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きのうの行方 tsuna18 2020w

第14回 月夜の椿山まつり

題字・板絵・文 瀬戸山玄

野山に棲む夜行性のアカネズミには、食べものをあちこちに隠す妙なクセがある。シッポを除けば体長9㎝足らずなのに脚が丈夫で、日に数㎞も移動しながら好物の木の実や虫を集める。でも、せっかく集めたクルミやドングリやツバキの実を、巣穴や落葉の下に隠したままよく忘れてしまう。やがてそんな忘れモノが芽吹いて、動けない種たちを遠くへとばらまくことになる。こうした愛嬌ものの素朴な種まきキャラは、万一に備えてエサをあちこちに蓄えておく野生小動物の用心らしいが、人の心までホンワカくすぐる。

ツバキといえば南は長崎の五島列島から北は青森の夏泊半島まで、海沿いに群生するヤブツバキの花が美しい。地中にしっかり根を張るから強風と塩害に強く、種は食用や整髪の油が搾れるので、沿岸に暮らす人々には一石三鳥のありがたい生活の木なのだ。日本沿岸に生態系を北上させたヤブツバキベルトも、人知れずアカネズミの元気な夜歩きと健忘症の恩恵に、あやかってきたのではないだろうか。

さて、貧しいネパールで辺境の女性や弱者を支える仕事づくりに長年努めてきたネパリ・バザーロが、ヤブツバキと切ってもきれないご縁でいま深く結ばれているのは周知の通り。2011年3月の東日本大震災直後から、横浜の本社から車で石巻まで500㎞もの道のりを被災地支援に通いつめ、避難先の窮状にストレスを抱える人々とプランターで野菜づくりを試みたり、温泉と食事に招待してつかの間の憩いでもてなしはじめたのが5月。あえて小規模な仮設住宅や支援の届きにくい孤立した地域に目を向けたのは、ネパールで培われた学びが大きい。独自なアプローチで人々の苦境により添うネパリの土屋春代さんと丑久保完二さんが、ずっと心を砕いたのは津波で離散した地域への種まき、生きる糧をえる起業のあと押しだった。支援要請をうけたとはいえ、限られた資金源でスモールビジネスを過疎地に根づかせるのは容易でない。まずは地場物産の良さに気づき、それを活かす術を誰かが身につけ、趣旨に共感してもらえる都会のファンと販路につなげないといけない。視点を変えるとそれは、失敗の許されぬ国内版フェアトレードへの初挑戦でもあった。

人の動きが鈍る東北の冬を前に2011年秋、いくつもの選択肢の中から地場の椿油を蘇らせるプロジェクトが陸前高田で始まった。江戸期から宿場と漁業で栄えたこの気仙地方には、屋敷林とセットになった椿油の保険的な食文化の名残があったからだ。

「遠洋マグロ漁の盛んなむかしは、もし不漁でも、家でしぼった椿油を町で売れば一家が飢えずにすむ。広田湾の漁師の妻はみなそうしていた」と老婆が笑う。あの「奇跡の一本松」を有名にした高田松原も実は、渚ぞいの浜街道をいく旅人や田畑を砂と強風から守る、海岸線2㎞に植林された緑の防壁だった。しかし想像を超える大津波は、松林を根こそぎ倒して襲いかかり1700名余の命を奪った。かたや漁港の後背地を守ってきたヤブツバキの屋敷林は、すでに大半が実のなりにくい老木ながら、しぶとく生き残った。そこでネパリ側は手はじめに全国椿サミットに足を運び、各地の椿油生産者たちから知恵を借りて、安全な用地探しと工事業者選びと資金集めに入った。

百年前の島おこし

2012年秋、ついに製油工房「椿のみち」を立ちあげた。「当初タネの選別は根気強い◯◯さん、搾りは何々さんがいいと、支える人の顔を思い浮かべて工房づくりがしたかった」と土屋さんはいう。搾油機は山口県萩に製造元を訪ね、誰にでも扱えて点検も楽な小さいタイプを選んだ。障害者でも安心して携われる手仕事の場が整い、いざ開始の段で、事態が急変。ネパリが経営まで担う運びになった。

けれど地元で集められる椿の実は限られ、よその産地に提供を呼びかけないと雇用継続がきびしい。原料のみならず苗木も入手しようと、ひと足早く渡ったのが椿油の生産日本一という伊豆の利島だった。大むかしの海底火山の隆起が生んだ小島は、亀の甲羅のような形をして代々300人程が4・1㎢に暮らす。かつて年貢を収められるような生業がなく、島人は絹や塩とかを無理やり作らされた。噴火のない休火山は幸い、地表に腐葉土が堆積してやがて肥沃になった。そこで防風のために椿を植え、細々と搾られた椿油が江戸後期には主要産物となる。本当の話、ヤブツバキは生長がおそい。でも接木の苗なら樹齢7年ほどで実が結ぶとわかり、島が丸ごと椿林と化したのは大正期。昭和になると全椿油の45%を占めていた長崎県産を抜き、利島だけで生産高が日本一となった。

伝統的なやり方は晩秋の椿によじ登って実をもぎ、庭先で天日干しして自然と実がはぜるのを待つ。利島の勤勉さは3月まで続く現場で、毎夏きれいに下草を刈って枯葉も焼いて風通しにこだわった。農作業モノレールをみかん山なみに巡らせて手入れが楽になると、メジロやウグイスが花の蜜に群がり受粉をたすけて実つきが増えた。椿の種実収量は利島で近年1㌃あたり60㎏。それが椿油18ℓとなり、5万5千円の身入りとなる励みの源。かたや長崎の五島列島の椿畑は、リンゴ畑の発想で採取しやすい丈に揃えて効率を高める。離島の生業も改良をかさねたら、環境となじむ辺境の光になるのだ。ネパリが東北で挑んだ新しい椿油の可能性も、こうした明治期から防災植物と共に歩んだ、利島の執念と汗の結晶をなぞらえたといってよい。

「ゆっくり、小さく、続けること」

それからも土屋さんたちは、小さなアカネズミみたいに各地で種まきを続けた。そこでは被災者の冬じたくに電気敷毛布900枚を配る思いやりも忘れない。東北との絆が深まる2013年、隠れた地元名品とコラボがかない、ついに第6次産業化した。女性5名が手がける酸化しにくい非加熱の椿油が、良質な化粧品を生んだのだ。ネパリ初の化粧品の開発にあたり、高田伝統の自根胡瓜や北限の柚子や三陸わかめのエキス、椿の葉やネパール産の天然ハチミツまで加えて品質をとことん磨く。エスペラント語で「共に」を意味するブランド名Kūneは、協業者ばかりか顧客まで共に手をたずさえ、一流メーカーに負けないモノづくりに挑んだ心意気にちなむ。その後、岩手県奥州産の米から作る(株)ファーメンステーションの天然エタノールと、同県野田村産の海塩に助けられてリキッドソープ類まで品目がそろう。一品一品に将来へむけた被災地第一と、悲劇にも負けず生活再建を願う補助線と、親身なボランティア活動の夢が描かれている。そして地道な歩みに協賛を惜しまない、全国ネパリ・ファンの連携もまた忘れるわけにいかない。

チョコレート工房のひみつ

椿油づくりが軌道にのった2017年春、力をつけた「アカネズミ」は、いくつもの地域再生の動きを輪でつなぐ大胆な試みに乗りだした。中学生の頃に土屋さんが初めてアジアに目をむけた入り口、沖縄への旅から広がったカカオプロジェクトである。カカオの木はふつう、南インドやアフリカなど高温多湿な平均気温30度前後の熱帯でないと育たない。そのカカオを温暖化が進む沖縄でゆっくり育てて製品化を模索し、台風常襲の不遇な最南端県の再生モデルの一つにしようというのだ。その狙いは障害のある人々まで受け入れ、支え合いにゆとりをもたらすこと。有機栽培のカカオは、皮が家畜のエサや肥料になり、椿と同じく生き方まで大きく広げる植物だ。沖縄で換金性の高いカカオ栽培農家になれたら、発酵させたカカオ豆を乾燥保存できて出荷時期も広がり、サトウキビ農園みたいに気象災害と不作に悩まされずに済む。それでいて上質な砂糖もチョコづくりには欠かせず、黒糖の食味へのモチベーションが自然と高められる。沖縄最後の「七つ釜製法」をうけつぐ、西平黒糖との出会いは遅れてやってきた新チョコづくりに弾みをつけた。本部町で亡き父の教えを忠実に守り、今もキビのしぼり汁を薪釜でたく西平姉妹の伝統製糖は、東北の愚直なモノづくりと相通ずる心があって熱を帯びた。

かくして大災害から丸10年が目前の2019年夏。ネパリのチョコづくりがカカオ栽培は沖縄、加工は陸前高田の製油工房・椿のみちという南北をまたぐ図ではじまった。規模が小さければ妥協のないモノづくりもかなう、ネパリの復興支援と地域社会の生存戦略は、壊れかけた世界の行方に明るい道筋を描きだす。各国がコロナ禍に揺れるいま、「類が友を呼ぶ」というありふれた言葉が、海霧を払う風のように心に響くのはたぶん私だけではあるまい。

板絵キャプション:左にサトウキビ、右上にカカオの実り、遠くには利島となぜかヒマラヤがそびえる月夜の晩。人々が丘のうえで椿まつりの踊りをいつまでも楽しむ日を夢見る。

瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。