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アネモネとそよ風 tsuna03

対談

友岡雅弥× ネパリ・バザーロ会長土屋春代 

“人と人をつなぐ人” 友岡雅弥さんからたくさんの方をご紹介いただきました。友岡さんがこれまでに出会い、心を強く動かされた現場をご紹介いただく連載アネモネとそよ風』が、2016年らスタートします。先ず友岡さんをご紹介するため、お話を伺いました。

友岡 雅弥 
大阪府泉大津市生まれ。大阪大学大学院博士課程修了(インド哲学)。趣味は、音楽鑑賞(J-Pop 以外の、あらゆるジャンル)と人に会うこと。数年前には、友人とともに、宮川左近シヨウ、芙蓉軒麗花などの、かつて一世を風靡した演芸の貴重な音源を復刻。今、全国的に広がる「子ども食堂」のうち、いくつかの初期の立ち上げにも加わる。

土屋 春代
(有)ネパリ・バザーロ代表/特定非営利活動法人ベルダレルネーヨ共同代表。ネパールの子ども達の厳しい状況を知り教育支援活動を始めたが、深刻な貧困問題に直面。仕事を創ろうと1992 年有限会社ネパリ・バザーロを設立、貿易を開始する。

友岡さんの原点 

春代 友岡さんとの出会いは3. 11 後の陸前高田での支援活動についての取材を受けたことでした。友岡さんはジャーナリストの名刺の後、アクティビストという名刺を出されました。取材終了後、アクティビストとしての友岡さんに興味を抱き、いろいろ質問させていただき、それからのお付き合いです。友岡さんの原点を教えてください。
友岡 昔からハンセン病回復者の生活のお手伝いをしていました。高校2年の時に療養所に行って話を聞いたのが始まりです。やがて、療養所を出られても、社会で息を潜めて暮らしているハンセン病社会復帰者の「孤独」に気付きました。
例えば、今、親しくしていただいている社会復帰者は、50 年間、カミングアウトできずに社会の片隅でひっそりと暮らされている。子どもの時に、療養所で聴いたドボルザークの音楽が忘れられずに1人、それを聴きながら暮らしている。50 年以上ですよ。その人生に思いをめぐらせたい。年に何度か、コンサートにもお連れしています。
大学、大学院以来、釜ヶ崎を始めとする大阪の野宿者や、そこで暮らす困難を抱えている子どもさんの支援もしています。ハンセンも、釜ヶ崎も、きっかけは先輩から誘われ、ちょっと行ってみようと。
でもね、最初のきっかけは母親の影響が大きいかな。母親は、知的障がい児教育の、ある意味、戦後の草分け的な存在でした。僕の最初の友達は、母親の学級の生徒さんでした。わいそうとか、人道的とかではなくて、そういう方々と普通に接することが子供の時から自然に身につきました。言葉とかは少し不自由かもしれないけど、僕にとっては、優しい兄ちゃん、姉ちゃんでした。めちゃめちゃラッキーだったなあ。90歳で亡くなった母親はいいものを残してくれたと思います。

震災支援を通して明確になった役割 

春代 アクティビストを名乗られたのはいつからですか?
友岡 震災の1、2年前からです。人間には様々な要素がある。職場の顔、地域の顔、いろんな公的な役割というのがあるのではないかと思いだしたんです。
春代 もっと現場に入ろう、実践しよう、というのではなくて?
友岡 明確にそう思ったのは震災後です。腹が決まりました。最初に行ったのは仙台の荒浜と名取の閖上中学周辺。先ずは、行ける処に行き泥かきなどしましたが、もどかしかった!陸前高田の町、大槌の町を見た時のショックはすごかった。足元には「破壊された町の全て」があり、上には青空。巨大な空間が広がって空間認識にひずみができ、めまいがでるような気がしました。
春代 被災地には200回以上行かれていますね。行かねば!というお気持ちですか。
友岡 条件反射ですかね。自然に足が向きます。話を聞いたら、次も来るって言いたい。また来るを嘘にしたくない。東北弁は飾りがなくほっとします。人の温かさが並大抵ではない。シャイですが垣根を越えると、僕を大阪の人ではなく、今、同じ場にいる人として見てくれます。
東北の方々は余裕のないぎりぎりの中で工夫して生きてこられた。満蒙開拓団で移住し、終戦で追われて帰国後、山奥に入植し、開拓して…。飯舘村や野田村、浪江町とか、あちこちがそうですよね。田老の協同組合のように古くからあった協同組合事業もイデオロギーとかではなく、そうしないと生きられなかった。日本で最初に乳幼児死亡率を0にした、沢内村。どこも先進的です。
ある意味、これから日本中が限界集落的になる。5、60 年前から東北ではこんなことを工夫してやってたんだ!東北が先進地域なんだ!それを知って欲しい。
自分の役割は2つ。一つは「つなぐ役割」。つないで自分は忘れ去られるのが理想です「そういえば、あの時そんな人がいたっけ」ぐらいのね。もう1つは「伝える役割」。東北の取り組みを、日本各地で参考にしてもらいたい。ここ掘れワンワン、宝物がここにある!と知らせるポチの役割です。でもね、悔しいのは、「宝物発見!」といさんで行ったら、すでに、そこに「土屋春代」がいた。「ワンワン」ってね。先回りしてるんですよ。何度、悔しい思いをしたことか…。

大阪のポチ、横浜のポチ 

春代 友岡さんが私を“ポチ” と言われる意味が、友岡さんに大阪をご案内いただいてようやく分かりました。自分ひとりでは出会えなかった方たちといい形で出会えました。私もそういう役割を果たしていると感じられていたのですね。光栄です。横浜のポチも頑張ります!
友岡さんが「つないで忘れ去られる」と言われますが、うちも同じように考えていて、ネパールの生産者が“卒業” していくことを望んでいます。個人も、組織も、自分たちの努力で出来た!と信じて疑わないようになってくれたらうれしいと思います。
友岡 オーナーシップですね。自分たちの力でこれができた!という誇りになる。この前、春代さんの講演を聞いて、それが徹底されていると分かって、いたく感動しました。テキスタイル開発に10 年かけた。服の縫製も最初から最後まで一人の人がやることで、その人に技術が残る。財形貯蓄制度をつくったことがエンパワメントになる。そこまで考えているところは他にないと思います。そこまで現地の人たちの暮らしを、現地の目をもってやっているところはないと思う。しかもフェアトレードからさらに、パートナーシップトレードというあたり、理論的にもすごいと思いました。
春代 理論的?感覚人間なので頭ではあまり考えていないのですが。
ネパールで、じっくりやらざるを得なかったことが、東北支援でとても役に立ちました。友岡さんは震災後東北に行かれて現場の大切さを強く感じられるようになったそうですね。
友岡 昔は、どうしても国の政策を通して見ていました。生活保護の場合はこうだ、介護保険の場合はこうだ、とか。暮らしを成り立たせるためには、国が制度を作らなあかんと思っていました。
でも、大震災では国というものがあまりに鈍重で、ああいうスケールに対応できない。2005 年に一市六町で合併した石巻市のように弊害がいっぱいありました。支援が隅々に届いていないと現地に行って分かりました。これからは大きなスケールで見るのではなく、小さい単位でものを見て行動することが大切だとどんどん思うようになりました。地元の人から見える風景を自分も見ないといけないなと。
春代 被災地はいろいろ行かれていますが、最近よく行かれる処は?
友岡 岩手と福島です。やはり圧倒的に交通アクセスが悪い。これを逃したら夕方までないぞ!という地元の列車やバスに乗って行く。宮城県は海沿いに平野部が広がり、比較的交通が発達していますが、岩手、福島は海岸からすぐに山です。あえて、アクセスが悪いところへ地元の交通機関で行き、地元の生活を知ることも、「ボランティア」の一つの形じゃないかな。
福島に関しては、何ができるかというよりは、ちゃんとした情報の発信をしたいと思います。噂に惑わされず、東京や大阪から何々シーベルトやとかいうのでもなく、除染したから帰れと言われる地域と帰還困難区域がバリケード1つで遮られているという矛盾、それを自分の目で見て感じて欲しい。全体をきちんと見て脚色抜きで伝えたいと思っています。すでに、僕の情報を辿って、何人かが現地に行ってくれてる。できるだけ多くの人に来てもらいたい。
春代 それだけ、友岡さんへの信頼が強いのですね。つなぐという重要な役割ですね。
友岡 そこにおいては、透明性を大切に、偏りなく誠実にやろうと思います。裏切らないように。また、福島に行かれるときは、私が責任もって案内しますよ!
春代 はい! 

アネモネとそよ風 

風で花粉を運ぶ「風媒花」は英語で「アネモフィリー」。「アネモ」はギリシャ語で「風」を意味します。早春に咲く、アネモネもそれに由来します。昆虫や動物によって拡散する植物は、花が派手で蜜やいい匂いを持ちます。「風媒花」は、概して地味です。でも見つけ出す風があれば、遠くまで飛んでいきます。社会の片隅で、今、すでに未来がはじまっています。「アネモネ」の花言葉の一つは、「信じて待つ」。未来を信じ、見つけ、届けることのできる「風」になりたいと連載です

(つなぐつながる2016夏 vol.3より)