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きのうの行方 tsuna13 2019a

第12回 「続きは、またあした!」

題字・板絵・文 瀬戸山玄

路地裏の紙芝居が東京で全盛をきわめた1950年代。江戸川区内を自転車でくまなく巡っていたという、元紙芝居屋の老夫婦宅をバブル期に訪ねたことがある。家にテレビもなく娯楽に飢えていた時代だけに、カタギの仕事より実入りが良く、職人や店員から転職する者もいて都内にかるく千人をこす紙芝居屋がいたという。文鳥を愛でながら下町でつましく暮らす、そんな好々爺からまさかの武勇伝を聞かされて絶句した。

「街頭紙芝居には縄張りや劇画巡回の順番までオキテがあったけど、子どもを一杯集められると結構なお金になる。それで人気作品を奪いあったりするんです。私もタチの悪い同業者と一度、千葉と東京をまたぐ市川橋のうえで決闘したことがありました」

連続もの劇画セットを貸元がまわす仕組みは映画のフィルム配給に似ているが、手描きの絵なので数が足らず争いの火種になったらしい。それもあってか肝心な山場にくると、いつもの殺し文句「今日はここまで、つづきはまた明日」で語りはひと休み。がっかりする少年少女を尻目に、主人は自転車荷台から駄菓子を取りだしてすかさず商売開始。1個5円10円のスモモ飴や酢コンブやソース煎餅を商う小銭ビジネスが、はたして生業になるかと思う方もいるだろう。けれども横丁は子どもで溢れ返っていた。噺が受ければ飲食物が飛ぶよう売れるのは歌舞伎や落語と同じ。やはり集客の原点は、想像をかきたてる突飛な劇画と話芸のうまさだろう。やがてテレビ番組の隆盛とあいまって劇画も印刷になり、教材として幼稚園などで普及するとプロの紙芝居屋は町から姿を消していく。

「原爆の図」という紙芝居

すでに遠い昔のアナログ化石に思える紙芝居に一石を投じたのが、30年近く日本に暮らす詩人アーサー・ビナードだ。絵本作家としても活躍する彼が初めて手がけた紙芝居『ちっちゃな声』は、広島に棲む猫を主人公にした15枚組の新作である。版元は幼児教育用の紙芝居を手がける童心社。1957年の創業から通算2377作めだというから、生の語り芸には賞味期限など無用なのかもしれない。

この5月、ビナードの肉声が聴きたくて、埼玉県東松山市の『原爆の図 丸木美術館』まで新作実演会にでかけた。この美術館は丸木位里と妻の俊がたがいの墨絵的画力と油画的技法を用い、8月6日の広島の惨状を渾身で描いた「原爆の図」が常設展示されている。今は亡き画家夫婦が原爆投下から三日後の広島に救援に入り、そこでまのあたりにした真相を後世に伝えようと、何年もかけてパノラミックな大作にしたものだ。一枚が高さ7・2m幅1・8mと桁外れにでかい。15枚のそれを見やすく屏風画のようにつなぎ、反核を訴えながら全国や海外で巡回展を行ったのである。

ビナードは原爆の悲劇を刻む丸木美術館に何度と足を運び、眺めるうちに「これは鑑賞した者を地獄絵の中に引き込む巨大な紙芝居だ」と閃いたという。そして突拍子もないアイデアを思いつく。一見、墨流しのような連作の屏風画には、犬や猫など町の動物や年寄りや幼子と、逃げまどったり火炎に包まれたりする混乱が等身大で細かく描きこまれている。彼は画像研究者の手を借りてそれらをデジタル処理し、場面を再構成しながら誰も挑んだことのない異色ドキュメントを紡ごうとしたのだ。原作の想いに寄りそい、著作権の了解も得て7年目にして物語が絵と共鳴しあい発表にこぎ着けた。時流にもまれた74年前の丸木夫妻の大作を、21世紀の路上で再現できるまでに煮詰めたのである。

当日、会場は150名強の男女でぎっしり埋まり、固唾を飲んで20分ほどの実演を見守った。昭和の街頭紙芝居に親しんだ団塊世代らしき観客たちを、穏やかな詩人の声が静々と波のように包み込んでいく。不死身の和製メディアが近年KAMISIBAIとして海を渡れたのも、朗読や説教にもまさる言霊の力に、人々が触れられる数少ない肉声の〝芝居〟だからだろう。

板絵キャプション:左端は若い頃から美術に明け暮れたモダンガールの丸木俊さん

瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。