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カンチャンジャンガ紅茶農園より verda33

地域開発 人が人らしく生きられるために

若者たちの夢

文・ネパリ・バザーロ会長 土屋 春代

カンチャンジャンガ紅茶農園の自立プロジェクト

2年ぶりの紅茶農園訪問が実現しました。バンダ(注1)で涙をのんで引き返してからもう一年が経ってしまいました。年に5回ほどネパールを訪れていても、なかなか遠方の村に行く機会は得られません。紅茶の新製品のこと、スパイスのこと、フェーズ1(2)とフェーズ2(3)の教育支援のこと、たくさんの案件をよりよく進めるには、やはり現地訪問は欠かせません。バンダにならないよう必死に祈ったかいがあってか今回は大した問題も無く到着できました。
例年と違い雨季が長引き、9月末になってもまだ毎日雨が降っているという直前の情報に、足下が悪く活動がしにくいのではないかとやや不安はありましたが、着いてみると快晴が続き、秋らしい爽やかな天候に、心も晴れ晴れとなりました。カトマンズで見たり聞いたり、接したりした暗い部分、ネパールの政治の混乱が人々の暮らしを圧迫している様や、他人を踏み台にして自分の利益ばかりを追求する人々とのせめぎ合いなど、どう対処したらよいか考えてもなかなか出口が見つからず、気分も落ち込んでいたものが、スーッと霧が晴れるように自然に行く手が見え、迷いが吹っ切れ気持ちが落ち着きました。大自然の中で営まれる真っ当で地道な暮らしを見ていると人間の限界が知れ、謙虚な気持ちで物事を受け入れることができるようになるのでしょう。そして、支援している若者たちとの触れ合い、彼らの夢の実現に少しでも協力できているという実感は、何より強い、続けるための原動力になりました。
滞在中、ディリーさん(注4)から提案された自立への計画は今後の行く方を示す柱となるものでした。長い模索の中から見えてきた光明ですが、その道筋は決して平坦なものではない予感もあります。しかし、どのような苦難があっても、若者たちの夢が壊されることのないように力を合わせて進んでいこうと思います。

1)ストライキのこと。外を歩くことは問題ないが、車の走行は禁止。店や工場、事務所も営業できない。
2)カンチャンジャンガ紅茶農園(略称KTE)の子どもたち全てが10年生までの基礎教育を受けられるようにと始めた奨学金支援制度。
3)基礎教育を修了した子どもたちの中の優秀で強い意欲がありながら、生活が厳しく自力では進学できない子どもたちに専門教育が受けられるように開始した奨学金支援制度。
4)KTEの役員。カトマンズ事務所とフィディムの農園を頻繁に行き来し、企画立案や調整を精力的にこなす。55歳の彼は、後20年は仕事にその身を捧げ、引退後は瞑想生活に入ると言う。

教育支援の効果と課題

教育の重要性は最近、遠隔地域でも意識されるようになりました。しかし、これといった産業のないところが多く、親の現金収入が限られるため教育への投資が充分できず、地域全体としての教育の質も都市部に比べると低く、都市の恵まれた環境で育った子どもたちと同じ条件の試験を受けることには大きなハンディがあります。しかし、そのSLC(注5)と呼ばれる統一試験の成績がずっと将来にわたって大きな影響をもつのです。経済的な格差だけでなく、それが将来の希望の格差とならないようにと、10年生までの基礎教育を受けられるように支援を始めたのが2002年春。毎年SLC合格者が出るようになり、その子どもたちが望む職業に就けるようにとフェーズ2支援を始めたのが、2007年秋です。地域への効果が大きく、人々の意欲を高め、農園の業績にも影響をもつようになりました。ワーカーの農園に対する愛着が増し、定着率がよくなり、仕事の質があがったのです。
長いお付き合いのネパリ・バザーロの他にも、最近、アメリカ、カナダなどのフェアトレード組織に輸出を始め、高品質の茶葉はどこでも好評で、ようやく市場が安定し始め、これから農民の生活向上を目指そうとするKTEにとって、この教育支援は止めることができません。一方、ネパリにとっても子どもたちの懸命に励む姿に心打たれ、支援は続けたいと思っていますが、成長し希望に燃える子どもたちの膨らむ夢に応えるには資金が限られています。SLC後の専門教育支援は基礎教育支援に比べ、子どもの数は少なくとも、金額としてはひとり当たり数倍もかかります。どちらも引き受けることはできません。せめて、基礎教育は親や地域でできるようになればと、KTEもネパリも何度も話し合いを続けてきましたが、答が見つかりませんでした。
農園は組合員やワーカーの収入を増やし、自力で子どもの教育ができるようにと、収穫量を増やす努力や牛プロジェクトなど様々な試みをしてきました。しかし、茶畑は急な傾斜地にあるため、栽培量を増やすことが難しく、搾った牛乳も遠隔地であるため、流通に乗せられませんでした。もちろん多少の効果はありましたが、ネパリの支援を不要とするほど力強いものには成り得ないということが分かりました。 今回のディリーさんの提案は組合員やワーカーの人たちの衣・食・住の生活全般の向上にもなり、さらに教育支援も可能となる画期的なシステムでした。計画通りの成果を得るにはどうすべきか、早速、具体的な検討に入りました。

注5)10年生までの基礎教育を修了したことを 証明する国家試験。

ディリーさんの提案

KTEは生産者の協同組合でしたが、この自立計画は組合員による消費者協同組合をつくるものです。会員からも少しずつ出資してもらいますが、元々小規模農民や生活が厳しいため外から流入してきた農民による組織だったため、集まる額は小さく、不足する大部分の出資金はKTEとネパリ・バザーロで負担します。
第一段階は、生活に必要な4つのアイテムから始めようと計画しています。米、塩、油、石鹸です。米はインド国境に接する肥沃な大地、タライ平野の良質な米を1月と5月の収穫時期に安くまとめて買いつけ、農園の近くの水車小屋を借りて脱穀します。米は一般の店より2、3割安く組合員に販売します。マスタードをまとめて購入し、水車小屋で油を搾り出します。米のもみがらや油かすは農園が有機肥料にするため購入します。石鹸はチウリなどの良質なオイルの採れる植物の種を買って作ることも考えています。
このように質の高い米や油を一括で仕入れることにより組合員は健康の元になる安全で安心な食品を安く手に入れられるという利益もでます。またもみがらや搾ったかすは農園にとって品質や収穫量を上げるためのよい有機肥料となります。協同組合は課税されませんから、出た利益全てを有効に使い、様々な生活向上プログラムを実施します。
先ず、利益の40%を教育資金に充て、徐々に10年生までの教育費を出せるようにします。一家で奨学金を受ける子どもは2人までとする案もあります。できるだけ子どもの教育は親自身ががんばって出せるようにと意欲を促すためです。15%をアーユルヴェーダクリニック開設と維持に充て、地域住民の病気予防、健康維持のために使います。15%を住まいの質の向上のため、無料宿舎の建設資金にします。15%は積立てて基金とし、自宅を建てる人や教育費を必要とする人に長期無利子で貸します。5%は色々な植物の種を買い、栽培意欲のある人に与えます。残り10%は将来、資本金を増やすために貯金します。
そして、第二段階は服や靴などアイテムを広げること。第三段階は近隣地域の農民も買い物ができるように市場を拡大することを目標としています。プロジェクトは2011年の1月、米を買うことからスタートします。

おとなの役割

10年間の内戦が終結、王制が廃止され、やっと国民が中心の国家が形成されるかとの期待もつかの間、政治家たちの醜い権力闘争が数年間も続いています。政治の混乱が続くネパールは産業を興す基盤の整備に手をつけられず、電力は供給が充分できず、特に乾季は毎日の停電が10時間以上にも及ぶほど。給水もままならず。悪化する治安や連動するインドルピー高に引き摺られる、国力とは裏腹のルピー高。輸出しても手取り収入が減っています。悪い状況をあげつらえばきりがないほど出てきます。少しでも事情を知る人はネパールの未来を悲観して国外に移住して活路を見出そうとします。
そんな中でKTEのように政治の恩恵の及びにくく保守的な地方で、新たな仕組みづくりを目指すには余程の根気と勇気が要ります。もちろんKTE内部にも問題はたくさんあります。推進役はどうしても地位の高い、経済的にも余裕のある人々になり、地位の低い、貧しい人々は本音を言いにくいこともあります。しかし、内外に横たわる多くの困難を受け止めて、粘り強く一歩一歩前進する人々を見て、若者たちはきっと次のよりよい未来を切り拓いてくれるでしょう。たくましく意志の強い、そして弱者に配慮できる人に育ってくれるでしょう。
どの時代にもその時代固有の困難はあり、それを切り拓いてきた先人があったから今の私たちの恵まれた環境があるのだと思います。次の世代に!次の世代に!よりよい環境をバトンタッチしていくことがおとなの役割だと強く感じた訪問でした。

 

≪嬉しい再会≫

「カマルです!」若い男性が大きく元気な声で叫ぶと同時に飛び出してきて、到着したばかりの車から私たちの荷物を取り出し、テキパキと宿舎の部屋に運んでくれました。「2年前に1度来たことがありますが、私を覚えていますか?」と聞くと、「写真を大きくして部屋に飾って、毎日見ているから忘れるわけないよ~」とおかしそうに笑いました。
2年前、長年の願いがかなって農園に初めて来た時、その滞在で一番印象に残ったのが、カマルさん、シャンティさんご夫婦との出会い、交流でした。ダリット(注6)と呼ばれるアウトカーストのおふたりは、カースト差別をなくすKTEの試みにより採用され、宿舎の食事係と掃除係をしていました。11月中旬で朝晩はとても寒く、私はダウンジャケットを着る時もあるほどなのに、カマルさんがいつも半袖Tシャツ一枚なので「元気ね!半袖で寒くないの?」と感心して言うと「これしかないんだから、仕方ないだろ」と、少し怒ったように横を向きました。ある日、体調が悪く外出を控えて部屋にひとりで居た時、シャンティさんが遊びに来てくれ、家族のこと、子どものこと、女性の立場などいろいろな話をしました。カマルさんも覗きに来て仲間に入り、仕事の不満をこぼしていきました。
カトマンズに戻る朝、見送りにきてくれた少女の「あなたのカーストは?」という私への何気ない質問が、傍にいたカマルさんのカーストを皆に強く意識させ、差別する側のあまりの無意識さ、疑うことを知らない、まるで空気のように当たり前になっている差別の根深さに、いろいろ考えさせられました。翌年(2009年)秋、再訪しようとビルタモードゥまで行きましたが、マオイストによる道路封鎖が解けず、数日間待ち、諦めてカトマンズに戻りました。カマルさん、シャンティさんにお会いするのを楽しみにして2010年9月、2年ぶりに訪れ、おふたりも再会を待ち望んでくれていたことを知りました。
おふたりの状況は変わり、シャンティさんは出産し、育児と家事に勤しむ生活です。夜間警備員になったカマルさんは仕事に誇りとやりがいを感じ、ブルーの制服もよく似合い、颯爽としてみえました。仕事も私生活も充実し楽しそうで、時々部屋に寄って声をかけてくれる時も元気一杯です。食事担当は新しく農園に来たパルシュラムさんですが、まだ慣れていないから変なものを出すと心配だと、最初、私たちの食事はカマルさんが作ってくれました。夜勤も日勤もではさすがにきつく、2日目からはパルシュラムさんがおろおろしながらも頑張って作ってくれました。 カマルさんの家に遊びに行くと、出産したばかりの妹さんが赤ちゃんとともに産後を過ごしていました。土間が2部屋。その1間に炊事場がついている簡素な家ですが、シャンティさん、カマルさんのお母さん、近所の子どもたち、妹さんの友だちなどなどで、足の踏み場もないほど、とても賑やかなご家庭でした。
カマルさんは長男に「スルヤ(太陽)」と名前をつけました。男の子に神々の名前をつけることがよくありますが、自分たちに”ダリット“という過酷な運命を背負わせた神の名ではなく、誰にも等しく降り注ぎ、光とエネルギーを与える「太陽」と命名したことが胸に沁みました。カマルさん、シャンティさん、スルヤ君、また会いましょう!

注6)抑圧された者という意味で、かつて「不可触民」と呼ばれ、カースト制度の最底辺に位置づけられた人々。カーストによる差別は憲法で禁止されているが、根強い偏見と厳しい差別がある。

(verda 2011早春  vol.33より)