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きのうの行方 tsuna9 2018a

第10回 人の村の唄伝え

題字・板絵・文 瀬戸山玄

秩父に住むイルマ・オスノさんは、南米の少数言語を日本に伝える語部だ。ペルー中央の標高2300mの僻村で11歳まで、ケチュア語という文字の無い古代インカの言葉と共に生きてきたという。先住民族の血をひく百人の村には電気と水がなく、彼女も幼い頃から片道30分をかけて、朝一番に沢まで水汲みにいった。アルパカと牛と羊、鶏と食用モルモットを飼い、夜はローソクを灯して食卓を囲んだ。真夏の2月3月が過ぎるとトウモロコシを刈り、さらに高地で作るジャガイモと大麦が収穫期に入ると、一家は山の仮小屋で寝起きした。文明から隔絶した感の自給自足の村で子供たちを魅了したのは、寓話的世界に導く親戚のおじいさんの巧みな話芸だった。月夜の晩、庭先で狐やネズミの物語を昔の言葉で聞かすと、集まった6、7名の子の頭の中は幻想に染まった。
当時、村でスペイン語を読み書きできる大人は男で3割、女たちはケチュア語しか話せない。文字を介さず共同体が不自由なく営めたのも、実は代々伝わる300曲近い唄の賜物だった。大麦の収穫期はどの花が咲き、それがどんな植物か。天候の吉凶を占い、収穫は月夜が良いという唄。また辛い仕事につく男たちを横で励ます女たちの労働歌や教訓歌。独特な甲高い歌声には祈りと多様な物語が込められ、どれも自然との交流を促すメタファー・暗喩だった。祭りの度に歌われて、譜面がなくとも子供は覚えた。イルマさんが初めて本に触れたのは、キリストの磔図が描かれた簡単なスペイン語聖書で、神父も常駐しない寂れたカトリック教会の棚にあった。小学校にあがると町から派遣された先生に初めてスペイン語を教わるけど、成果はさっぱり。ケチュア語を全然解さぬ先生から征服者のことばを習うことに密かな抵抗感があったという。

年に数度の市が近くで催されると、農民は互いに作物を持ち寄り、物々交換で辺境の生活に潤いをもたらした。焼きもの師も手作りの土鍋と鍋一杯分の大麦を交換できた。現金の存在すら忘れてしまう素朴な日々が、僻村に商店が登場するまで続いた。そんなある日、バスで半日かかる州都の市場で、少女は買い物を初めて体験。悪い商人に騙されまいと緊張する余り、「買えたのは結局、村で見慣れたマッチでした」と褐色の顔が笑う。

【精霊たちよ、いずこへ】
唄の村に異変が起きたのは1980年代のこと。毛沢東派の極左集団センデロルミノッソが、多くの村で勢力を伸ばすと唄によるプロパガンダを始めた。歌声に奮いたつ純朴な先住民たちは、巧みな政治工作の手法に心をたちまち奪われた。怒れる男たちは横暴な地主層と死をも恐れず戦い、流血沙汰が続いて治安は悪くなる一方。迫りくる身の危険に彼女は、首都リマに姉を頼って12歳で移住した。先住民差別にあいながらも、幼子好きなイルマさんは篤志家の元で住込みベビーシッターの職を得る。やがてその家族から愛されるようになり、学資援助を受けて大学まで進むことになる。

小学校教員として働きだして7年が過ぎた頃、町のレコード店で奇跡のような出会いが待っていた。それはギター修業でリマに滞在中の若い日本人だった。おもむろに交際が始まり07年に来日した時、夫23歳、妻33歳。生後7ヶ月の娘を連れていた。町を歩きながら唄を歌うと職務質問に遭うような日本にも幾らか慣れ、学童保育施設で掃除機を毎日かけていると突如、唄心が蘇って曲想が湧いた。アンデスの男たちは楽器を手にして精霊の住む滝に夜でかけ、瀑布音に包まれると唄が湧くのだという。娘の成長と共に交流の輪は広がり、今や法政大と早稲田大でスペイン語講師として働く。この春8年ぶりに帰郷したイルマさんは、80歳の母がスマホを扱う姿に驚き土着文化の消滅を予感。以来、ケチュア語を使う譜面のない音楽活動に火がついた。

「私が日本に来られたのは本当に幸運なことでした。互いを支えあうファルカス村での大切な時間と、自分を失わずに生きられる喜びを唄にこめて伝えていきたいんです」

板絵キャプション:物語に満ちあふれたファルカス村の脳内想像図

瀬戸山玄(せとやまふかし)
写真家・ノンフィクション作家
1953年鹿児島県生まれ。写真作法を若き日の荒木経惟氏に学び、写真家・ノンフィクション作家として活躍。テーマは風土と人間。食や生活をめぐる取材を続け著書多数。近年は板絵制作に邁進中。芸術家や職人などの現場を撮り続け、ドキュメンタリストを名乗る。東北の取材は20年以上続けている。