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カンチャンジャンガ紅茶農園より verda27

地域開発 人が人らしく生きられるために

農園に向かう道

文・ネパリ・バザーロ会長 土屋春代

紅茶の生産地、カンチャンジャンガ農園(KTE)への訪問をずっと切望していながら、行こうとやっと意を決したのは2008年の春でした。服中心に雑貨も含めた製品開発を担当し、コーヒー、紅茶、スパイスなどの生産者を訪ねる余裕がないまま、長い間、遠隔地の訪問を完二さん(ネパリ・バザーロ副会長)に任せていました。スタッフが育ち少し余裕ができた頃に自分の体調を崩し、首都カトマンズまで行くのがやっとという状態になってしまいました。KTEのディリーさんに「いつ来てくれるの、近くまで車が通れるように道路も整備されたよ」と、何度も言われました。行きたい想いはつのれども、近くの空港からでさえ車で7、8時間、しかも険しい山道を含めての行程に耐えうる自信がありませんでした。
2002年から開始した教育支援。2007年秋から3人の子どもたちへの専門教育支援を第二段階として始め、2008年秋に2期目に入ることもあり、どうしても彼らに会いたいという想いをもう抑えることができなくなりました。また、現地の人々が訪問を強く待ち望んでいることを知り、とにかく行くぞと決めました。
11月の出張が近づくに従い、普段と違った強い緊張感に迫られました。辿り着けるのだろうか、農園周辺の上り下りの多い山道を歩けるのだろうかと不安で一杯になりました。少しでも体力をつけようと毎日2時間近く歩いたり、持ち物を入念に準備して出発しました。カトマンズに着いても村に行く日を思うと不安がどんどん大きくなり、とりあえず向こうの空港まで行ってみよう、そこに下宿している子に会えるだけでもいい、と小さな目標を定めて出発しました。何年も夢に描いてきた訪問がいよいよ実現するかもしれないという大きな期待と、途中で諦めて悔しい思いをするに違いないという不安に大きく揺れながらカトマンズを後にしました。

未来を拓く子どもたち

KTEの子どもたちを中心にした奨学金支援を2002年から7年間継続してきました。それによって約200名の子どもたちが学校に通い、10年生までの教育を受けることができています。しかし10年生まででは就ける仕事が限られます。子どもたちの自立と遠隔地の地域開発を目指すために、次の段階として、優秀で意欲があるものの自力では進学できない子どもたちに専門教育支援をすることにしました。2007年に先ず3名からスタートし、翌年2名を加え、その状況を知るために2008年11月12日から、5日間の予定で現地を訪問しました。ビラトナガルの空港に着くとディリーさんが満面の笑みで迎えてくれました。「ディリーさん!やっと来ました!」。ディリーさんのうれしそうな、そして、いたわりのこもった笑顔を見ると危うく涙がこぼれそうになりましたが、子どもたちに会うために早速約束の場所に急ぎました。

子どもたちとの出会い

皆、元気に楽しそうに勉強していました。そして、活き活きと夢を語ってくれました。今年も第2段階の支援を新たに3人増やす予定です。やがて、彼らのような意欲的な若者が数多く育ち専門知識や技術を身につけて地元に帰ってリーダーとして活躍すれば地域は確実に変わるでしょう。地域開発・・・この大きな目標に向けて力を合わせてきた私たちは夢に描いた未来社会を現実に見ることができるかもしれません。そして、それはそう遠い先の話でもないようです。その未来の先頭を歩む彼らはなんとまぶしく輝いて見えたことでしょう。
子どもたちの様子をご紹介します。

≪ススマ・ネパリさん(16歳)≫

ネパール第二の都市・ビラトナガルのカレッジで学ぶススマさんは医者になって自分の村で人々の世話をしたいという将来ビジョンをもっています。医者のいない村で、しかも女医というのは、村の女性たちにとってどんなに心強い存在となるでしょう。
彼女はダリットと呼ばれる不可触民のグループに生まれました。憲法ではカースト、人種、性、宗教に基づくあらゆる差別を禁じていますが、現実には、様々な面激しい差別を受けています。人口の1割から2割近くがダリットと云われていますが、教育を受ける機会が極めて少なく、代々受け継いできた限定された職業以外には仕事に就けず、お寺への出入りも禁じられています。
そんな中で、ススマさんはとても優秀で、SLC(注1)を好成績でパスしました。KTEからも更に遠く離れた地域出身で、これまでの奨学金支援の対象ではありませんでしたが、彼女の秀でた能力を惜しんだ紹介者を通して出会いました。2年間カレッジで勉強し、成績がよければ政府のダリット支援プログラムの奨学金を受け医学部に進学することができます。医者になったとしても、ダリットに触れられることを忌み嫌う人たちから受信を拒否されることもあるかもしれませんが、彼女の努力が報われてその村がやがて差別などない地域に変わることを願っています。

≪ヘムプラサド・リンブーさん(21歳)≫

5人の中、唯一の男性です。ご両親KTEで働いています。農業技術指導者を育成する学校に通っています。地域の農業発展のために役立ちたいと張り切っています。

≪アニタ・シュレスタさん(16歳)≫

アニタさんの父親はKTEのワーカーではありませんでした。運転手だった彼はたまたま国軍に依頼されて兵士が移動するトラックの運転をしていて、反政府武装集団の仕掛けた地雷により亡くなりました。大黒柱を亡くした妻から自生しているコットンの商品化を頼まれて、私たちのオーガニックコットンプロジェクトは始まりました。アニタさんの教育支援もその時から開始し、SLC合格後はビルタモールの看護学校進学を支援しました。
一時は成績が悪く、勉強が難しくてついていけないとアニタさんがやる気を失いかけたこともあり心配しましたが、周囲の人たちに励まされ、頑張って中くらいの成績をとれるようになりました。無事卒業の見通しもたち、更に上級学校に進学し正看護師になりたいという強い意欲に打たれ、支援を継続することにしました。

スニタ・トゥンバポさん(16歳)≫

スニタさんもアニタさんと同じ学校に通っています。母親はKTEの製茶工場で働いています。スニタさんも更に学んで正看護師になりたいと希望しています。アニタさんと励まし合い、きっと夢を叶えてくれるでしょう。             

≪シタ・バスコタさん(17歳)≫

ネパリ・バザーロが支援を開始した時から奨学金を受けて学んでいます。当時5年生だったシタさんは、昨年、その学校始まっていらいのSLC合格者となり、カレッジで正看護師を目指して励んでいます。下宿先の方も褒める本当に勤勉な学生です。

≪デビプラサド・カナルさん≫

KTEのディリーさんの知人、デビさんはビルタモールで会社を経営しています。信仰に篤く、金銭的にはゆとりがあっても決して贅沢をせず質素に暮らし、毎日瞑想と祈りを欠かしません。しかし、私たちの奨学金支援を知って、自分の生活を振り返り、他者への奉仕がかけていると気づき、瞑想し祈っているだけでは社会は変わらない、社会がよくなるために自分にできる限りのことをしたいと強く思い、支援の輪に加わりました。

東ネパールの状況

11月13日にビルタモールからKTEに移動する予定が、リンブー(注3)の過激派による道路封鎖で中止になるおそれが出てきました。14日の見通しも立たず、夜なら警戒も緩むだろうからと、急遽深夜の強行突破と決まりました。ジャパ警察の武装警官8人くらいを乗せたジープに県境まで護衛されて同じ方向に行く2台の車、2台のバイクで出発しました。危険な所はヘッドライトも消して真っ暗な道を走りました。途中、20人くらいのリンブーの若者グループが車を止めようとしましたが、スピードを上げて振り切りました。車の中はおしゃべりで盛り上がり、軽快なネパール音楽をかけたりして緊迫した様子は感じられませんでしたが、ディリーさんや、運転手、助手の人たちは内心とても緊張していたことでしょう。途中から車が3台、4台と増えたり、車の屋根の上まで人が乗ったり・・・。
夏のように暑く、蚊に悩まされた町を出発して数時間後、周囲の地形は変化し、だんだん山に近づき気温が下がり始めました。持参したコートを着て冬仕度をしてかなり経った頃、吐く息も真っ白な空気の中、ついにKTEの宿舎に到着しました。
最近各地で頻発している道路封鎖は、それぞれの民族やグループが自分たちの要求を通すためにするのですが、長年抑圧されてきた人々が権利意識に目覚めたものと好意的に解釈できる範囲ではなく、違法賭博で逮捕された仲間の釈放を要求するなど、他の人々からみたらとても納得できないようなものもかなりあるそうです。しかも、頻繁に行うため、生活への影響があまりにも大きく、同じ民族、グループの人々でさえ怒っています。私たちを乗せて走ってくれた運転手もリンブーの人でした。
この教育支援の第二段階も、たくさんの人々の協力、応援があって実現しています。ビルタモールでは4人の奨学生の住まいや食事など生活面の細々としたことから、心配事や悩み相談まで親身になって世話をしてくれるボランティアのデビさんがいます。KTEからの送金が遅れた時も立て替えてくれる頼もしい方です。
ススマさんを紹介してくれたスレンドラさんはフィディムの大地主の家に生まれましたが、地域の人々の暮らしがよくなるようにと、徒歩3日、4日もかかる山奥まで足を運んで生活状況を詳しく調べるなど私たちの活動を応援してくれます。
他にもたくさんの人の縁故を頼り、5人の子どもたちを入学させることができました。既に入試も終わった後、定員外にもかかわらず入学できたのは、つてを探しては必死に説得したり依頼したりと動いたからです。そうしなければ山奥の田舎の子どもたちが大きな町の狭き門の学校に入り、下宿して学ぶことはかないません。皆、子どもたちの将来、地域の発展を本気で願う強い想いがあります。日本でも頑張ってくれているから自分たちが頑張らないわけにはいかないと言いながら・・・。その言葉にこちらが励まされました。

カースト意識とKTEの挑戦

3日目の朝、少し疲れが出たので用心して午前中だけ宿舎に残って休憩することにしました。ひとりで部屋にいると、「入っていい?」とシャンティさんがカーテンを開けてのぞきこみました。好奇心旺盛の彼女はいろいろ聞きたかったようです。「私の服、汚れているから」と入るのをためらっていましたが「ここに座って!」とベッドを指すと、並んで座り、次々に質問を始めました。「子どもは何人?男の子、女の子?へえ、男の子いないだ。でも、男の子を産まなくても許されたの?」「女の子でも男の子でも構わないの。どちらでも大事に育てるの」と言うと「そうだよね!私も女の子が生まれても、ちゃんとご飯を食べさせたいし、服も着せたい」と。それからも着る物や食べる物についてなど楽しくおしゃべりしているとカマルさんも入ってきました。仕事のこと、訪問客のこと、将来のことなど3人でいろいろな話をしました。KTEや学校の歓迎行事など、ありがたくはあっても、限られた滞在の中で多くの時間をとられてしまいます。そんな中でふたりと過ごせたのはとても貴重で楽しいひとときでした。

KTEを離れる日、奨学金を受けている近所の女の子が見送りにきてくれました。ノートを出して 私にサインをしてほしいというので書いていると、のぞき込んで「あなたのカーストは何ですか?」と質問しました。カマルさん、シャンティさんも私の横にいました。「日本にはカーストはないの。人間は皆対等なの」と言うと「そうだよ。カーストがあるのはインドとネパールだけだ」と、カマルさんがぼそっと言いました。「そして男と女も対等よ」と私が言うとシャンティさんがうれしそうにほほえみました。その女の子はトップカーストに生まれたので差別を受ける悲しい経験をすることなく育ったのでしょう。日常当たり前にある意識なので自らは気づきづらい差別という意識。それをなくすには長い時間がかかりますが、その困難に挑戦しているKTE(注3)の未来に希望を持ちたいと思いました。 

フィディムに行き着くことができれば私の中で何かが変わるという予感がありました。ここ数年、体調の悪化から自信を失いかけ、ともすると後ろ向き考え方をする自分に気づきながらも受け入れ、甘えていました。より良い未来を拓くため、奥地の厳しい環境の中で必死に頑張る子どもたちや周りの人々の姿に、そんな自分が恥ずかしくなりました。子どもたちは未来そのものです。界中どこの国でも地域でも、子どもたちが夢や希望に満ちて育つ、そんな社会を皆で創りたいと強く思いました。

≪カマル・ネパリさんとシャンティ・ネパリさん

カマルさんは農園の宿舎で料理人をしています。シャンティさんは給仕や部屋の掃除を担当しています。結婚して2年。 20歳と19歳の若い夫婦です。ふたりはダリットです。ダリットの人が触れた食物や同じ井戸の水を口にしないという人がまだ多い中で、料理人や給仕という役割を振るのはとても大胆で勇気がいることです。人はみな平等だということを実践することで地域が変わってくれるようにとのKTEの願いです。

注1:10年間の基礎教育を修了したことを証明する国家試験。
注2:東ネパールの中間山地に住む民族の名称。
注3:KTEではワーカーの内、約20%がダリットの人々です。数年内にその割合を30%に引き上げることを 目標としています。根強いカースト差別をなくすため、地道な挑戦を続けています。  

verda 2009 vol.27より