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西平黒糖物語 tsuna12 2019s

チョコづくり 未来づくり 沖縄産カカオの夢

西平黒糖物語 ~受け継がれる自慢の手づくり黒糖~

文・ネパリ・バザーロ会長 土屋春代

沖縄でカカオを栽培し、チョコレートなどのカカオ製品をつくる夢を描いています。熱帯でなければ育たないと言われるカカオが沖縄で育ったら!「沖縄カカオプロジェクト」が始まっています。

黒糖生産者を求めて

カカオ製品を作るために使用する砂糖はもちろん沖縄特産の黒糖と決め、生産者を探しました。私たちらしく、小規模で手づくり、顔の見える生産者を求めて。

沖縄本島でも市街地を離れるとサトウキビ畑を見かけますが、特に離島に行くと、島の至る所に広がっています。流石は本場だと安心し、黒糖の生産者探しがこれほど難航するとは予想していませんでした。

黒糖の製法は江戸時代初期に中国から伝わり、栄養価の高い黒糖はヌチグスイ(命薬)と呼ばれ、薬として飲まれていたこともあるそうです。

昔は各地にたくさんあった製糖工場が集約され、現在は3企業と1団体が8つの離島工場で製糖しています。日産数十トンから数百トンの製造規模で、思い描いていたような生産者とはかけ離れています。しかも、直接購入できず、代理店を通すことになります。

一方、島で個人的に製糖しているところもあるにはあって、顔が見えてお付き合いを深める楽しさがありますが、量が足りません。決定しなければならない時間が近づき、8つの島の黒糖の味と性質を比べ、沖縄の黒糖なのだからと、或る島の黒糖に決めかけました。

う~ん、しかし…。カカオと黒糖だけのシンプルでピュアなチョコレートを作るつもりなので、やはり、黒糖の生産者にもこだわりたい。諦めの悪さから間際まであがき、ついに見つけました!何と、いつも行く名護市の隣、本部町にその工場はありました。昔ながらの製糖方法の七ツ釜製法を受け継ぎ、父娘二代での黒糖づくりをしてきた西平黒糖です!

孤軍奮闘の黒糖づくり

西平賀盛さんは子どもの頃に食べた味が忘れられず、1960年代には姿を消した薪釜での製法を復活させたいと、1971年に西平黒糖を創業しました。指導してくれる先達のいない古来の七ツ釜製法。西平さんは試行錯誤を重ね設備を工夫して7年あまり。ようやく求めていた味を出せるようになりました。

しかし、苦労は製法だけではありませんでした。丁度、創業の頃、県は離島での黒糖生産を奨励し、産業振興策として資金援助をすることを決定しました。資金援助も技術援助も得られない賀盛さんの孤軍奮闘の黒糖づくり。それでも諦めず妥協せず理想の黒糖を追い求める父親の背中を娘たちは見て育ちました。現代表の具志堅敦子さんと、工場長の荻堂清子さん姉妹は6年前、老いた父に事業を継がせて欲しいと訴えました。伝統製糖の仕事は重労働です。誰にもやらせたくない。まして、女性には到底無理と賀盛さんは首を縦に振りませんでした。

「この味を守って欲しい、止めないで欲しい」というたくさんのお客様の声に背中を押されて諦めずに懇願する娘たちに、ついに頑固な賀盛さんも折れました。

父の教えを胸に

ところが、難題が待ち受けていました。高齢化と宅地化で契約農家や栽培面積が減り、原料確保に不安が生じていたのです。敦子さんと清子さんは賀盛さんの友人に相談しました。そして、4年前にまた、賀盛さんに許しを請い土地を借り、関係者やスタッフの協力も得てサトウキビの栽培を始めました。その初収穫を見ることなく賀盛さんは亡くなりました。「仕事をしていると、父ならこう言うだろう、ああするだろうと声が聞こえるの」と、畑の中で呟いた清子さん。お二人から父親への感謝、尊敬、深い愛情を感じました。

口に入れる食物は愛情から生まれるものが美味しくて体にも良いと信じています。最高の黒糖に出会えました!

≪釜炊きと濾過を7回繰り返す「七ツ釜製法」≫

不純物を手作業で取り除きながら薪釜で炊き、煮詰めては濾過を5回繰り返し、調節しやすいガス釜で2回炊いて濾過し、仕上げる。とても時間と手間がかかり、この製法を守るのは西平黒糖だけ。

サトウキビの圧搾。その汁を濾して釜に入れる。