きのうの行方 tsuna20 2021su
第15回 小児病棟の長い夏
題字・板絵・文 瀬戸山玄
ふだんは当たり前に大声をあげて元気に駆けまわれるのに、コロナ禍のパンデミック時代は公園のベンチにまで使用禁止の黄色テープが張られ、卒業式も入学式も部活も習いごとも半端なまま季節だけが過ぎていく。思い出づくりを愛する子どもたちは今どき、こうした息苦しさや心地悪さとどう折り合っているのだろう。
もう50年以上前の私ごとで恐縮だが、小学二年の夏の小児科病棟での奇妙な集団生活を思いだす。入院した東京・世田谷の国立病院が、ほどなく病棟の改修工事に入り、子どもたち全員が久しく使われていない兵舎のような木造病棟に移された。そこは長い渡り廊下のずっと先にあり、まわりが丈の高い夏草で埋め尽くされた、見るからに元伝染病棟という佇まいだった。そんな隔絶された場所で、小学低学年から高校二年生までが共に暮らす合宿が始まったのだ。
夏の旧式な病棟は風通しを良くするため、網戸の入った窓とドアが開け放たれ、廊下と病室がカーテン一枚で仕切られただけなので、結核の子を除けば子ども同士の行き来もかなり自由だった。あらゆる病気の子が集まる国立の小児科だけに、長期療養中の17歳の女子高生が最年長だった。本好きな彼女はある日、ガリ版刷りで院内文集を出すと決めて、学力もあやふやな30名近い患者に一人ずつ当たり、熱心に作品集めの準備を始めた。そのかいあって彼女は、混沌とした病棟のまとめ役になった。
ある時、彼女がベッドで背中に長い注射針を痛々しく突き立てられて、ルンバール・腰椎穿刺という検査を受けている所に出くわした。涙をこらえながら「セトヤマくん、大丈夫だよ」と痛みに耐える姿に、ただならない難病を抱えていることに気づき、幼心にも衝撃を受けた。
夏の夜は長く消灯も早いので、孤独な病床だった。当直室からかすかに届く医師と看護師との親密な会話に耳を傾け、鈴虫の鳴き声に寂しさが募る夜更けには、いつもどこかで子どもが枕を濡らす気配が伝わってきた。
大人びていくまなざし
一級上の同室少年は平気でウソもつくし、他人の持ち物を黙って使う泣き虫の問題児だった。訳ありの家らしく、2週に一度しか親が顔を見せないのが堪えたらしい。面会は土日午後だけに限られ、食べ物の持込みが禁じられていた。親と引き離されていても、看護師が半裸でつきそう入浴を仲間と楽しむうち、大家族のような柔らかさに包まれて打ち解けた。居場所を見つけた子は、水を得た魚みたいに泳ぐ。病室をこっそり抜け出す者も現れ、夏草の茂みの向こうが格好の探検先になった。広い敷地の研究棟では実験用のヤギやウサギが飼われていて、ポツンと離れた霊安所を見つけるまで時間はかからなかった。小児科といえども生死を垣間見る環境で、家族と隔てられた子どもはませていく。大人の目が届かなければ駆け引きも始まる。子ども同士の夏の肝試しは、やがて霊安所に並ぶ棺桶を覗きにいくという悪戯にエスカレートした。
私の入院は、栄養失調による心臓疾患を治すためだった。名医といわれた小児科部長の指導のもと、極端な偏食グセをそっくり初期化する矯正に近い処置が、およそふた月続いた。ほぼ退院も決まりそうな矢先、夕飯を残したことが発覚、たちまち1週間の「出所」延期を告げられた。今と比べると医学も素朴だし、精一杯の荒療治が効いて偏食がなくなり、体力もついていった。しかし、それは逆境に耐えさえすれば大人が喜ぶという、間違ったやせ我慢を植えつけもした。従順なだけの少年に成り下がれば、アラン・シリトーの『長距離ランナーの孤独』の主人公のような、大人の期待を寸前で裏切る叛逆はもうできない。
テレビ局に勤める父親が、退院間際に配られたガリ版刷り文集を家で読むなり、めずらしく激怒した。
「お前はこんなくだらん事しか、書けんのか!」と。古い病棟にテレビが無いことの不平ばかり並べたてていたのだ。定期検診の折に真新しくなった小児病棟を訪ねると、17歳の彼女の姿はそこにもうなかった。無事に退院したのか、病状悪化で旅だってしまったのか。その気がかりな行方が、心の隅に古傷のように残ったまま今も消えない。
板絵キャプション:「絶望なんて、何の役にも立たないよ」と乙女がいった。
瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。