ネパールコーヒー物語 verda32
地域開発 人が人らしく生きるために
シリンゲ村のコーヒー農民たち 偏見と差別との闘い その2
文・ネパリ・バザーロ副会長 丑久保完二
シリンゲは、ラリトプール郡の最南端に位置します。起伏が激しいカブレ、マクワンプルに接し、行き来の難しい所です。カトマンズからバスを乗り継いでほぼ1日掛かり、そこから徒歩で険しい山道を8時間以上歩くとシリンゲに辿り着きます。冬の2月でも朝8時ともなるととても暑く、じっとしていても汗ばむほどで、5月は40度を超えます。
シリンゲへの道が少しずつできています
2010年2月17日からの訪問は、昨年2月、5月に続き、3度目になります。昨年よりも道路が延び、チョンナンプールやナムンダラから歩いていた頃に比べると4時間の短縮になりますが、雨期やその直後は、やはり8時間以上歩く必要があります。 車は7時半にネパールの首都カトマンズを出発。スンコティ、テツ、チャパガウン、レレ、ノルーを経てチョウガリに着く頃にはお昼近くになり、ここでお茶休息をして再び走り始めました。ゴッティケル、チョンナンプール、そしてナムンダラ。チョンナンプールかナムンダラが今まで車で行けた最南端です。ここで、再び休息。村人が宿泊に利用する質素な施設もあります。茶屋に入ると、主人が「おう!また来たね。ナマステ」と笑顔で迎えてくれ、小麦粉を揚げたパンのような、ほんのりと甘く美味しいマルパを頂きました。時間は既に1時半を回っていました。そこへ村人を代表して数人が、コーヒーの実と葉っぱで作った首飾りと国の花ラリグラスを持ち、迎えにきてくれました。この季節は山のあちらこちらに、ラリグラスが咲き、とても綺麗です。
ナムンドラの先に道がなかなか延びなかった理由の一つは、この地の経済的ダメージを恐れる人々の反対があったことでした。道が延びれば、人々はここに留まらず素通りしてしまいます。休憩や食事、宿泊する人が減ってしまうことを危惧して道路延伸に反対していました。しかし、あまりに険しい地理的状況下では、地域全体の人々の暮らしの改善を考えることが必要です。粘り強く説得を重ね、ようやく、その理解を得て、道を延ばすことができるようになりました。
車は新しく切り開いた道を走り、工事中のところに着きました。ここからは4時間になったとはいえ、急斜面の上り下りが待っていて、難所であることに変わりはありません。道路工事にかかわっているミラン・スヌワールさんも、シリンゲ協同組合のメンバーです。作業している所に近づくと、斜面の石や土を砕き除く工事用機械を誇らしそうに指差して、運転席に座ってみろと誘ってくれました。
さあ、この場所から、いよいよ徒歩でいかねばなりません。毎回、往きは張りきっているので良いのですが、帰りは、村の中を歩き回った疲労も加わり、急斜面の道は大変堪えます。そのことが頭をよぎり、気持ちが引き締まりました。
シリンゲの宿へ
村に着くと、変わらず村を見守るようにカレソール山がそそり立っています。自然の厳しさと、そこに住む村人のたくましさを象徴しているかのようです。起伏に富んだ手付かずの自然の中で暮らすこの地域では山猫に家畜が食べられる被害もでています。
今回の目的は、有機証明取得要件が整備されているか、現在の村人がかかえる問題点は何か、今後の生活改善を目指すなかで何ができるかを、各家庭を訪問しながら話し合っていくことです。村での宿泊場所は、シリンゲの中心にある、コーヒー協同組合のメンバー、デゥラルさんのお宅です。メンバーの家々、そして、その畑を見て状況の把握をしながらデゥラルさんの家に到着。昨年訪問した時にバドミントンで一緒に遊んだ子どもたちが待ち構えていて、休む間も与えられず早速バドミントンを始めることになりました。
シリンゲ協同組合のメンバー訪問
シリンゲコーヒー協同組合員は、トップカーストのブラーマンから、チェトリ、タマン、ダリット(アウトカースト)を含み、カーストを超えて仲良く運営しています。理事も同様に多くのカーストを含み、バランスをとっています。これは、法律上はカースト差別が禁止されたとはいえ、いまださまざまな場面に偏見と差別が根強く残るネパール社会にあって、とても画期的なことです。
昼間は、家庭訪問を行うため、村人とのミーティングは全体会議だけ到着翌日の午前中に行い、その他は夕食後の遅い時間に行いました。30分、1時間とかけて、夜道を来るのは大変なことです。それでも皆毎晩集まり、夜12時過ぎまで活発な意見交換をしました。家庭訪問も、滞在が限られているので、真っ暗になるまで時間を惜しんで歩き回りました。いざ帰ろうとすると、誰も懐中電灯を持っていません。この辺一帯を知り尽くしている村人たちも、さすがに暗闇では急斜面を歩けません。私が持参した、いつ消えるかわからない簡易ライト3個をたよりに6人で宿泊場所まで帰ることになりました。
仲間はずれにされる背景とはね返す力
シリンゲコーヒー協同組合のメンバーたちは、教育をほとんど受けていないことやあまりにも貧しいことを理由に、今日に至るまで地域のなかで見下され差別されてきました。
協同組合を設立し代表となったバドリさんはそうした偏見や差別に屈せず16年間コーヒーの市場を細々ながら守ってきました。そんなバドリさんを現在カトマンズでカーゴ会社を経営しているディリーさんとネパリ・バザーロが長年支え続けてきました。更に、協同組合設立の実現には組合員の農民たちの団結とバドリさんに寄せる強い信頼がありました。だまされて土地を取り上げられそうになった時、バドリさんがお金を工面して助けてくれたという人や、コーヒー栽培のことを手取り足取り教えてもらい僅かでも現金収入を得られて助かったという人、自分の利益だけを考えるのではなく、周囲の困窮している人々に手を差し伸べるバドリさんの姿を見てきた人たちが集まり、結束を切り崩そうと激しい圧力がかけられる中、バドリさんを盛り立て支えてきました。
西ネパールのグルミのコーヒー生産者たちに韓国という市場を紹介した私たちは、16年の歳月を経て、ようやく、ここ、シリンゲのコーヒー農民の支援活動に本格的に取組むことができるようになりました。国際基準の有機証明取得を目指し、未組織だった彼らを協同組合に組織化することから始めました。見下してきた人々は、シリンゲの農民たちが年間1トン、2トンのコーヒーを売っていたときはさほど気にしていませんでしたが、ネパリ・バザーロという後ろ盾を得て組織化されては無視できない存在になってしまうと恐れました。そこで、協同組合にできないように妨害を試みましたが、シリンゲを応援するディリーさんの協力と農民たちの強い意志で、それは失敗に終わりました。しかし、彼らの思惑は、次なる画策に繋がっていくことになりました。国際NGOの出先機関やコーヒーブローカーとの思惑、利害とも一致し、結束した彼らは、より強大な力となってシリンゲを孤立させ、大きな組合の下に置いて支配し、力を蓄え自立することを阻もうとしました。これはシリンゲだけでなくどこにも在り得ることだと思いますが、弱い立場の人々は、常にその状況下に置かれ続ける構造がある、ということです。学際的な研究は進み、どのような仕組みを導入すれば生活が向上できるか、などなど理論は明確になってきていますが、それを実践する人の利害や思惑がそれを阻む要因でもあることを教えてくれています。粘り強い挑戦は、これからも続きますが、他者から支配されることをよしとせず自立を目指す志の高い人々を応援できることは光栄で、これまで培ってきた全ての力を注ぎ頑張りたいと思います。
≪バドリさんとケサブさん≫
シリンゲから埃(誇りではなく)にまみれ、よれよれになってカトマンズに戻ってきた完二さんを出迎えたドライバーのラムさんは、別人かと思ったそうです。完二さんを見かけた顔なじみの人たちも口々に完二さん真っ黒だったねと、翌日、うれしそうに私に言いました。体力的にも精神的にも厳しかったはずなのに、本人はたくさんの収穫に興奮気味で疲れも感じないのか元気ではいましたが。
数日後、カトマンズでの打合せに宿まで来てくれたバドリさんもケサブさんも、やはり元気でした。ネパールでは厳しい気候や労働のために皆さん年齢以上に老けてみえますが、バドリさんは完二さんとほぼ同い年。そして、父親と末息子ほど年が離れた二十歳のケサブさんといつも息がぴったりで微笑ましいふたりです。
ケサブさんのご両親の縁結びの神様がバドリさんということで、ディリーさんが「お返しはもらったの?」と突っ込むと、バドリさんはニコニコとケサブさんを指差し「この人がそのお礼さ」と言いました。バドリさんに勝るとも劣らぬ反骨精神の持ち主のケサブさんは、代表のバドリさんの片腕となってシリンゲ協同組合をリードする重要な役割を担い、なくてはならない存在だからです。でも、ケサブさんは下を向き「うちの両親はうまくいかなかったよ。父さんは新しい奥さんと暮らしている」とつぶやきました。両親の関係が悪化したころ、ケサブさんは心臓を患い、将来を悲観したそうです。多くを語りませんでしたが、たくさんの苦労が弱冠二十歳の若者をこれほどしっかりしたおとなに育てたのでしょう。
まだまだ農村部では複数の妻のいる男性が少なくありません。妻を単なる労働力として扱い、一人より二人、三人と考える男性もいるのです。ディリーさんがまたしても「バドリさんは何人?」と突っ込むと、「あれこれ小言を言われてうるさくて、ひとりでも大変なのに、何人もいたらどうなるんだ」と、ぼやきました。バドリさんは妻のカルガーさんを敬って大切にしています。
ケサブさんは一昨年町に出てビジネススクールに入りました。昨年末「農業に興味があるなら、支援しますから専門的に学びませんか?」と、私から声をかけられた時、びっくりしたそうです。「本当は農業の勉強をしたかったけれどそれでは暮らしていけないと諦めた。一度は封殺した想いが叶うなんて信じられない幸運だ。やっぱり神様はいるんだと思った」そうです。シリンゲ協同組合が自立を目指すなら、メンバーの誰かが専門知識をもたないと維持が難しくなります。ケサブさんならぴったりだと思って声をかけたのですが、彼の封印されていた強い想いを知ってこちらも驚きました。
今後のことを相談しつつ、時には冗談も混じえて食事も弾み、夜が更けました。深夜の移動は危険が多いので、名残は尽きなくても帰らねばなりません。皆がそれを意識したその時、突然、「明日の朝、ここで一緒にご飯を食べよう!」とバドリさんが言い出しました。ケサブさんもディリーさんも「明日の朝は完二さんたち日本に帰る日だよ!忙しいから邪魔しちゃだめだよ」と言っても、「それなら、お茶だけでも」とバドリさんは珍しく譲りません。完二さんの「じゃあ、明日の朝、一緒にここでお茶を飲もう!」の一言に、顔をくしゃくしゃにして喜びました。ケサブさんとディリーさんは(しかたないな~)という顔で、バドリさんの腕を掴んで引っ張るようにしながら帰っていきました。
翌朝、集まった私たち。コーヒーとも協同組合とも全く関係のない話題で盛り上がりました。ホーリー祭という休日で、のんびりできる彼らは一向に時間を気にしません。たまりかねた私が腕時計をのぞくと「ああ、もう時間だ。お暇しないと」とディリーが言い出すのですが、また話が続いてしまいます。もう限界!というところで皆やっと腰を上げましたが立ったままさらに話が続いてしまいました。
見送る私たちにバドリさんのとろけそうにやさしい眼が「また来てね」と言うように、何度も何度も振り向きながら去っていきました。
(Verda 2010秋 vol.32より)