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カカオの仕事と私たち tsuna19 2021s

チョコづくり 未来づくり 沖縄産カカオの夢

カカオの仕事と私たち ~沖縄からのメッセージ~

文・土屋春代

沖縄カカオプロジェクトを構想したのは沖縄県名護市にあるネクストステージ沖縄合同会社代表・金城恵子さんとの出会いがきっかけでした。長年ネパールから輸入していたスパイスの中でチリパウダーの入手が困難になり、国産で手当てすることに決め、それならずっと関心をもち続け、いつか仕事として関わりたいと願っていた沖縄で生産者を探そうとして金城さんと出会いました。
徐々に消えつつある沖縄伝統野菜を守り、仕事を得にくい障がい者や高齢者などの雇用機会を創出し、農業の六次産業化を目指していた金城さんの経営理念に賛同し、島唐辛子だけでなく、他の素材でのコラボレーション企画もしたいと、ネパールの蜂蜜とやんばるや伊江島の落花生を混ぜた「ハニーピーナッツ」も作りました。その先を考えた時、カカオを沖縄で栽培できたら沖縄の新しい産業になり、商品の幅も広がると意見が一致し「沖縄カカオプロジェクト」を2017年5月に起ち上げました。

金城恵子さんの家族と沖縄戦

金城恵子さんの父、金城太郎さんは那覇市の西方30~40キロにある渡嘉敷島、座間味島など大小20ほどの島々が連なる慶良間諸島の慶留間島出身です。進貢貿易をして琉球王朝に税を納めていた300年以上続く家系です。
米軍は1945年3月26日に慶良間諸島に上陸し、沖縄の凄惨な地上戦はここから始まりました。
太郎さんと祖父の松太郎さんは南方の戦地に出征していて、島に残った太郎さんの弟、秀夫さんは銃撃戦で戦死、残された家族の祖母や曾祖父母、3名が島のほかの親族とともに集団自死をするなど沖縄戦で壮絶な運命を辿りました。慶良間諸島合わせて約600人、その中で慶留間島はおよそ100人の島民の中、53名が強制集団死を遂げました。
戦後、浦添市に移る時に持参した仏壇にはたくさんの弾丸貫通の穴があいているそうです。祖父の松太郎さんは、長男も戦死したものと思い養子をとりましたが戦後数年して太郎さんは生還し、家庭を持ち1954年、二番目の子として長女の恵子さんが生まれました。

大阪時代の金城恵子さん

恵子さんは企画力に優れ決断が早く、行動力があり素晴らしい経営者です。ネクストステージ沖縄の加工場に通ってくる「ゆいとぴあ(下記参照)」のメンバーの皆さんに的確に指示をしながら、少ない人数なので経理や配達、難しい作業、機械のメンテナンスまで何でもします。そんな恵子さんが2011年にネクストステージを起ち上げるまで何をされていたのかとても興味がありました。
結婚後、大阪で夫と内装工事会社を経営していた恵子さん。39歳で一人娘の真央さんが3歳の時、夫はガンで亡くなりました。突然の余命宣告後、恵子さんは直ぐに動き出しました。メキシコまで夫と娘を連れて学びに行き習得した食事療法などを実践し2年間延命しました。
夫亡き後、社員を路頭に迷わすことはできないと経営を引継ぎ、20年間経営を続けました。主に大手ゼネコンのマンション建設の二次下請けで仕事はあるものの制約が厳しく、将来を考えホテルや店舗、一般住宅リフォームなどに経営の柱を徐々に移しました。沖縄で暮らす高齢の母親も心配で、いつか沖縄に帰ろうと準備を進め、リーマンショック後会社を独立させて手を引き、2010年、沖縄に戻りました。
男社会の建設業界で社員も男性ばかりの会社を長年切り盛りし、内装工事という建物で最後に回ってくる部分のため、期日がいつも逼迫している仕事に追われ、幼い娘も育てつつどれほど必死だったかと想像します。
カカオプロジェクトの現地を知ってもらおうと2019年2月にツアーを実施しました。一日の行程を終えた交流会で長年の付き合いの参加者たちと私は女性同士の他愛ないおしゃべりに興じていました。その会話に恵子さんが“カルチャーショック”を受けていたと後で真央さんから聞き驚きました。怒っている?と時には感じることもある言葉のきつさ、余計な会話がなくサッサと事を進めるスタイルに、余分なおしゃべりの方が多い私は戸惑うことが間々ありましたが、その言葉を聞き得心しました。それでも、真央さん曰く「最近、かなり人間が丸くなった」そうですが。

今の仕事の原点

恵子さんは、大阪で大手ゼネコンの二次下請けから少しずつ脱皮しながら将来の模索をしていた頃、大阪府募集事業「都市の空きスペースを活用した生活創造ビジネスマーケティング」に「古民家の再興で畑とカフェの運営」という事業計画で応募し選ばれました。場所は大阪府と奈良の県境で、障がい者や高齢者やひとり親のスタッフたちと2004年事業を開始しました。2009年、働いていたスタッフ全員を次の仕事場に繋げて事業を閉じました。
この時の経験と実績が原点となり、沖縄に戻り障がい者や高齢者の働ける仕事場をつくり、沖縄伝統野菜を活かした農業の六次産業化を目指そうと決意しました。

ネクストステージ沖縄合同会社起業

障がい者の雇用問題に長年取組んでいる大阪府中小企業家同友会の仲間だった矢野紙器(株)代表・矢野さんを通して、沖縄から初めて全国就労支援ネットワーク理事長になった社会福祉法人「名護学院」の理事長・崎濱さんと出会い、名護学院の就労支援所、生活介護事業所とのネットワークが築けました。
沖縄に戻り、いよいよ温めていた事業計画を実行に移す時がきました。2011年6月ネクストステージ沖縄合同会社を起業。よもぎ、落花生、パパイヤ、島人参、島唐辛子などの沖縄の誇る野菜を農家から買い取ったり、自らハウスで栽培したり、そして、加工は障がいのある人々と共に働き、製品の販売までトータルな事業で地域に貢献しつつ進んでいます。生産性は決して高くはないが、仕事は楽しいと笑います。
沖縄カカオプロジェクトで担当するカカオ選別、ロースト、カカオニブづくりで得る収入は今ではネクストステージ沖縄の大事な支えになっています。皆が仕事に慣れてきたので、これからはカカオニブを使ったお菓子づくりなどオリジナル製品も開発しようと意気込んでいます。
頼もしい相棒の恵子さん、共に頑張って、沖縄カカオプロジェクトを次世代につなげていきましょう!


写真左より、ネクストステージの金城さん、ネパリ・バザーロの土屋春代、丑久保完二。

≪カカオの仕事を担う仲間たち≫

社会福祉法人名護学院は地域があまりに広範囲で組織も大きくなったため、よりきめ細かい支援を目指し、本部町に拠点をおく社会福祉法人アタイハートネットワークを2020年10月設立しました。その事業所の「ゆいとぴあ」と「かふぅー屋」にネクストステージ沖縄を通してカカオの仕事をお願いしています。

在宅支援センターゆいとぴあ

ネクストステージの加工場でカカオ豆の選別、ロースト、ニブ加工(粉砕&最終選別)を担当します。週に4日、本部町の「ゆいとぴあ」から職員・上間朋子さん運転の車でメンバー4名の方達が通っています。
上間さんは学生時代からいつか福祉の仕事をしたいと思っていました。社会福祉法人名護学院(現・社会福祉法人アタイハートネットワーク)の募集を知り職員になって5年ですが、施設外就労は初めてでホームグラウンドと違って最初は緊張感があったと言われます。でも、メンバーの皆さんが生き生きと働き、自信をつける様子にとても励まされるそうです。確かに、カカオ作業を開始した2019年春の頃は皆さんぎこちない動作でしたが、1年以上経ちすっかり作業を習得し、てきぱきとプロの仕事ぶりを見せて、説明も的確です。年間を通して絶えないカカオの仕事は基礎づくりになり、季節ごとに入る他の仕事にも影響して、実力が上がったそうです。会う度にたくましくなる皆さん、これからもよろしくお願いします!

かふぅー屋

カカオ豆の選別が間に合わなくなってきたこともあり、金城恵子さんはカカオ選別の仕事を「かふぅー屋」さんにも依頼し、沖縄カカオプロジェクトに新しい仲間が増えました。
所長の金城孝之さんは「生活介護事業なのでメンバーの方達は介護度が高いが、就労支援に移行できるように力を入れています。仕事に困難を感じ、就労支援事業所から移籍してきた人が7割を占めますが、逆に、力をつけて就労支援施設に移籍する人もいます。そのように生活介護と就労支援の中間の役割ができればと思っています。皆、仕事を喜び、必要としています。カカオの仕事は年間を通してあり、安定しているので嬉しい」と、言われます。

 

≪沖縄の歴史を心に刻んで≫

強制集団死「集団自決」

1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃で火蓋を切った太平洋戦争。その末期、いよいよ米軍の圧倒的戦力による猛攻撃が日本に迫る中、本土防衛のための捨て石とされ、一日でも多く時間を稼ぎ食い止めるため、持久戦を強いられた沖縄。あらゆる地獄を集めたようなと形容される凄まじい地上戦が繰り広げられました。砲爆撃による死者だけでなく、日本軍による住民虐殺、餓死、マラリヤ死。「軍官民共生共死」という軍の方針で多くの県民は生きる道を断たれ強制集団死「集団自決」へと追い詰められました。
参考:謝花直美著『証言 沖縄「集団自決」慶良間諸島で何が起きたか』、林博史著『沖縄戦が問うもの』


鎮魂に植えられた寒緋桜。

沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

沖縄戦で闘い1945年6月13日に自決した大田實海軍司令官が自決の一週間前に、本土の海軍次官に送った電文の結びの言葉です。沖縄県民の実情を見過ごせず、戦後の特別の配慮を訴える電文でした。

電文内容要約:全ての青壮年男子を防衛召集に捧げ、残りの老幼婦女子は砲爆撃で家屋と全財産を焼かれ、さらなる爆撃、風雨に晒され逃げまどい窮乏生活にあまんじた。若い女性は率先して軍に協力し、看護、炊事はもとより、砲弾運び、斬り込み隊志願するものすらいた。陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫、物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦争末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。食料は六月一杯を支えるだけしかない。

これほど全島民一丸となり全てを捧げて闘ったのだから戦争が終わったらどうか報いて欲しいという切々と訴える電文内容です。戦後、沖縄は日本から切り離され、27年後、ようやく祖国復帰しても基地の多くが集中し、現在も様々な苦難と差別に苦しんでいます。沖縄戦はあまりにも被害が大きく、全滅した家族も多いため実態はまだまだ解明されていない部分が多いと言われます。本土の人間は沖縄県民の今も癒えない深い傷を知ろうとせず、青い海の南国リゾート地としてしか見ていない人も多く、大田實さんの沖縄県民に寄せる強い想いが実現したとは言い難いのが実態ではないでしょうか。
参考:田村洋三著『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』


沖縄県最北端「辺戸岬」にある「祖国復帰闘争碑」。約20km先に与論島(鹿児島県最南端)が見えます。

(つなぐつながる 2021春 vol.19より)