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人と共に生きる服 verda12

心を織る 自然をまとう

受け継がれる希望 ~マハグティのアシュラム(ジャナカプール)

インド国境に接する町、ジャナカプールにもマハグティのアシュラム(*)があります。町の中心のバザールからリキシャで40分ほど行くと、田園風景の先にこんもりとした樹林が見えてきます。広大な土地にマンゴー林があり、その中の小さな家に、身寄りがなく行き場を失った女性たち8人が暮らしています。彼女たちは糸を紡ぎ、織りの指導を受けながら2年間をここで過ごし、生計を立てる道を探ります。カトマンズのアシュラムと比べると施設は小規模ですが、町から遠く離れ、緑の多い、静かな環境です。しかし、ここも最近はマオイストと呼ばれる反体制勢力の影響が強まり、アシュラムが仕事を提供する女性たちの住む周辺の村々も危険になってきました。
政治の混乱が続き、貧しい人々がますます厳しい生活を強いられているネパール。その中にあって希望の灯をともし続けるネパール最古のNGO、マハグティのルーツを探りに訪れた私たちは、創立者トゥルシ・メハール・シュレスタ氏の魂が今も生き続けていることを感じました。ガンディー氏の愛弟子であったトゥルシ・メハール氏の、苦境に喘ぐ女性たちに差し伸べた大きな愛が、しっかりと息づき人々に受け継がれていることを知りました。

マハグティ創設者 トゥルシ・メハール・シュレスタ氏

トゥルシ・メハール氏は若き日をマハトマ・ガンディーと共に暮らし、その影響を強く受け、ネパールに戻った後、行き場のない女性たちの避難所、後に「マハグティ」という大きな組織の基となるアシュラムを1927年に開きました。
彼が1896年、カトマンズ盆地にある3つの市のひとつ、パタン市のネワール族の家に末っ子として生まれた当時、ネパールは独裁者ラナ家の専制政治下にありました。トゥルシ・メハール氏は圧制による民衆の苦しみ、極端な貧富の差、カースト制による差別、特に女性に対する酷い扱いなどに心を痛め、国民に教育を受けさせず一切の自由を認めないという愚民政策をとるラナ独裁体制の下で、国民の知る権利を主張し民衆に訴え始めました。ラナ家は反抗する人々を次々に死罪、終身刑、国外永久追放というように抹殺しました。国民に慕われる反抗者たち全てを死罪にすると、却って反抗心を一気に煽るということでトゥルシ・メハール氏は1920年、永久追放の処分を受けました。
国を追われた彼はインドに出て、ガンディー氏に出会いました。彼の信念、迫害された民衆が技術を習得し自立を目指すように促す思想に共鳴し、糸紡ぎと機織りを学び専門家となりました。しかし、共に暮らす間に母国ネパールの圧制に対する怒り、解放のために戦う意思はますます強固になり、1923年ガンディー氏の口添えを得て帰国を許され、糸紡ぎと織りの小さな工房を始めました。4年後に社会貢献組織マハグティを設立し、ネパールで最初のNGO組織ができました。しかし順調には行かず、投獄されたり閉鎖に追いやられたりと、1950年ラナ家が倒れるまで苦難の時代は続きました。政権が変わり獄から解放され、現在まで続くマハグティを組織化しました。
権力や因習と闘い続けるトゥルシ・メハール氏に共感し支援する人は豊かな人々の中にもいて、ジャナカプールやカトマンズの広大な土地を提供し、虐げられていた女性たちのシェルター、アシュラムを築くことができました。そこで女性たちに糸紡ぎや織り、縫製の技術を教え、人間としての尊厳を取り戻し、仕事で自分を支えられるように道を開きました。
1978年9月、82歳で亡くなったトゥルシ・メハール氏の遺志を受け継ぐ人々が1984年、アシュラムの維持運営と製品販売のためのマーケティング組織マハグティを設立し内外の支持を受け、今に至っています。
1990年の多数の市民を犠牲にした民主化闘争後、一部の人々の権力を濫用した私利私欲による支配が政治の混乱を招き、ネパール人同士が殺しあうという最悪の事態が続く今日のネパール。トゥルシ・メハール氏は泉下でどのような思いで見ているのでしょう。

*)アシュラム:道場、修養の場のこともアシュラムと言われる。マハグティのアシュラムは行き場のない女性たちのシェルター。そこで生活しながら技術を習得する。

リキシャでアシュラムに向かう途中、学校から帰る子どもたちを乗せた数台の荷車に出会いましたが、乗っている子どもたちは男の子ばかり。母親と共にたくさんの野菜や木の枝を頭に乗せて歩いているのは女の子ばかりです。カトマンズでは最近男女を問わず教育を受けさせようとする家庭が増えましたが、地方では学校に行かせるのは男の子がほとんどです。女の子に教育は無用と思っている人がまだ多いのが現状です。早く嫁いで実家の食い扶持を減らし、跡取りの男の子を産み、農作業、家事、育児など大家族の労働を担うのが一般の女性の人生です。そして夫を亡くすと生活の術を失う女性がたくさんいます。
ネパールでは貧困ライン(*)以下の人が65%に達し、ここジャナカプールは85%を超えると言われます。苦境に暮らす女性、働いて少しでも収入を得たい女性はたくさんいます。しかしマハグティのアシュラムの限られた資金、施設ではたくさんの女性を住まわせることはできず、希望する女性たちに糸紡ぎの道具「チャルカ」を渡し、紡いだ糸を買い上げています。このチャルカは、ガンディー氏が考案したもので持ち運びができる箱に入っています。でも無料で与えるわけではありません。代金の半額を先に納めてもらわなければなりません。残金は紡いだ糸を買い上げる時に本人と相談して期間や金額を決め無利子で返済してもらいます。どれほど経済的に困窮していても、半額の150ルピー(約240円)を工面することを条件にしないと、応募者が殺到してしまいます。また、簡単に手に入ると大事にしなくなります。親類縁者から借金をしてでも技術を身につけ働く覚悟がないと技術も向上しません。実際、収入を得るために、借金やどんな努力をしてまでも糸を紡ぐ仕事を希望する人は多いのですが、悔しいことに販売先が少なく、受け入れる人を絞らなければなりません。経済状況、家庭環境をチェックして、より仕事を必要とする人を見極め選びます。今180人の女性たちが家で紡いでいます。月に2回の集荷日には遠くの村々から糸を持った女性たちが集まってきます。

サシ・ミスラさん
アシュラムのマネージャーはサシ・ミスラさん(65歳)です。トゥルシ・メハール氏がガンディー氏と過ごしたガンディー・アシュラム(ジャナカプールにほど近いインドの村にある)でカディと呼ばれる手織り布を織る部門の職員を42年間勤めていました。退職後、古くからの友人、ジャナカプールのアシュラム運営メンバー代表のラム・シュレスタさんを応援するため2003年からここで働いています。

カウシャ・デヴィ・カルナさん
アシュラムに暮らす8人の女性たちの世話をするのはカウシャ・デヴィ・カルナさん(60歳)です。このアシュラムに来てもう20年になります。若い時に夫を亡くし行き場のなかったカウシャさんは、カトマンズのアシュラムで息子とともに暮らす幸運を得、技術を覚えました。しかし、娘は連れて行けず、ジャナカプールで親類に預けました。息子はカトマンズのアシュラムで学校に通うことができましたが、娘は学校に行かせてもらうことができず、早くに隣村に嫁ぎました。

ジャガタリン・デヴィさん
家で糸を紡ぐジャガタリン・デヴィさん(75歳)。夫は55年前に亡くなり、子どものなかったジャガタリンさんは、その後ずっと夫の兄家族のもとで暮らしています。糸を紡ぎながら「インドは機械でやるけれど、ネパールは貧しくて機械が買えないからこうやって手でやるのよ」と自嘲しました。「手で紡ぐから良い糸ができるのよ。そういう糸の方が好きな人が一杯いますよ。ほら、私が着ているこの服、あなた方が紡いだ糸で織った布ですよ」というと、少し驚いた表情で私を見つめました。「この仕事をしていて一番うれしい時はどんな時ですか?」と聞くと「ふん」というように鼻を鳴らし、「亭主が死んで、何がうれしいものか」と答えます。亡き夫の兄家族16人との暮らしは、私には想像がつかないほど辛いことがたくさんあったのでしょう。返す言葉が見つかりませんでした。ただ黙ってデヴィさんの手元を見つめるだけでした。

産業革命から今日まで、どんどん技術は進み新しい機械が作られてきました。最近のグローバル化で世界中どの国も同じ土俵の上で競争せざるを得なくなりました。その圧倒的な流れに呑み込まれて粉々に砕け散ってしまいそうなネパール。でもこの技術革新、向上とは別の道を模索し、先進国中心の競争社会では到底勝てなくとも、効率追求で消えていく手仕事を守ることはできるのではないでしょうか。そして、作る人の手仕事の誇りにつなげられたらと思いました。
人の過酷な労働を軽減する機械はよいが、人手を奪う機械を作ってはならないと言ったガンディー氏の想いと、多くの苦しむ女性たちに仕事と尊厳をと願い、権力や因習と闘い抜いたトゥルシ・メハール氏の想い。ふたりが人々に注いだ大きな愛が、長い時を経ても確かに静かに受け継がれていることに深い感動を覚えました。

(*)貧困ライン:最も広く利用されている世界銀行の定義では、一人当たりの所得が一日一ドル以下、または年間370ドル以下。極貧とは275ドル以下を指します。ネパールの2003年国民平均所得は248ドル。

(verda 2005年春夏 vol.12より)

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