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ネパールコーヒー物語その3 tsuna25 2022a

地域開発 人が人らしく生きるために

内戦終結と新たな挑戦 その3

文・ネパリ・バザーロ副会長 丑久保完二


自立を目指すシリンゲ村の村人たちと。頻繁に現地を訪問し、信頼関係を築いてきました。左手前が丑久保。

シリンゲ村のコーヒー生産者への協力
コーヒーは、西ネパールの遠隔地、グルミが基本でしたが、お付き合いしていた紅茶農園や1996年に出会ったシリンゲにもコーヒーの木があり、それらも輸入していました。韓国が2006年に、グルミのコーヒーを輸入開始。その市場は好調で、コーヒーの量が不足することが懸念され、私達はグルミのコーヒーを全量韓国に譲り、それまで手が回らなかったシリンゲの生産者と向き合うことを決断しました(後にグルミを再訪し、取引を正式に再開したのは2017年秋になります)。

有機証明取得への活動と妨害
シリンゲは、カトマンズから距離はそれほど遠くはありませんが、当時、車が通れる道がなく、車で行ける場所から山を3つ超えて徒歩で8時間かかる陸の孤島でした。ハンディクラフトの現地フェアトレード団体、サナハスタカラから紹介を受けて、毎年、少量を扱っていました。組織的なものはなく、有志が農民の生産したコーヒーを街にでて販売していたのです。そこで、何度も村を訪問して、一軒一軒の農家を廻り、コーヒーの生産工程もみながら村人の暮らしの実態をつかんでいきました。この地域では、教育を受けて比較的良い暮らしをしている人々のグループがある一方で、訪問した農家は、厳しい生活を余儀なくされているグループでした。安定した市場をみつけ、販売するには、組織化が必要です。その選択には2つの道がありました。自分たちで組織を立ち上げるか、地元の既存の組織に所属するかでした。そこで、農民の方々に集まってもらい、どちらの道を選びたいのか話し合ってもらいました。差別のなかで暮らして来た農家の皆さんは、自分たちで組織化したいと願いました。そこで、次の訪問時に、ネパールの有機これまでの要約ネパールコーヒーは、1994年に輸出許可第一号として私達が輸入を始めました。ネパールで内戦が起きた期間も、唯一のコーヒーバイヤーとして、有機証明の取得や、その仕組み作りにも貢献して、現在のネパールコーヒーの基礎を作りました。生産量も徐々に増えて、フェアトレードコーヒーの生産者を探していた韓国のNGOに協力して、ネパールコーヒーの市場開拓にも貢献しました。証明検査と相談業務を行う会社に専門家の派遣を依頼しました。村にお連れする道中、彼から、「証明を取るのは無理。人材が育っていない、機材もない」と強く言われました。「これはおかしい、まだ会ってもいない人々を、できないと断定している」と、何か組織的な圧力を感じました。しかし村へ行き、村人の熱意と必要性を知ると、彼は態度を180度変化させました。「私が責任を持つ。任せてくれ」。皆の喜びようと言ったらありません。私も喜びました。その後、街に戻ったその若い専門家から、緻密な計画と工程表が送られてきました。グルミでの経験、紅茶農園でのJAS有機栽培の経験があった私には、その工程表は、何をいつどうするかが分かり、とても参考になるものでした。しかし、その後、「辞めることになった」という一通のメールを最後に、連絡は途絶えました。ある農業関係の国際NGOに好条件で紹介を受け、転籍したとあとで知りました。そのまま彼に仕事を続けられては不都合だったようです。

協同組合設立へ
農業の専門家という大きな協力を失いましたが、何をするかを資料として残してくれていたので、それを頼りに、以前より私たちのコーヒー活動に協力をしてくれていた輸出運送会社リチューアルの社長、ディリーさんの強力な応援の元、シリンゲ村の代表をする皆さんと協同組合を設立し、国際有機証明取得へと歩み始めました。その間にも、様々な妨害に遭いました。協同組合は設立できないと村人に信じ込ませようとしたり、専門家の応援をさせないようにしたり、私がシリンゲ村に伺うと、私に反感を持つ、近隣のコーヒー協同組合の若者数人が黒のサングラスをして、敵対感情剥きだしで話し合いに来たりしました。村にも様々な権益があり、既にコーヒーを扱う勢力もありました。それを主流派とすれば、シリンゲ協同組合は反主流派で、歓迎されない人々の集団です。内戦下で唯一の海外バイヤー(市場は当時、海外のみ)であった私たちは、コーヒー産業にとても大きな影響を与えたと思っています。有機栽培(無農薬)、フェアトレードなどです。内戦終結後も、バイヤーはフェアトレード団体が主流でした。その主流派側にいた私たちがシリンゲの活動に入り、突然、反主流派側としてみられるようになったのです。当時、その主流派の組織も、国際NGOの応援を得ながら有機証明を取得する活動を何年も続けていました。そこに、突然現れたシリンゲ協同組合が先に有機証明を取ってしまっては困るという事情もあったようです。主流派は権力やお金があり、教育水準も高く、シリンゲは、当時、教育もあまり受けられず、お金も無く、電気も通っていない、長年のネパール政府の農民に対する「生かさず殺さず」政策の結果を垣間見るような状況でした。村の差別構造も重なり合っていたようです。そんな彼らの悲願を叶えるために、私たちはシリンゲ協同組合と一体になった組織分担を行いました。コーヒーの栽培加工に関しては、村は栽培と皮むき、乾燥などの加工作業、カトマンズのリチューアルが品質確認と再梱包、輸出、そしてネパリは全量を引き受けて日本で販売しました。有機証明取得に関しては、村の若者のひとりを内部監査官として養成し、作成してもらった組織図、村の見取り図、農家一軒一軒の日々のデーターなどの資料をリチューアルがネパール語から英語に翻訳し、それをもとに私が、オーストラリアの国際有機認証機関との交渉連絡担当として膨大な申請書類を作成し、認証機関からの待ったなしの問い合わせに対応しました。各々が必要な役割を果たすべく、試行錯誤しながら奮闘しました。正に、有機証明取得のための国際的協働作業の始まりでした。(続く)


シリンゲ村は陸の孤島です。村人たちはコーヒーを背負い、この道のりを運びます。


内部監査官のユブラジ君(写真右)が、シリンゲ村の山々を歩き回り作成した地図。資料と合わせてチェックします。


検査官の聞き取り調査に、村人が回答する様子。


12~1月頃。赤いコーヒーチェリーがたわわに実っています。全て手作業で、丁寧に摘み取ります。


収穫したコーヒーチェリーを、村に数台あるパルパーと呼ばれる果肉除去機のあるところに運びます。


水を流しながら、果肉除去機で、赤い果肉の部分を除きます。


水で洗います。


24時間、水につけて発酵させ、ぬめりをとり、さらに洗います。


1週間以上、天日でしっかり乾燥させます。その後、1~2ヵ月陰干し、水分をしっかり飛ばします(水分量は10%ほど)。


シリンゲ村から届くコーヒーを、ぜひお愉しみください!商品はこちら。

(つなぐつながる 2022秋号 vol25より)