きのうの行方 tsuna28 2023su
第19回 オカエリとサヨナラ
題字・板絵・文 瀬戸山玄
ひょんな話から野麦峠の海抜一三四二米にたつ分校跡で、ハイブリッド板芝居を披露することになった。
野麦峠といえば明治から昭和初めまで、飛騨の娘たちが信州岡谷の製糸場をめざして、列をなして峠越えした難所である。絹が輸出の主力だった頃は、繭を煮ながら生糸を引く「糸ひき」が、手先が器用なら相応の稼ぎになったのである。とはいえ早朝から晩まで働きづめで、蒸気にむせかえる職場は摂氏四十度近い。結核を患って故郷に戻れない者もいたという。
山本茂実のノンフィクション作品『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』を下敷きにした映画「あぁ野麦峠」(79年公開)では、健気な13才の糸引き娘を大竹しのぶが熱演して評判となった。江戸街道と呼ばれていたこのルートを、中央本線や高山線が走るまで富山の薬売りなども行き来していたという。右に御嶽、左に乗鞍岳を望む眺めのいい峠の国境で、無数のオカエリとサヨナラが繰り返されてきたわけである。
そんな記憶の地層にたつ集落の分校も子供が減って四十数年前に廃校。いよいよ解体の日が迫っていた。そこへ「あの木造校舎を山の劇場にしよう」と素敵なアイデアを抱く者が現れ、有志を募って危く解体は免れた。そして高山市から有償で譲渡されて保存の道がひらかれた。コロナ禍で呼びかけも難しい2022年夏、150名近くが盆踊りや音楽ライブ、フリマなどに駆けつけ、芸能と縁日を楽しみ分校跡にひと気が戻ったという。後日、「野麦学舎」と看板を掲げて厨房づくりのクラウドファンディングが成功したくらいだから、その想いは単なる失われた時への郷愁ではない。
地方に移住した機動力ある若い世代が木造校舎の保存をバネに、都会では難しい自分たちの共生や対話の場づくりに、知恵をしぼり取り組みだしたのである。五月一日に道路の冬季閉鎖も解かれて、今年の初夏6月24・25日に予定している第二回目の学舎祭では、本格的に劇団を招いてシナリオを書き下ろし、古い学び舎の中の舞台で公演しようと目論んでいる。
記憶の地層を掘ろう
かくして私に託されたのは、その日に集まる親子たちを沸かせる役目だ。ハイブリッド板芝居とは、版画用の板に絵柄を彫って彩色を施し、その下からLEDライトを当てながら効果音なども流す、私が考案した講談風の語り芸の一種だ。さて、演目は何にしようか。飛騨地方にまつわる、重税ゆえの農民一揆「大原騒動」の後日談か。はたまたコロナの渦中に創作したダイオウイカが主人公の「海の歯医者さん」にしようかと明るく悩む。実は東京で五年前に同じような公演を小さなスペースで何度かしたことはある。しかしその後は活動を休止。そして昨夏から生活の拠点を都内から飛騨に移し、まさかのハイブリッド板芝居のチャンスが急に舞い込んだのだ。地価の高い首都圏では、何をやるにもお金がかかる。それに引き換え、過疎が進む地方では、知恵と勇気と人脈があれば、商業主義と一線を画す様々な創作的な営みが叶う。今回はそれを改めて思い知らされた気がする。
余談だが、野麦峠の映画化は1968年頃にも吉永小百合主演で実現寸前だったらしい。ところが雪深い峠での撮影やキャストの多さなどあまりの制作費に断念。分教場跡の黒板には、現地をロケハンで訪れた若き日の吉永小百合と生徒児童たちが一緒に映った記念写真が今も飾られている。後に実現した大竹しのぶ主演の方は興行的にも大成功を収めた作品になった。なんでもやってみないと結果は分からない。
盆踊りはあの世に旅立った者を「オカエリ」と迎え、送り火で「サヨナラ」と帰す夏の風習だ。星空を望めば、新しい野麦学舎の営みは、共にひと時を楽しみ、また散らばり、暮らしの現場に生気を吹き込む喜びの儀式と思えてならない。日本中で過疎が広がっても、抜け道は必ずあるのだ。
板絵キャプション:ある五人家族のために描いた「オカエリ」という画題の板絵(原寸45cm×30cm)
瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。