きのうの行方 tsuna2 2015w
第4回 山ゆりの盆ダンス
題字・絵・文 瀬戸山玄
60年前の東京・上野駅界隈には、ストリートチルドレンが大勢たむろしていたという。ねぐらや定職もない彼ら浮浪児には、10万人の命を一夜にして奪った昭和20年3月の東京大空襲で、身寄りを亡くした戦災孤児も多く混じっていた。食うに困れば心ならずも一部は置引などを働いてしのぐしかない。過酷な都会暮らしはその後どうなったのだろう。
「飛騨慈光園」が山国の岐阜県高山市に誕生したのもまさに昭和30年。戦災孤児をよこしまな道に迷わせまいと、高山仏教会が中心になって浄財を募り、お寺の敷地に養護施設を整えようと2年がかりで奮闘したのだ。少年少女12名が早速収容されるものの、親の山仕事や貧しさから一緒に暮らせない子らも加わり、入所者はたちまち50名にも膨らんで増築を急いだ。敗戦の余波で自立できない子どもたちが時代から取り残されかけていたのだ。
昨夏、一週間かけて地元で撮影したこの社会福祉法人「飛騨慈光会」の紹介映画の編集がまもなく終わる。それが済むとピアノで音入れしてもらっていよいよ完成だ。担当してもらう谷川賢作さんはNHKの特集番組などにも曲をつけるベテランのジャズピアニストで、即興演奏もことのほかうまい。慈光会の歩みは手塚治虫さんのテレビアニメ『鉄腕アトム』が、爆発的な人気を博した頃とちょうど重なる。それもあって子どもたちへの応援歌という想いから、ピアノだけでアニメ主題歌を一曲かぶせることに決めた。「空をこえて、ラララ星のかなた〜♪」で始まる懐かしい歌詞が、三番では「町角に、ラララ海のそこに」と近づいてくる。そんな作詞がほかでもない彼の父で詩人の谷川俊太郎さんによるのも奇縁というしかない。
この福祉団体が地域の抱える悩みは地域をあげて自力で解決しようと、小石を一つ一つ積み上げるように60年かけて互助精神を磨いてきた点は特筆に値する。いまや個人会員約一万五千人と法人団体430社強を擁する後援会が飛騨全域で結ばれ、入所者550名と通いの1200名に生きる場を与える強力なエンジンになっている。面積なら東京都に匹敵するほど広い高山市も、森林率98パーセントで人口はわずか12万人足らず。多くの支援を生む密着と共感の底力は、当地ならではの民度の高さと言ってよい。
差異が溶けあう夕べ
域内に散らばる九施設の中でも初めて重度障害児を18歳まで受け入れた山ゆり学園は、スタッフにとっても観察眼を磨く気づきの場だった。昭和42年の開所当時、言葉でのコミュニケーションが難しく、食事と排泄や入浴を自然に行えるまでの道のりは険しく、実の親以上に根気強く愛情を注がねばならなかった。まして持病のてんかん発作を突然ひき起こす子も多く、医師との連携が欠かせない現場でパニックに陥らず適切な対応が求められた。やがて大人になっても暮らせる場が作られ、職業訓練をめざすパン工房やジャムづくり用の広大なブルーベリー園まで整っていく。
撮影中に心を鷲づかみにされたのが、山ゆり学園で8月末に催される恒例の盆踊り大会だった。入所者とスタッフと保護者や里親は勿論のこと、近隣の養護施設の元気な少年少女から地元町内会、さらにクルマ椅子の老若男女もよそから詰めかけ、踊りと縁日を一緒くたになって楽しむ。これまで見てきたどこの盆踊りよりも、身体的な不自由さを忘れて和み、人生模様のルツボと化して一つに溶けあっていた。
しかも偶然つくりだされた訳でない。親の虐待を逃れて施設に身をおく者や先天的な障害をおう者たち、それをケアする愛情深いプロのスタッフが互いに時間をかけて信頼関係を結び、地域に欠かせぬ大切な受容の場だと認められているからだ。上映時間51分の作品中、光揺らめく盆ダンスが「いろんな人がいても良い」というメッセージを託す、ハイライトになったのは言うまでもない。
絵キャプション:宮城まり子の『ガード下の靴磨き』も流行った昭和30年。
瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。