」として人気を集めた。しかし人生の喫水線に隠れた過去の記憶を忘れはしない。

空襲跡の掘立て小屋で焼け残ったお米をおかゆにして、腹を空かせた近所の人たちに惜しみなくふるまう、父親の姿と笑顔に皆どれだけ生きる勇気がわいたかと。

博学な村嶋さんは十代の喪失感を胸の奥にしまい、明代の『菜根譚』に記された「樂在一碗中」を座右の銘として店に掲げる。空腹が争いの種と知ればこそだ。欲に流されやすい急成長の中国で、そのおさらいに余念がない。我が食堂人生に悔いなし。

板絵キャプション:厚焼き卵500人前を毎日焼く妻の恵美子さんが腱鞘炎になったという逸話も今は笑い話

瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。