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ネパールコーヒー物語その2 tsuna23 2022s

地域開発 人が人らしく生きるために

10年に亘る内戦とコーヒーの輸入(その2)

文:ネパリ・バザーロ副会長 丑久保完二

内戦と私たち
ネパールの内戦は、1996年から2006年にかけて、政府軍とネパール共産党毛沢東主義派の間で繰り広げられた戦いです。人民戦争とも呼ばれました。10年以上にわたるゲリラ闘争を経て、ネパールの王政は倒れ、ネパールは、共和制に移行しました。判明しているだけでも1万3000人は死者が出たと言われています。私たちが活動していた紅茶農園周辺でも、奨学生の父親がトラック運転手として国軍兵士を移送中に地雷爆破で亡くなったり、西ネパールのグルミのコーヒー農家訪問の時に通過するダン地域は反政府軍の拠点の一つで、国道通過中のバスが地雷で爆破され、多くの死傷者が出たり、やはり西ネパールで、児童労働の子どもたちの救出活動や身よりのない子どもたちの支援活動をしていた知人の教師が反感をかい、誘拐されおよそ2カ月もの間、ゲリラのキャンプを転々と引き回され、拷問を受け生死の境をさまよったりという悲惨な事件も起きました。その間も私たちは唯一のバイヤーとして、度々グルミ、そして、その隣接するアルガカンチの訪問を続けました。地方の中心にある政府機関などは、反政府勢力からの激しい銃撃と放火を受け、直後に通りかかった時は焼けた匂いが鼻をつくこともありました。戦闘多発地帯では家族や親族、知人の間でも政府、反政府に分かれていたため、首都カトマンズから飛行機で移動し、地元で運転手を探すのは危険なので、カトマンズから車を借りて行きました。未舗装の悪路が多い中、十数時間かかる道中は厳しく、しかも、コーヒー農家の点在する奥地までは車は通れず、町で待っていてもらわなければなりません。カトマンズに残らねばならない仲間が心配のあまり「逃げないで必ず待っていてくれ。きっと、完二さんを連れて戻ってくれ」と何度も何度も運転手に念を押す中、出発しました。マオイストは外国人に手を出さないとは聞いていましたが、たくさんの赤い旗が立っているキャンプを突っ切っても拘束されたり暴行を受けたりしなかったことが不思議なほどでした。

国際認証機関の変化、有機栽培はコーヒー栽培の基本
内戦が続いていた頃で一番困ったことは、電話での連絡が難しかったことです。そして、FAXは広い県内に数台しかない現状でした。それまで、有機認証検査官はオーストラリアなど外国から直接来ていたのですが、反政府勢力のターゲットは外国人ではないというものの怖がって検査に行けない時が続きました。そこで、ネパールの有機農業を研究する専門家と契約を結び現地を訪問する仕組みに変わりました。私たちも、海外の認証機関とのやり取りから、ネパール国内の農業専門会社と打ち合わせをし、栽培している場所を共に訪問する形式に変化して行きました。細かいチェックリストや説明書がその専門家集団により作られ、有機証明取得がネパールの人々の身近になる基礎が築かれたのは、この頃の成果です。
ネパールの内戦が終結すると、この国際有機証明取得の経験と情報により、他団体でも国際有機認証を取得する動きに繋がり、ネパール国内へと広がって行きました。コーヒーは、有機栽培が基本という発想も、この動きに合わせて常識となって行きました。ネパール独自の有機証明(暫定)の仕組みができたのもこの直後です。

韓国に紹介、協力
フェアトレード活動は、世界的にも日本でも1990年代に活発となりました。ネパールで内戦が終結した2006年の直前、韓国でも、英国などへの留学組が帰国して、NGO活動の中枢を担っていました。経済発展も目覚ましく、世界的な課題にも積極的に関わり解決したいと思っている頃でした。韓国第二のNGOであるビューティフルストアも例外ではありませんでした。しかし、フェアトレード部門は大赤字。有力な助言もあり、農産物、特にコーヒーを試みてはどうか、ということになりました。そこで、協力して欲しいという記事を、世界フェアトレード機構(WFTO)に出しました。その記事をみて、私たちが協力を申し出て、何度か韓国を訪問、そして、英国留学から帰国して数年の担当兼マネージャーをグルミの協同組合事務所と生産農家にお連れしました。当時グルミ協同組合の理事をされていた方を講師として招いて韓国で初めてのフェアトレード会議も開かれました。このようにして、韓国にもフェアトレードが根付くことになりました。(続く)

◇ネパールコーヒーの歴史とネパリ・バザーロの輸入開始まで
1944年:グルミのヒラギリ氏がミャンマーで仕事をしていた時にコーヒーの味を知る。
帰国の時にコーヒーの苗を隠して持ち帰り、庭に植える。その後、村では、コーヒーが少しずつ拡がる。
初めて植えられたのが、グルミのアプツォールと言われている。〈苗は、インド系の苗と聞いています〉
1977年:農業省が国内への持ち込みを許可したため、インドからコーヒーの苗をたくさん持って来ることができるようになり、ビジネスとして生産が可能になる。
1979年:現在の主力生産地であるパルパの農業開発事務所が、コーヒーの苗をグルミからパルパに持ってきたが成功しなかった。
1984年:グルミのアプツォールから1985本の苗をパルパのモダンポカラに植える。
1987年:パルパの農民をグルミに受け入れ、技術研修を行う。この後、外貨獲得を目指した政府は有望な換金作物として農民に栽培を推奨しネパール全国に広がる。
1987年以降:政府は欧米の国々に輸入をして欲しいと打診したものの応じる国はなく、オランダ政府に1トン送り働きかけを依頼したが、民間で取引を希望するところはどこもなかった。借金をしてまで苗を買って栽培した農民も多く、市場が見つからず返済に追われ絶望した各地の農民達はやっと育ったコーヒーの木を切り倒し始めた。
1996年:状況を知ったネパリ・バザーロは農民の支援のためグルミのコーヒー輸入を開始した。


コーヒーの収穫の様子。


初めての日本人に興味津々。


コーヒー村への道。


内戦中、爆破された建物。


初代コーヒーパッケージ。左から丑久保、土屋。

(つなぐつながる 2022春号 vol23より)